夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました

ベルガ・モルザ

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第二十七記録【俺とお前の真ん中で】

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 ネオンの毒々しい光が、アスファルトに転がった私の視界を染めていた。
 膝から鋭い痛みが走る。
 だが、それ以上に頭皮を引き裂かれるような激痛が、私を現実へと引き戻した。

「この泥棒猫! オバサンのくせに!」

 絵里が私の髪を鷲掴みにし、獣のように吠える。
 頭が後ろにのけぞり、悲鳴さえ喉に詰まって出てこない。
 彼女の爪が、私のこめかみを掠めた。
 浴衣の帯が緩み、着崩れた姿は無様そのものだ。

 周囲の通行人たちが、何事かと足を止め、遠巻きに見ている気配がする。
 好奇の目。嘲笑の視線。
 惨めだ。
 三十歳にもなって、路上で若い女に髪を掴まれているなんて。

「やめろ絵里!」

 徹さんが叫び、絵里の腕に飛びついた。
 彼はなりふり構わず、絵里の手首を強く握りしめ、強引に引き剥がす。

「痛っ……!」

 絵里がよろめき、私の髪から手が離れた。
 彼女は乱れた呼吸を整えながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔を徹さんに向けた。

「なによ……! なんでこの女を庇うのよ!」

 彼女は地団駄を踏み、子供のように泣き叫ぶ。

「私の方が若くて可愛いでしょ!? ずっと一緒にいたじゃない! なんでこんな……シワも増えてきたようなオバサンがいいのよ!」

 若さという絶対的な正義を振りかざし、私を否定する。
 その言葉の一つ一つが、鋭利なナイフとなって私のコンプレックスを抉る。

 何も言い返せない。
 彼女の言う通りだからだ。
 私は若くない。彼女のようなハリのある肌も、未来への無限の可能性も持っていない。
 ただの、疲れた人妻だ。

 徹さんが私の前に立ちふさがった。
 背中越しに、彼の怒りが伝わってくる。

「……もう無理なんだ」

 氷のように冷たい声。
 さっきまで私に向けていた、あの甘く情熱的な声とは別人のものだ。

「お前との未来は見えない」

「徹……?」

「俺が愛してるのは、この人だけだ」

 彼は絵里を冷たく見下ろし、決定的な言葉を突きつけた。

「二度と、俺たちにつきまとわないでくれ」

 空気が凍りついた。
 絵里の口が半開きになり、そこから言葉ではなく、ひゅっと空気を吸い込む音だけが漏れた。
 彼女は信じられないものを見るように首を振り、そして、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。

「うあああああああん!!」

 アスファルトに突っ伏し、なりふり構わず泣き叫ぶ。
 絶望の叫び。

 徹さんは一度だけ唇を噛み締めると、震える私の肩を抱いた。

「行きましょう」

 私を促し、逃げるようにその場を後にする。
 背後からは、まだ絵里の泣き声が響いていた。

 私たちは早足でホテル街を抜け、路地裏へと消えた。
 その背中を、無機質なレンズが捉えていることにも気づかずに。
 暗闇の中で光る、赤い録画ランプ。
 探偵のカメラは、感情を持たずに、ただ事実だけを記録し続けていた。

 徹さんのマンションに戻った頃には、日付が変わろうとしていた。
 リビングの照明をつけず、間接照明だけの薄暗い部屋で、私たちはソファに座っていた。

 徹さんが救急箱から消毒液とガーゼを取り出す。
 私の膝は擦りむけて血が滲み、髪は鳥の巣のように乱れていた。

「沁みますよ」

 彼が消毒液を含ませた脱脂綿を、傷口に当てる。
 ツンとする薬品の匂い。
 ジリジリとした痛みが走り、私は小さく体を強張らせた。
 彼は丁寧に、時間をかけて私の傷を手当てしてくれた。
 その指先は優しく、震えていた。

「ごめんね……」

 私がポツリと漏らすと、彼の手が止まった。

「絵里ちゃん、ものすごく怒ってた。……あんなに傷つけて」

 涙が溢れてくる。
 彼女の泣き顔が脳裏に焼き付いて離れない。
 同じ女として、愛する人を奪われた痛みが痛いほどわかるからだ。

「私なんかと出会わなければ……徹さんは、彼女とうまくいってたのかもしれないのに」

 罪悪感が胸を押し潰す。
 私は、若い二人の未来を壊した魔女だ。

 徹さんはガーゼをテープで固定すると、ふぅと深く息を吐き出した。
 そして、私の顔を両手で包み込んだ。

「違います」

 彼は私の瞳を覗き込み、静かに首を振った。

「絵里は……高校の後輩なんです。ずっと、俺を追いかけてきてくれた」

 彼は独白するように語り始めた。

「大学も俺と同じところを受けて、俺のために、すべてを合わせてくれた」

 一途な愛。
 私には眩しすぎるほどの純情。

「でも……長く付き合えば付き合うほど、苦しくなったんです」

 彼の声に、暗い影が落ちる。

「彼女の重さに。俺がいなきゃ生きていけないという依存に。……絵里と一緒にいると、俺の心が死んでいく気がして」

 彼は苦しげに眉を寄せた。

「だから、洋子さんと出会ってなくても……遅かれ早かれ、別れてました。限界だったんです」

 それは、私への愛の言葉のように聞こえた。
 でも、どこか空虚で、自己正当化の響きが含まれているようにも感じられた。

 自分が楽になりたいから、彼女を切り捨てた。
 その罪悪感を、私という運命の人を理由にすることで消そうとしている。

 パシャッ。

 水音がした。
 視線を横に向けると、明菜が水ヨーヨーを指で弾いて遊んでいた。
 彼女はヨーヨーのゴムを指に絡ませながら、冷めた目で徹さんを見下ろしている。

『……その通りよ』

 明菜はヨーヨーを掌で弾ませた。

『医学的に言うと「サンクコスト効果(埋没費用)」の呪縛ね。長く付き合ったから、かけた時間や情熱がもったいなくて別れられない。それはただの経済学的な錯覚よ』

 彼女はヨーヨーを徹さんの頭上スレスレに投げた。

『脳科学的にはね、新しい刺激がない関係は、ドーパミンが枯渇して、いずれ破綻する運命だったの。彼は洋子という新しいドラッグを見つけたから、古い薬(絵里)を捨てただけ。……ま、アンタが泥棒猫なのは事実だけどね』

 明菜の言葉は辛辣だが、妙に腑に落ちた。
 私たちは運命の恋人同士なんかじゃない。
 互いに欠落した部分を埋め合うために、他人を食い物にする共犯者なのだ。

 徹さんの目から、一筋の涙がこぼれた。
 彼もまた、傷ついているのだ。
 自分の手で、かつて愛した女を殺した感触に震えている。

 私は彼を抱きしめた。
 母性本能と、愛欲が混じり合った感情で。

「……忘れよう」

 私は彼の髪を撫でた。

「何もかも忘れて……今は、私だけを見て」

 彼はすがるように私に口づけをしてきた。
 傷を舐め合うような、切実で、濡れたキス。
 私たちはそのままソファに倒れ込み、現実から目を背けるように体を重ねた。
 痛みも、罪も、すべて快楽の中に溶かすように。

 お盆休み最終日の昼下がり。
 私は徹さんのマンションを後にし、自宅である団地へと戻っていた。
 剛が青森から帰ってくるのは、今日の夕方だ。
 その前に帰宅し、何食わぬ顔で妻の座に戻らなければならない。

 部屋に入ると、ムッとした熱気が籠っていた。
 何日も閉め切っていた部屋特有の、埃っぽい匂い。
 ここが私の現実だ。

 私は窓を開け放ち、すぐにシャワーを浴びた。
 体中に染み付いた徹さんの匂い、コロンの香り、そして情事の記憶を、熱いお湯で洗い流す。
 髪を丁寧に洗い、普段使っている安物のシャンプーの香りを纏う。
 証拠隠滅。

 風呂から上がると、私は家事マシーンと化した。
 溜まっていた洗濯物を回し、掃除機をかけ、冷蔵庫の食材を確認する。
 剛が帰ってきた時に、「ずっとここで大人しく待っていました」という顔をするために。

 寝室に入る。
 クローゼットの前に、剛が脱ぎ捨てたままにしていたスーツがハンガーにかかっている。
 お盆前に着ていた夏物のグレーのスーツだ。
 汗とタバコの臭いが染み付いている。

「……クリーニング、出さなきゃ」

 私は独り言を呟き、スーツを手に取った。
 ポケットの中身を確認する。
 クリーニングに出す前の、主婦のルーティンだ。

 ハンカチ、ちり紙、レシートのクズ。
 ズボンのポケットは空だ。
 上着の内ポケットに手を入れる。

 指先に、硬い箱のようなものが触れた。
 タバコ?
 いや、剛の吸っている銘柄とは手触りが違う。

 私はそれを取り出した。
 紫色の、小さな紙のマッチ箱だった。
 表面には金色の箔押しで、達筆な文字が書かれている。

『スナック 貴婦人』

 近くにある店だろうか。
 何気なく、箱を裏返した。

 ドクン。

 心臓が大きく跳ねた。
 裏面の白いスペースに、青いボールペンで、丸文字の走り書きがされていた。

『2回目も激しく抱いて♡ ママより』

 時が止まった。
 蝉の声が遠のく。

 2回目。
 激しく抱いて。
 ハートマーク。

 意味を理解するのに、数秒かかった。
 そして、理解した瞬間、私の口から漏れたのは怒号ではなかった。

「……ふっ」

 笑いだった。
 乾いた、冷たい笑い。

「あはは……」

 私はマッチ箱を握りしめ、肩を震わせて笑った。

 なーんだ。
 あなたも同じじゃない。

 実家に帰る?
 親父の体調が悪い?
 全部嘘。

 結局、あなたも羽を伸ばして、スナックのママとよろしくやっていただけ。
 レシート一枚で私をあんなに責め立てて、犯罪者扱いして、自分は正義の味方みたいな顔をして。
 その裏で、こんな安っぽいマッチ箱をポケットに入れて浮かれていたなんて。

 滑稽だ。
 あまりにも滑稽で、哀れで、笑いが止まらない。

 そして次に湧いてきたのは、底知れない「安堵」だった。
 これで、対等だ。
 私だけが有罪なのではない。あなたも有罪だ。

 このマッチ箱は、ただのゴミではない。
 私がこの泥沼の戦争を生き抜くための、最強の武器だ。

 こっちだって、突きつける材料を手に入れたのだから。

 私はマッチ箱を、自分の化粧ポーチの奥底、生理用品を入れるポケットの中に隠した。
 ここなら、剛は絶対に見ない。

 鏡を見る。
 そこには、口角を吊り上げ、冷酷な光を宿した女の顔があった。

 夕方六時。
 玄関の鍵が開く音がした。

 ガチャリ。

「ただいまー」

 剛の声だ。

 私はエプロンで手を拭き、小走りで玄関へ向かった。
 ドアを開けると、日焼けして、少し疲れた顔の剛が立っていた。
 手には土産の菓子折りを持っている。

「あー疲れた。新幹線、混んでてさ」

 彼は靴を脱ぎながら、大げさに肩を回した。

「実家も気を使うよな。親父の愚痴聞かされて、参ったよ」

 嘘つき。
 よくもまあ、そんなスラスラと。

 でも、今の私にはその嘘さえ愛おしい。
 あなたが嘘をつけばつくほど、私の罪は軽くなるのだから。

 私は完璧な笑顔を作った。
 良き妻の、従順な仮面。

「おかえりなさい。大変だったね」

 声をワントーン上げる。

「お義父さん、大丈夫だった?」

「ああ、まあな。……お前も、ゆっくりできたか?」

 剛が探るような目で私を見る。
 以前なら、この視線に怯えていただろう。

 でも今は違う。
 私は彼の目を見つめ返し、にっこりと微笑んだ。
 その瞳の奥で、彼を見下しながら。

「ええ、おかげさまで。久しぶりにのんびりさせてもらった」

 剛は少し拍子抜けしたように、「そうか」と視線を逸らした。
 彼はまだ気づいていない。
 自分が裁く側ではなく、裁かれる側に回ったことを。

「あ、忘れてた」

 私は何気ない調子で言った。

「スーツ、クリーニングに出してくるね」

「おう、頼むわ」

 剛は、無防備にリビングへと入っていく。

 私は寝室から彼のスーツを抱えて出てきた。
 そのポケットにはもう、何もない。

 でも、私の手の中には、彼を破滅させるためのロープがしっかりと握られている。

 私はスニーカーを履き、外へ出た。
 夕暮れの風が、火照った頬に心地よい。

 団地の階段を降りながら、私は空を見上げた。
 カラスが鳴いている。

 戦争の準備は整った。
 さあ、始めましょうか、剛さん。
 どちらが先に地獄へ落ちるか、勝負よ。

【明菜先生の研究メモ】

被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職/反逆者

■ 現在のステータス
・所持アイテム:「汚れたマッチ箱」
 (攻撃力+100/精神安定効果あり)
・メンタル:鋼
 (罪悪感が消滅し、闘争心が覚醒)
・夫への評価:「敵」から「滑稽なピエロ」へ格下げ

■ 明菜の分析ログ

 「目には目を、歯には歯を、不倫には不倫を」。
 ハンムラビ法典もびっくりの報復原理ね。

 夫のポケットから出てきたマッチ箱は、洋子にとってパンドラの箱じゃなかった。
 希望の箱だったのよ。

 「相手も悪いことをしている」と知った瞬間、人間は驚くほど強気になる。
 自分の罪を棚に上げて、対等な立場だと錯覚できるから。

 これで洋子は、探偵の写真を突きつけられても動じないわ。
 「あなただって」という切り返しが用意できたんだもの。

 さあ、お互いに爆弾を隠し持った夫婦の、冷戦の始まりよ。
 トリガーを引くのは、どっちかしら?
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