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第二十八記録【会社に響く罵声と、政略の檻】
しおりを挟むお盆休み明けのオフィスには、独特の倦怠感が漂っていた。
午前10時。
窓の外は相変わらずの猛暑だが、空調の効いたフロア内はひんやりとしている。
あちこちのデスクには、帰省先や旅行先で買ってきた土産の菓子折りが積まれ、業務連絡よりも「休みどうだった?」という私語の方が多く飛び交っている。
私も例に漏れず、休みボケの頭を無理やり働かせ、溜まった書類の整理をしていた。
指先がキーボードを叩くが、意識はここにはない。
愛の記憶――川遊びの冷たい水、夏祭りの熱気、そして徹さんの腕の中の温もり――が、甘い靄となって脳裏にこびりついている。
ふと視線を感じて顔を上げると、斜め前の席の徹さんと目が合った。
彼は電話の受話器を耳に挟んだまま、ほんの一瞬、目尻を下げて微笑んだ。
それだけで、胸の奥がキュンと鳴る。
私たちは共犯者だ。
誰にも言えない、特別な関係。
その甘い余韻に浸っていた時だった。
プルルルル……。
内線電話の無機質な音が、私のデスクで鳴った。
受話器を取る。
「はい、営業三課です」
『あ、佐々木さん? 受付の松本ですけど……』
受付の女の子の声が、困惑しているように震えていた。
『あの……高橋係長に、面会の方がいらしてるんですが』
「高橋係長に? お約束の方ですか?」
『いえ、アポはないっておっしゃってるんですけど……どうしても通せってきかなくて』
背筋に冷たいものが走った。
アポなしの来客。強引な態度。
嫌な予感がする。
「……お名前は?」
『えっと……それが、名乗らないんです。「私の顔を見ればわかる」とか、「早く呼べ」とか……かなり興奮されてて』
受話器の向こうから、何かを喚く高い声が微かに漏れ聞こえてくる。
その声質に、聞き覚えがあった。
まさか。
私は受話器を保留にし、徹さんの席へと歩み寄った。
「高橋係長。……受付にお客様です」
小声で告げる。
徹さんは電話を切り、怪訝な顔をした。
「僕に? 誰だろう。この時間はアポ入れてないはずだけど」
「女性です。かなり、怒っているようで」
私が意味ありげに目配せをすると、徹さんの顔色が変わった。
彼も察したのだろう。
絵里だ。
「……わかった。行ってくる」
彼は席を立ち、早足でフロアの入り口へと向かった。
その背中を見送りながら、私は祈るような気持ちで胸の前で手を組んだ。
頼むから、穏便に済ませて。
ここはお盆休み中のホテル街の路上じゃない。
会社なのだ。
しかし、私の祈りは数秒後に打ち砕かれた。
「通しなさいよ! 離して!」
フロアの入り口付近から、ヒステリックな怒鳴り声が響き渡った。
静かだったオフィスが一瞬で凍りつく。
社員たちが驚いて顔を上げ、声のする方を見た。
バンッ!!
両開きの扉が乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、徹さんと、彼を振り払って突進してくる派手な服装の女だった。
先日の夏祭りの時と同じ、いや、それ以上に狂気じみた形相をしている。
長いソバージュヘアは乱れ、ブランド物のバッグを武器のように振り回している。
「おい、君! 困るよ!」
警備員が慌てて追いかけてくるが、彼女の勢いは止まらない。
カツ、カツ、カツ!
攻撃的なハイヒールの音が、リノリウムの床を叩く。
「佐々木洋子はどこよ!!」
彼女はフロアの中央で立ち止まり、金切り声を上げた。
「出てきなさいよ! この泥棒猫!!」
名前を呼ばれた。
フルネームで。
瞬間、フロアにいた二十人以上の視線が、一斉に私に集まった。
好奇、驚愕、疑惑。
無数の目が私を射抜く。
私は自分のデスクの前に立ち尽くしたまま、動けなくなった。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
足が震えて、膝が笑っている。
終わった。
何もかも、終わった。
徹さんが必死の形相で絵里の腕を掴んだ。
「やめろ絵里! ここは会社だぞ! 外に出ろ!」
「うるさいっ! 放してよ!」
絵里は徹さんを力任せに突き飛ばした。
小柄な彼女のどこにそんな力があるのかと思うほどの馬鹿力だ。
徹さんがよろめき、近くのデスクに腰をぶつける。
「な、なにごとだ!」
奥の個室から、部長が飛び出してきた。
彼は顔を真っ赤にして怒鳴ろうとしたが、絵里の顔を見た瞬間、その表情が凍りついた。
「き、君は……」
部長の声が震える。
「大沢社長の……お嬢さん!?」
え?
私は耳を疑った。
周囲の社員たちもざわめき始める。
「大沢社長? うちの大株主の?」
「取引先の大沢商事の令嬢か?」
絵里は部長の方を向き、顎をしゃくって傲然と言い放った。
「そうよ! パパに言いつけてやるんだから! こんな社員教育もできてない会社、取引停止にしてやるって!」
「お、落ち着いてくださいお嬢さん! 一体何が……」
部長が額の汗を拭いながら、揉み手をして近づく。
態度の急変ぶりが滑稽だが、笑っている場合ではない。
絵里は徹さんを指差した。
「そこの高橋徹はね! 私と結婚して、将来この会社の役員になる約束で入社したのよ!」
――っ!
衝撃が走った。
頭をハンマーで殴られたような衝撃。
私は徹さんを見た。
彼は真っ青な顔で俯き、拳を握りしめている。
否定しない。
事実なのだ。
彼が社長の遠縁だとは聞いていた。
でも、それは単なる縁故だと思っていた。
まさか、取引先のご令嬢との結婚を前提とした、政略的な入社だったなんて。
じゃあ、何?
彼は私に「絵里とは別れる」と言ったけれど、それは自分の出世や将来を捨てることと同義だったの?
いや、そもそも彼はそんな覚悟を持って私と付き合っていたのだろうか。
それとも、結婚までの火遊びのつもりだったのか。
疑念が黒い煙となって、私の心を覆い尽くす。
「なのに!」
絵里は私の方に向き直り、鬼のような形相で叫んだ。
「このオバサンが、私の婚約者をたぶらかしたのよ! 既婚者のくせに! 私知ってるんだからね!」
既婚者。
その言葉が、決定的な楔となって空気を裂いた。
「えっ……」
「佐々木さん、不倫?」
「しかも高橋係長と?」
「政略結婚を蹴ってまで?」
ヒソヒソ声が波紋のように広がる。
好奇の目は、軽蔑の色を帯びて私を突き刺す。
「不貞な妻」
「身の程知らずのパート主婦」
「若い男を誑かした魔女」
そんなレッテルが、次々と私に貼り付けられていく。
息ができない。
視界がぐるぐると回る。
誰か助けて。
徹さん、助けて。
私は縋るような目で彼を見た。
彼は顔を上げた。
私と目が合う。
その瞳に浮かんでいたのは、愛情でも、決意でもなかった。
苦渋と、諦め。
徹さんが動いた。
彼は私の方へ来るかと思った。
私の前に立ち、「彼女は悪くない」と庇ってくれると信じていた。
しかし。
彼は、絵里の肩を抱いた。
「……!」
私の呼吸が止まる。
徹さんは絵里を私から引き離すように、その体を抱き寄せたのだ。
「……絵里、落ち着け。場所を変えよう」
彼は優しく、諭すように告げる。
「離してよ! 私は被害者なのよ! この女をクビにしてよ!」
絵里が彼の腕の中で暴れる。
「わかってる。わかってるから……頼むから静かにしてくれ」
徹さんは絵里の背中をさすり、宥めるように頷いた。
その姿は、まるでワガママな恋人をあやす彼氏そのものだった。
「部長、すみません。彼女を落ち着かせるために、少し席を外します」
「あ、ああ。頼むよ高橋君。大沢社長のお嬢さんを怒らせたら大変だ」
部長が安堵したように手を振る。
徹さんは絵里の肩を抱いたまま、奥の応接室へと連れて行った。
去り際、彼は一度も私を振り返らなかった。
残されたのは、私一人。
そして、冷ややかな視線を向ける同僚たち。
裏切られた。
彼は選んだのだ。
私ではなく、絵里を。
愛ではなく、権力を。
自分の保身のために、私を見捨てて、あっち側へ行ったのだ。
嘘つき。
私だけって言ったのに。
守るって言ったのに。
胃の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
ここにいてはいけない。
一秒でも長くここにいたら、私は壊れてしまう。
私は震える手でバッグを掴んだ。
「……佐々木さん?」
堀さんが恐る恐る声をかけてくるが、何も聞こえない。
私は脱兎のごとく駆け出した。
エレベーターを待つ余裕もなく、非常階段の重い扉を押し開け、転がり落ちるように階段を駆け下りた。
カツ、カツ、カツ、カツ!
ヒールの音が、私の心臓の鼓動と重なって響く。
涙で視界が滲み、足元がおぼつかない。
それでも私は走った。
現実から、視線から、そして彼への想いから逃げるために。
会社近くの公園。
真昼の太陽が容赦なく照りつけるベンチに、私は力なく座り込んでいた。
砂場では、数人の子供たちが泥だらけになって遊んでいる。
母親たちが木陰で談笑している。
平和な午後。
私だけが、世界から切り離された異物のようにそこにいた。
汗が噴き出し、化粧が崩れているのがわかる。
でも、拭う気力もない。
自分が犯した罪の重さが、今更ながらにのしかかってくる。
不倫。
家庭崩壊。
そして、会社の秩序を乱し、大株主の令嬢を敵に回したこと。
私はもう、あの会社にいられないだろう。
退職は免れない。
いや、懲戒解雇かもしれない。
この年で、職を失い、夫とも離婚し、不倫相手にも捨てられたら……。
絶望で目の前が真っ暗になる。
『……ひどい顔ね』
ジャングルジムの頂上に、明菜が座っていた。
彼女は日傘を回しながら、私を見下ろしている。
『メークはドロドロ、髪はボサボサ。今のアンタ、さっきの絵里とおんなじ顔してるわよ』
絵里と一緒にしないでよ。
放っておいて。
『絵里のあの罵倒、心理学的には「投影性同一視」ってやつね。自分の自信のなさや不安を、アンタという「悪者」を作り出して攻撃することで埋めてるの。「私は被害者だ」「私は正しい」って叫ぶことで、自分が選ばれなかったという惨めな現実から目を逸らしてるだけ』
明菜はジャングルジムから飛び降り、私の隣に座った。
『で、徹の行動だけど。あれは「危機管理本能」の最たるものね』
彼女は足を組み、冷静に解説する。
『あの場で一番権力があるのは誰? 部長? 違うわね。バックに社長がいる絵里よ。彼女が暴れれば、会社の株価にも関わるし、徹のクビも飛ぶ。
だから、まずはこの猛獣を鎮めるのが最優先事項だったの』
明菜は私の顔を覗き込んだ。
『彼はアンタを捨てたんじゃない。アンタを守るために、あえてアンタを無視して、猛獣を檻に入れたのよ。あの場でアンタを庇ってたら、火に油を注ぐだけだったでしょ?』
そんなの、言い訳。
私は膝の上で拳を握りしめた。
理由なんてどうでもいい。
……彼は、私の目の前で他の女を選んだ。
それが事実。
理屈ではわかる。
明菜の言う通り、あそこで私を庇ったら事態はもっと悪化していただろう。
でも、感情が追いつかない。
あの時の彼の背中が、あまりにも遠く感じられたから。
悔しい。
悲しい。
惨めだ。
でも。
心の奥底から湧き上がってくるのは、諦めではなかった。
ドロリとした、熱い執着。
「……でも、渡さない」
私は呟いた。
「あんな女に……徹さんは渡さない」
政略結婚? 社長の娘?
知ったことか。
彼が私を愛していると言った言葉を、私は信じる。
いや、信じたいのではない。
意地でも手放さないと決めたのだ。
私がここまで堕ちたのだから、彼も道連れにする。
地獄の底まで一緒に行くの。
その時。
ズキッ。
下腹部に、鋭い痛みが走った。
生理痛とは違う、チクリとするような違和感。
「っ……」
私はお腹を押さえてうずくまった。
ストレスのせいだろうか。
それとも、この暑さのせいか。
そういえば。
今月、まだ来ていない。
予定日から、もう二週間近く過ぎている。
まさか。
思考の隅に浮かんだ可能性を、私は慌てて打ち消した。
そんなはずはない。
タイミング的にも、避妊もしていたはずだし……。
夫とは、もう何年もレスだ。
この数年、指一本触れさせていない。
だから、もし妊娠しているとしたら、相手は一人しかいない。
徹さんだ。
あのホテルの日。
理性が飛んで、記憶が曖昧な瞬間がなかったとは言い切れない。
私はお腹に手を当てたまま、遊んでいる子供たちを見た。
無邪気な笑い声。
生命の輝き。
私の体の中で、何かが始まっているのかもしれない。
それが希望なのか、それとも決定的な破滅の種なのか、今の私にはわからなかった。
ただ、痛みだけが、確かな現実としてそこにあった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職(解雇寸前) / 執着者
■ 現在のステータス
・社会的地位:崩壊(社内不倫が公然の事実に)
・精神状態:限界突破(絶望の果てに執着が純化)
・身体状況:黄信号(腹痛と月経遅延)
■ 明菜の分析ログ
権力という暴力の前に、愛なんて無力ね。
絵里のバックボーンを知った時の洋子の顔、見ものだったわ。
「純愛」だと思っていたものは、実は最初から条件付きの契約だった。
それに気づいた瞬間、人は壊れるか、狂うか、どちらかしか選べない。
洋子は後者を選んだ。
さて――次に壊れるのは、誰かしら。
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