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第二十九記録【都会にはびこる哀れなアンドロイド】
しおりを挟む午後五時を過ぎても、東京の街は茹だるような暑さに包まれていた。
私は、都内の繁華街を亡霊のように彷徨っていた。
会社を飛び出してから数時間。
どこをどう歩いたのか、記憶が定かではない。
気がつけば知らない駅の前にいて、また歩き出し、信号が変わるたびに人の波に流される。
汗が滝のように流れ、ファンデーションはドロドロに溶け落ちているだろう。
髪も乱れ、ブラウスは背中に張り付いている。
すれ違う人々が、不審なものを見る目で私を避けていく。
当然だ。
今の私は、社会的な死体なのだから。
あのオフィスでの修羅場。
絵里の罵声。
同僚たちの冷ややかな視線。
そして、私を庇わずに絵里を選んだ徹さんの背中。
すべてが走馬灯のように脳内でリピートされ、そのたびに吐き気がこみ上げる。
もう、あの会社には戻れない。
明日出社しても、待っているのは懲戒解雇の通達か、あるいは針の筵のような自主退職への圧力だけだ。
職を失い、名誉を失い、不倫相手にも見捨てられた女。
『ねえ、どこ行くの?』
隣を歩く明菜が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
彼女も暑いのか、いつものボディコンではなく、ラフなTシャツ姿で私の歩調に合わせていた。
『水分摂らないと倒れるわよ。……ねえってば』
返事をする気力もない。
喉はカラカラだが、水を飲みたいとも思わない。
『アンタ、もう会社戻れないわね。伝説になったわよ、あんな修羅場』
明菜は私の顔の周りで手を叩き、反応を確かめる。
『おーい。生きてる? 脳みそショートしちゃった?』
彼女の声が、遠いラジオのノイズのように聞こえる。
普段ならうるさいと感じるそのお喋りも、今はただの環境音だ。
私の世界は、分厚いガラス一枚隔てた向こう側にあるように、現実感を失っていた。
日が暮れ、街にネオンが灯り始める。
赤、青、黄色。
欲望の色が、私の網膜を焼く。
足が棒のようだ。
もう歩けない。
でも、どこへ行けばいい?
帰らなきゃ。
本能がそう告げていた。
徹さんのマンションへ?
いいえ、あそこはもう私の避難所ではない。
実家?
そんな顔向けできない。
足が勝手に向かう先は、ただ一つ。
あの団地。
夫の待つ、あのコンクリートの箱。
あそこは地獄だ。
わかっている。
でも、地獄しか帰る場所がない亡者は、そこへ戻るしかないのだ。
団地の重い鉄の扉の前に立つ。
ドアノブに手をかけると、冷たい金属の感触が掌に伝わった。
ガチャリ。
鍵は開いていた。
ゆっくりとドアを開ける。
リビングの明かりがついている。
いつもならテレビの音が聞こえるはずの時間だが、今日は不気味なほど静まり返っていた。
靴を脱ぎ、廊下を進む。
リビングの入り口。
そこに、剛がいた。
ダイニングテーブルに座り、腕組みをして、入り口を睨みつけている。
テーブルの上には、食事も、ビールもない。
ただ、茶色い封筒が一つ、置かれているだけだ。
「遅かったな」
低い声。
怒鳴り声ではない。
これから始まる断罪を、楽しみに待っていた裁判官のような声。
「……」
私は何も答えず、彼の向かいの椅子に座った。
足が震えて、立っていられなかったからだ。
剛は私を一瞥すると、顎でテーブルの上の封筒をしゃくった。
そして、乱暴にそれを掴み、逆さにして中身をぶちまけた。
バサッ。
数枚の写真が、扇形に散らばる。
そこに写っていたのは、紛れもない私だった。
夏祭りの夜。
浴衣姿で、狐の面をずらして徹さんと笑い合っている写真。
しっかりと繋がれた手。
ホテル街の路上。
絵里に髪を掴まれ、無様に転がっている写真。
それを庇う徹さんの姿。
鮮明だ。
言い逃れようがないほど、くっきりと写っている。
あの日、あの時、私たちが感じていたスリルの裏側で、冷徹なレンズがシャッターを切っていたのだ。
「これ、なんだかわかるよな?」
剛が写真を指で弾く。
「俺が汗水垂らして働いてる間に、若い男とよろしくやってたわけだ」
剛の目は笑っていなかった。
軽蔑と、優越感。
妻の裏切りに傷ついた夫の顔ではない。
以前、スーパーでレシートを見つけた時と同じ。
獲物を追い詰め、いたぶることを楽しんでいる目だ。
「恥ずかしくないのか? 三十過ぎた人妻が、みっともない」
彼は鼻で笑う。
「お前みたいな欠陥品、俺が拾ってやったのに。恩を仇で返しやがって」
欠陥品。
その言葉が、私の心の奥底にある残り火に油を注いだ。
でも、私はまだ黙っていた。
剛の話には、続きがあるような気がしたからだ。
「……今朝、会社で大変だったらしいな」
剛がニヤリと笑う。
「社長令嬢が乗り込んできて、大騒ぎになったんだって?」
私は顔を弾かれたように上げた。
「どうして、それを」
会社での出来事は、今日の午前中のことだ。
剛が知っているはずがない。
まさか、そこまで探偵が監視していたのか?
「俺が教えたんだよ」
剛は勝ち誇ったように言った。
「は……?」
「昨日、実家から戻ってすぐに探偵から報告を受けたんだ。この写真を見せられてな」
彼は修羅場の写真を指差す。
「ここに写ってる女。若い女だ。探偵に調べさせたら、すぐに身元が割れたよ。で、昨日の夜のうちに、俺が電話してやったんだ」
悪魔のような笑み。
「『お宅の彼氏さんが付き合ってる女は、うちの妻です。既婚者です』ってな」
思考が停止した。
絵里が会社に乗り込んできたのは、偶然じゃなかった。
剛が――私の夫が、わざと彼女に情報をリークし、焚きつけたのだ。
「お前が会社でどんな顔するか、見たかったなあ。
若い男も、社長令嬢も、お前も、全員地獄を見ればいい」
「……っ!」
恐怖よりも先に、湧き上がってきたのは呆れだった。
そして、冷え切った怒り。
この男は、私が不倫をしたこと自体よりも、私を社会的に抹殺することに執着している。
妻を取り戻したいわけでも、愛しているわけでもない。
ただ、自分の所有物が勝手な真似をしたことへの報復として、徹底的に壊そうとしているのだ。
底意地が悪い。
陰湿すぎる。
これが、私が十年間連れ添った男の正体か。
以前の私なら、泣いて謝っていただろう。
「ごめんなさい、許して」と縋り付いていただろう。
でも、今の私は違う。
もう、失うものなんて何もない。
会社も、社会的信用も、彼の手によって壊されたのだから。
私は無言でバッグを引き寄せ、化粧ポーチを取り出した。
震える指でファスナーを開ける。
ポーチの奥底、生理用品を入れるポケットの中に、それはあった。
紫色の、小さな箱。
私はそれを取り出し、テーブルの上に置いた。
散らばった写真の山の上に、コトリと音を立てて。
裏面を上にして。
『2回目も激しく抱いて♡ ママより』
青いボールペンの文字が、蛍光灯の下で主張する。
剛の視線が、それに吸い寄せられた。
一瞬、彼が何を見ているのか理解できないような顔をした。
そして次の瞬間、目を見開き、顔色が土色に変わった。
「……あなただって、汚いじゃない」
私の声は、驚くほど冷静だった。
「な、なんだこれ……」
剛の声が裏返る。
「いつの間に……」
「お盆休みの前。あなたが脱ぎ捨てたスーツをクリーニングに出す時、ポケットに入ってた」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「お義父さんの看病に行ってたんじゃないの?『2回目も激しく』って、看病の隠語?随分と熱心な看病なのね、スナックのママ相手に」
剛の唇がわなわなと震えだした。
図星を突かれた狼狽。
そして、自分が見下していた妻に反撃されたことへの屈辱。
彼の顔が、一気に沸騰したように赤くなる。
バンッ!!
剛がテーブルを力任せに叩いた。
写真が舞い上がる。
「バカ野郎!!」
怒鳴り声。
唾が飛ぶ。
「一緒にするな! 俺は男だぞ!!」
出た。
いつもの論理。
「これは付き合いだ! 仕事の延長みたいなもんだ!スナックの女とちょっと遊んだくらいで、ガタガタ抜かすな!」
彼は立ち上がり、私を見下ろして叫び続けた。
「お前の本気(不倫)とはわけが違うんだよ!女が外で男作って、体許すのと一緒にするんじゃねえ!」
あまりにも身勝手な言い分。
男は遊びなら許される。
女は心も体も汚れるから許されない。
昭和の男が信仰する、腐ったダブルスタンダード。
呆れて言葉も出ない私のかわりに、テーブルの端に座った明菜が口を開いた。
彼女はどこから取り出したのか、おもちゃのマイクを握りしめ、高らかに実況を始めた。
『出ましたー! 伝家の宝刀「付き合いだから」!』
明菜の声が、私の脳内に響き渡る。
『昭和の男が使う、もっとも卑怯で論理破綻した免罪符です!仕事? 付き合い? 笑わせるわね。医学的に言えば、性欲処理に「仕事」も「付き合い」もありません。あるのは、前頭葉の理性が働かずに下半身直結で動いた「快楽への逃避」だけ!』
明菜はマイクを剛の方に向け、嘲笑う。
『男の浮気は許されるなんて生物学的な根拠、どこにもないのよ?ただの甘え。ただのエゴ。そんな寝言は寝て言えっての!』
彼女は私に向き直り、力強く頷いた。
『バッサリいっちゃいなさい、洋子選手!今こそ、その腐った性根を叩き直す時よ!』
明菜の言葉に、背中を蹴り飛ばされたような気がした。
腹の底から、熱いマグマが噴き上がってくる。
今まで言えなかったこと。
飲み込んできた不満。
寂しさ、惨めさ、虚しさ。
それら全てが、言葉となって喉元までせり上がってくる。
私は立ち上がった。
椅子がガタッと倒れる音も気にせず。
「なら、私も女よ!!」
喉が裂けんばかりの叫びだった。
剛がビクリと肩を震わせ、後ずさる。
私がこんな大声を出すなんて、結婚してから一度もなかったからだ。
「男だからなに!? 付き合いだからなに!?じゃあ、家で待ってる私の気持ちは!?何年も私を放置して、女としての自信も、生きる喜びも、全部奪っておいて!」
涙が溢れてくる。
悲しみの涙ではない。
怒りの涙だ。
「寂しい思いをさせておいて……自分は外で付き合いだからで済ませるなんて、虫が良すぎるんじゃない!?」
私はテーブルの上の写真を鷲掴みにし、剛の顔めがけて投げつけた。
ヒラヒラと舞い散る写真が、彼の顔に当たる。
「私は家政婦じゃない!あなたの飯を作って、パンツを洗うだけの機械じゃない!感情のある、生身の人間なのよ!!」
肩で息をする。
ゼェ、ゼェ……。
全部、言った。
十年分の膿を、全部吐き出した。
剛は言葉を失っていた。
顔を真っ赤にし、わなわなと唇を震わせているが、反論が出てこない。
「俺は男だ」という鎧を剥がされた彼は、ただの情けない中年男でしかなかった。
沈黙。
時計の秒針の音だけが響く。
決定的な亀裂。
もう、繕うことはできない。
元の仮面夫婦には、絶対に戻れない。
私は彼を睨みつけたまま、荒い呼吸を整えようとした。
その時。
うっ……。
胃の奥から、強烈な酸っぱいものがこみ上げてきた。
激情のせいではない。
もっと生理的で、抗いがたい拒絶反応。
私は口元を押さえ、トイレへと駆け出した。
背後で剛が何か叫んでいたが、もう耳には入らなかった。
私の体の中で、何かが確実に変わり始めていた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名: 佐々木 洋子(30)
職業: 事務職(解雇確定) / 反逆者
■ 現在のステータス
・攻撃力: 限界突破(夫への完全なる反撃に成功)
・夫婦関係: 消滅(修復不可能なレベルで決裂)
・身体異常: 赤信号(強烈な吐き気=つわり?)
■ 明菜の分析ログ
「私も女よ!」
よく言ったわね。それが聞きたかったのよ。
夫の論理は典型的な「ダブルスタンダード」。
自分は特別、自分は許されるという甘え。
それを真正面から叩き潰した洋子の叫びは、爽快ですらあったわ。
マッチ箱という小さな武器が、巨大な城壁(夫のプライド)を崩壊させた。
でも、戦いはこれで終わりじゃない。
最後のトイレへのダッシュ。
あれはただの体調不良じゃないわよね?
さあ、いよいよクライマックス。
離婚届と一緒に、突きつけられる「もう一つの事実」とは?
神様は、まだ洋子に試練を与えるつもりみたいね。
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