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白兎は砂糖菓子みたいに甘くない。
しおりを挟む近頃、巷で噂になっている喫茶店、アリスガーデンを営む商会の建物から出てきた白い兎の耳を生やした少女は、クン、と鼻をひくつかせた。
一瞬、毛並みを逆立てさせた様に見えたが、直後に、何事もなかった顔をしてその場を去るものだから、彼女を見掛けた目撃者達が狐に摘ままれた顔をしていたのも仕方あるまい。
目深に被って、ふとした拍子に取れないように手で押さえてまでいたフードを呆気なく取り払った彼女は、立ち止まった路地裏の入り口付近で、壁に背中を向けると口を開いた。
「何ついて来てんのよ。気持ち悪いんだけど。」
「酷いなあ、頼りがいのある用心棒だって言ってくれよ。」
「そんなもの要らないって言ってるでしょ。」
白兎の獣人族の中でも、際立って容姿に恵まれたアリスには、次から次に手を伸ばしてくる厄介事に事欠かなかった。
ついには、家族にまで魔の手が迫った事で、里を出る決心を持った彼女は、ひょんな事から知り合った友人の伝手を借りて商売に手を出した。
見事に眠っていた商才を花開かせたアリスは、今や、一躍の時の人として名前のみが知られることとなった。
それまでは容姿目的だったのが、商売敵の不穏な目的による襲撃まで加わり、護衛を雇うよりも先に自身の襲撃対応能力の方がメキメキと成長してしまった事は、アリス本人にとっては良いことだった。
「ったく。下手に出れば、女ってのは調子に乗りやがる。」
だが、彼女に想いを寄せる一人の男からすれば、安心ではあるものの好きな女の目の前で活躍する機会を奪われたも同然である。
商会の上役以外には顔を見せないで来た彼女の素顔を、偶々、目にしてしまったある時の雇われ護衛だった男がストーカーへと変貌したのは、アリスにとっては珍しい事でも何でもなかった。
今日も代わり映えのしない迎撃活動をしようとしていた少女は、しかし、男の合図を境にして現れた男達の──人数差に頬をひくつかせた。
それでも逃げに転じないどころか、冷静に見える女に、男は眉をひそめた。
「……呆れた根性ね。結局、人を物扱いするなんて。予想通りだけどあんたみたいな男にはガッカリするわ。」
「逃げられると思うなよ。」
「逃げようとしてるように見える?節穴とは違って、昔から物事を見る眼だけは良いのよね、私。」
「予想通りだってか。ハッ、まあいい、どうせ泣き喚く事になるんだからな。」
「言うに事欠いて、それが言いたかったの?」
つまんないの。
そう呟いた台詞の直後、男に向かって投げられた物体が地面に打ち付けられると、噴煙が辺りに立ち込めた。
「けほッ、女はどこに行っ……うぐッ?!」
「くそ。何も見えねぇ。ギャッ、や、やめろ!!」
「おいお前らどうしたんだ!!ちくしょう、何が起こって、グエッ。」
気が付けば、煙の中でも見える範囲の近くには、足下に誰かが寝転がっているばかりで立っている者は見付けられなかった。
「誰にやられたんだ?」
兎の獣人は人間よりも非力で、その代わりに、敏捷性が高く警戒心が強い。
持ち前の素早さに物を言わせた白兎によって、見事に撃沈した男共は、遅れて騒ぎに駆け付けた警邏隊に引き取られた。
彼らの頭目と思わしき男の頭に貼り付けられていた紙に、「女の敵 痴漢 三度死ね」と書かれていた文字をまじまじと見ていた一人の男がいた。
既に不審者たちは引っ立てられた直後で、誰も居なくなった路地に佇む男の後ろ姿は、纏う鋭い雰囲気も相俟ってその道数十年の暗殺者ばりの怪しい者に見えなくもなかった。
まさか、その場に、現場からは見えず逆に現場は筒抜けな建物の上にまだ居残っていたアリスが居るとも知らなかった男は、一匹の白兎に少なくない恐怖とーーもしかしたら、不審者を伸したんじゃなくて、勘違いで一般人をヤッてしまったから指名手配されるんじゃ。なんていうーー頓珍漢な不安を植え付けていた。
ちなみに、男の方は、誰も気付かなさそうなその場に残留していた兎の残り香に頬を緩めていた。
それが単なる、男が引き受けた依頼人の問題への糸口だったからか、それとも、別の感情によるものからか。
無論、お互いに正反対の印象を抱いていることは、全く知る由もなかった。
「あれ、アーギル殿。此方には何の御用で?」
その男に、警邏隊を率いてきた、背丈の低い一人の青少年が気が付いて声を掛けた。
然りげ無く、手にしていた紙を折り畳むと、男は声を掛けてきた相手に見えないよう、ポケットにそれを仕舞い込んだ。
腐っても物証だ。仕事柄、疑われるような事は無いに越したことはない。
陽の下に出てきた男は、暗い場所に居た時とは相反して、灰色の髪に美しいアイスブルーの瞳を輝かせる、見るものに好印象を抱かせるに違いない美丈夫としての姿を持っていた。
素早い身のこなしで、危機感を募らせた白兎は、全力で遠ざかっていった後だった。
だが、もしも、まだ彼女が居残りを続行していたのなら、まだ少しは不安を払拭していたやもしれなかったが、最早、後の祭りである。
「あぁ。そうだな、ちょっと捜し物をしていてね。」
「何か無くしたんですか?珍しいですね。」
青少年がキョトンとした顔をするのも無理はなかった。
同僚には頼り甲斐のある人物として、そして、部下からは冷徹な鬼上司として知られているこの人物は、近しい者の間では几帳面な事でも知られていた。
その証拠として、一度も遅刻欠勤をした事のない記録を更新し続けている彼に、彼を知る者が不思議そうな顔をするのも当然と言えた。だが、その後の話を聞いて、納得した。
「成る程。シェヘラ殿下のお遣いですか。人使い粗いですからね、あの人。」
「っふ。全くだ。」
身体は小さくとも、仮にも、警邏隊の一つのチームの副隊長として活躍している、かなり有望な青少年と別れた後。
個室席のあるカフェに入った彼は、別のポケットから取り出した、目の覚めるような青い刺繍が入ったハンカチを鼻に押し付けて思いっ切り息を吸い込んだ。
「はぁぁああぁ。」
変態である。どこからどう見ても、不審人物にしか見えない本物の変態である。
ここだけ切り取れば、白兎の早めの脱出は幸運だったのかもしれなかった。
しかしながら、一人、泰然と明らかに女物であるハンカチに鼻を押し付ける彼にも、訳があった。
寧ろ、理由がなかったら、いや、あったとしても、誰かが通報しても全く以て責められる謂れはない筈だが。
名を、アーギル=ルクス・ドルワ・ギノセイン。
とある皇国から遊学という名目で、遥々、この地にやって来た、とある御人の護衛騎士の一人である。
それなりに栄えている都市ではあるが、列強国である皇国と比べれば、大したものでもない。
けれども、彼は、どうしても。そう、並み居る強者どもを張っ倒し、倍率が凄まじい人徳の塊である、皇国のあの方の側に控える役目ーー傍から見たら高待遇の職種だったが、男からしたら、その本人と気安い分、何かと雑用を任される面倒な位置だったーーになってでも、この地に来なければならない理由があった。
「……リィ、……アリス。君は、今、どこに居るんだ。」
アーギルの頭の中で、過去の光景が広がった。
まだ幼かった頃、この地の中でも更に辺境に当たる、とある田舎町で出会った一人の少女がいた。
彼は、療養をしに来た姫の側仕え兼友として、そして、彼女は、その地に住まう、希少部族である“兎獣人”の長の娘として。
無邪気な彼女に手を引かれ、日がな遊び回った記憶は、生まれ故に苦しい境遇に立ち向かうしかなかったアーギルを時に励まし、時に慰め、時にいつか再会するその時を希望として、勇気を抱かせる宝物になっていた。
「会いたいよ。」
そして、嘗ては、ただの人間だったアーギルは、いつしか、先祖返りとして、中途半端な形でーー人の姿形を保ったまま、属性が転出する、異系種ーー半獣人となっていた。
狼と犬の特性を受け継いだ彼が、正式に家の当主として認められる事となった一因でもあるそれは、正確に、彼女の居場所を探るに相応しい能力として、彼に備わっていた。
無論、あの場に、アリスが居たことにも気付いてはいたのである。
けれども、彼の記憶の中に、普段は大胆な行動を取りながらも、天真爛漫な彼女が驚くと泣いてしまうという前例があった。
それを確りと覚えていた男は、直ぐ様にでも駆け寄りたい衝動を抑えて、この場に居るのだった。
丁寧に折り畳んだハンカチを仕舞うと、席を立った。
どうやって、アリスとの距離を詰めようか、目を細めている男は、ふと、彼女の匂いがする人物に気が付いた。
「ひっ。」
目が合ったカフェの店員は、すごすごとカウンターの奥へと行ってしまう。
ーーもしかしたら、このまま何もしなくても、あっちから会いに来てくれるかもしれないな。
「お客様?どうかされましたか?」
「何でもありません。あ、すみません、これが領収書です。」
男は何も知らないと思っているであろう、彼女の目が、そそくさと注文を取りに行くのを横目で見つつ、会計を済ませた男は知らなかった。
実は、男の登場に危機感を覚えたアリスが、都合良く他の地での店舗出店と業務拡大に合わせて、「それなら、ここから出るのも手よね。」と呟きつつ、出立したことを。
結局、再会出来たのもそれから二年後の事であり、その頃には、子供が欲しくなったからと婚活を視野に入れ始めた彼女に全く覚えられておらず、幸運なことに、意気消沈している間に、アリスからちゃっかり旦那候補にされていることも。
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