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9.仮面夫婦の理由
しおりを挟む「万が一、お母さまがこの絵を見る機会があったとしてもきっと……へー、ほー、ふーん程度の感慨だったかと」
「エリカ……」
長女のどこか投げやりなことばにジュリアンは目を剥く。
へーほーふーんとはなんなんだ。
「お母さまはわたくしによく言ってましたもの。たとえ恋愛結婚とはいえその愛は永遠に続かない。お互いが努力して愛を維持し続けなければ、愛なんて簡単に消えてしまう。お父さまとお母さまの間に愛がなかったのは、聡いエリカのことだから理解してるでしょう? って」
ジュリアンの耳には衝撃をもって響いたことばであった。
「え? ……なんだって?」
エリカは母のことばとして、両親の間に愛がなかったとはっきり言った。言いきった。
驚愕のあまり二の句が継げないジュリアンに対し、エリカは呆れたような瞳を彼へ向ける。
「お母さまは“自分は愛されていない”ってはっきりおっしゃってましたわ」
「あぁ……俺も聞いたことある。貴族によくある仮面夫婦だって言ってました。俺から見た印象は……、母上もビジネスとして接してただけで愛情があったとは思えませんでしたし」
ことばを繋いだのはダミアン。
彼は姉よりもいくぶんか申し訳なさそうなようすで肩をすくめた。
「仮面、夫婦……?」
子どもたちのことばに、ジュリアンはショックを隠しきれない。
そんな父親を見て思うところがあったのか、ハーヴェイが口を開いた。
「表面上は取り繕ってるけれど、その実、形だけで愛のない夫婦のことを指すことばですよ。どこをどう見ても、『仮面夫婦』でしたよ? そもそも、父上は我々の前ですらにこやかな顔を一切なさらない。不機嫌そうで、母上に対してもそっけない」
「そっけないどころではありませんでしたわ! まずろくな挨拶をしない。わたくしたちはおはようやおやすみなさいとか、挨拶は人としての基本と教わりましたがお父さまからそのことばを聞いたためしがありませんもの!
それにお母さまがどんなに着飾っても褒めない。
殿方が着飾った淑女に対して褒め言葉のひとつやふたつ出ないのはいかがなものです⁉
ダン! ハヴ! あなたたちは礼儀作法の時間に『女性を褒める』ことは基本中の基本だと教わってませんの?」
「教わったな」
「ちゃんとした淑女に対しての礼儀作法だよね。習ったよ」
「そうよね? 世の貴族男性が普通にしていることですわ。わたくしも夜会でいろいろと言われますもの! もちろん夫であるアンソニーもね!」
「のろけ?」
「のろけだね。結婚して二年以上経って子どももできたのにお熱いね~」
「さすが恋愛結婚」
「このさい、わたくしのことはどうでもいいのよ! 問題はお父さまなんだから!
いいですか、お父さま。そもそもお仕事でろくに国内にいない留守がちなお父さまですよ? お母さまが怪我をしていたときも労らないし、心配するそぶりもない。
結婚記念日もお母さまの誕生日も祝わない。
常にほったらかし。
こんな態度のどこに愛を感じろとおっしゃいますの⁉」
「憎まれてなければいいって、母上は言ってたような……」
エリカをはじめとする子どもたちからつぎつぎと投げかけられる過去のジュリアンの態度。
どれもこれも覚えがあった。
妻にも子どもたちにも、ちゃんとした挨拶のことばを告げたことが……なかった。
着飾ったクリスティアナを前にしても、ろくな誉め言葉がでなくて沈黙していた。
彼女が怪我をしたときは……彼なりに労わったつもりで領地へ療養に行かせたのだが。
『心配するそぶり』とやらが、目の前でオロオロする態度を指すのなら、たしかにジュリアンはそんな無駄なことはしなかった。
結婚記念日はいつも外国にいたし、誕生日を祝っている暇もなかった。
そんなことは引退してからまとめてすればいいと、本気で考えていたのだ。
なぜなら自分たちは確かな愛を育んでいたし、クリスティアナはいつも黙ってジュリアンのサポートをしてくれていた。彼女はジュリアンをよく理解してくれていたはずだから……。
だがそのせいで、クリスティアナ自身はジュリアンから愛されていないと認識していたというのか。
自分はまた対応を間違えてしまったのかとクラクラする頭を抱える。
だが彼女がこの絵を見ていたのなら、そんな悲しい誤解はしなかったのではなかろうか。息子たちも言っていたように、この絵にはジュリアンのありったけの愛を詰め込んでいるのだ。
ジュリアンは一縷の望みを賭け、妻の侍女へ話しかけた。
「ジャスミン。きみは、いつ、この絵の存在を知ったのだ?」
ジャスミンが早くから知っていたのなら、それは彼女の女主人であるクリスティアナも共有していたはずだ。
ジャスミンは足元にあったランプを持ちながら立ち上がった。
ゆっくりと歩き絵のそばに近寄ると、ランプを掲げ絵に光を当てる。
「ほんとうに……クリスティアナさまの懐かしいお姿、そのままでございます」
彼女の黒い瞳はやさしく輝き口角が上がる。どこか懐かしそうに、そして愛しい者を見つめる瞳で在りし日の主の姿絵を堪能している。
やがて彼女はゆっくりと視線をジュリアンへ向けた。
「もっと早くにこの絵の存在を知りとうございました……閣下。わたくしがこの絵の存在を知ったのはついさきほど。奥さまの葬儀の最中でございます。スチュワードから聞きだしました……奥さまはこの絵の存在を知ることなく亡くなられました」
一縷の望みは絶たれた。
なんということだ! クリスティアナは、ほんとうに誤解したままこの世を去ったのだ!
絶望に打ちひしがれるジュリアンへ、子どもたちは容赦のないことばを投げかけた。
「そんなショックを受けたお顔をされてますけどね、当然の帰結かと思いますわよ? お父さま。なぜお母さまへ、やさしいことばのひとつもかけなかったのですか? 着飾ったお母さまはとてもうつくしかったわ。こどもだったわたくしの目から見ても! なのになぜ褒めなかったのですか? 愛を絵に込められるかたが、なぜご自分の愛を伝えられなかったのですか⁈」
「人を褒めたら死んでしまう呪いでもかけられてましたか?」
「いや。絵を描いたときには愛に溢れていたけど、結婚してから無くなった……ってことではありませんか?」
つぎつぎと繰り出される子どもたちからの『口撃』に、ジュリアンはなにも言い返せない。そんな彼に代わり、ポールが主を庇うかのように一歩前に出て口を挟む。
「いいえ、ハーヴェイさま。旦那さまは出会ったころから変わらず奥さまを愛し続けていらっしゃいます。今も。旦那さまが愛する女性はクリスティアナさま、ただおひとりでございます」
主に忠実な家令に対し、ダミアンが首を傾げながら質問をする。
「でも父上の俺たち……母上をひっくるめて俺たちへの態度は、冷たい、愛なんて微塵も感じない、むしろ邪魔だと思っている……という態度でしたよ。俺も父上の執務を教えてもらう関係上、話をする機会はそれなりあって……領地経営の話とか母上も同席していたけど……気遣いのことばは一切ないし、王宮の文官たちへ接するみたいだったし……。あぁ、父上と母上は『上司と部下』なんだなって思っていました」
「それについてはわたくしから補足説明を」
擁護の声(?)は意外なところからあげられた。
ジャスミンである。
「もうかれこれ二十年以上まえになりますが……。エリカさま誕生の折に、閣下は失言をなさいました。おそらくそれを悔やんで私的なおことばを控えるようになったと愚考いたします」
「わたくしの生まれたとき? お父さまはなんておっしゃったの?」
「三十時間以上のお産を経てお誕生あそばした嬰児のエリカさまをご覧になってひとこと。
『なんだ、女か』と」
「……は?」
「そのとき奥さまの表情が凍り付いたことを、わたくしはよく記憶しております」
「そう……それはだいぶ……失礼なことばですこと」
この国の貴族には嫡嗣は男子のみという決まり事があるせいで、女子の誕生より男子の誕生のほうを重視する人間も一定数いる。
だがよりによって自分の父親が、自分の誕生を喜びも寿ぎもしなかったのかと、エリカの顔色も悪くなった。
女性がいなければだいじな跡取りでさえ生み出されないというのに、困った考え方だ!
静かに憤ったエリカをよそに、ジャスミンの告白はなおも続いた。
「その二年後にも、また。まだ嬰児のダミアンさまとハーヴェイさまを前にして、とてもお慶びになった閣下は仰いました。
『でかした! 男の子を同時にふたりも産むなんて! なんて効率がいいんだ! これで一人死んでも大丈夫だな!』
エリカさまのときの失礼……いえ、心配りに欠けた発言をしたと耳にしてお心を痛めていらした大奥さま、エリカさまたちのお祖母さまがそのとき同席してくださったのですが……おそらく、ご自分がいらっしゃれば閣下の失言はないだろうと抑止力のつもりで来てくださっていたのですが……その大奥さまが閣下を強く、えぇとても強く批判して叱責なさいました。
命がけで赤子を生んだばかりの自分の妻に対することばがそれかと。
生まれたばかりの赤子へかけることばが死んでもいいとはなにごとかと。
おまえは人の心がわからないのかと。
実のご母堂の瞳に涙を浮かべながらの叱責を受けた閣下は、それ以来失言を恐れてか……あまり口をお開きにならなくなりました」
仕事の話題ならばいくらでもなさったのですが、私的なことになると途端に口が重くなるようでございました。
ジャスミンはそう付け加えた。
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