ママ（フェンリル）の期待は重すぎる！

第十章

娘（人間）の行動が不可解すぎる！7

『あ、あれは……』
　フェンリル彼女は目を大きく見開いた。
　その視線の先にあるのは、サリー小さい娘が冒険者の女に連れられて入った店、そこで出てきたお菓子であった。
　赤い木の実を上に乗せ、白く柔らかなクリーム物に包まれた焼き菓子で、サリー小さい娘はフォークで切り取ると美味しそうに頬張っていた。

　フェンリル彼女にはその焼き菓子に見覚えがあった。

『それほど経っていないはずだけど……。
　ずいぶんと、懐かしく思えるわね』
　フェンリル彼女の柔らかく浮かべた笑みには、少し、悲しげな色も帯びていた。

　数十年ほど前のことだ。

　その時のフェンリル彼女は、子供もまだ生まれていない状態で、縄張りの中に籠もり、時々、狩りをしつつ過ごしていた。

　特に何の変化もない生活が何百年も続いていた。

　だが、フェンリル彼女はそれを変えようとはしなかった。
　何故なら、フェンリル彼女が仕える六神より、この地で弱肉強食の法の中、人間たちにその威を示し、彼らの増長を押さえ込むという指示を受けていたのだ。
　この生真面目な神獣は、忠実に全うするべく、縄張りからいっさい出ることなく、時に増えすぎた魔獣を間引き、時に図に乗っている人間を蹴散らし過ごしていた。

　そんな様子に、時々フェンリル彼女が住む洞窟に訪れるエルフの友人から「ずっと、同じ生活をしていて飽きない？」などと呆れた顔をされたことがあった。

　この変わり者のエルフは、自分の村を離れて世界中を歩き回っている。
　そんなエルフ彼女からしたら、同じ所に何百年も居続けるのは、酷く退屈なものとのことだった。
「何だったら、わたしと少し旅に出ない？
　この地には、あなたの想像もできないような面白い場所があるわよ！」
　だが、フェンリル彼女は首を横に振った。
『わたしはこの地を支配するように言われているのよ。
　ここから離れるわけには行かないわ』
「いや、六神達も、同じ場所に居続けろなんていってないでしょう？」

　実際の所、エルフの友人の言げんが正しい。

　六神が指示したのはこの地上全域のどこかであって、フェンリル彼女が降りた場所という意味ではないのだ。
　事実、神獣の中には縄張りを色んな場所に移しながら過ごす者も多い。
　だが、フェンリル彼女は再度、首を横に振った。
『かもしれないけど、わたしはここを支配すると決めたの。
　だから、ここを動くわけにはいかないわ』
「相変わらずめんどくさい性格ね」
『うるさい！
　勝手でしょう！』
「そんなことをやってると、そのうち、体から苔が生えてくるんじゃない？」
『こ、苔って！
　動いてるから！
　わたし動いてるから！』
「そこまで行かなくても、ブクブク太りだすんじゃない？
　わたし、知らないから」
『はぁ！？
　ブクブク太る！？
　わたしが！？
　そんなわけ無いでしょう！？』
　などと激高し、『もう帰りなさい！』とエルフの友人を追い払いはしたが、『……遠見の魔法陣を作ってから、そういえば、洞窟に籠もってばかりだったわね？』などとブツブツ呟きつつ、立ったり座ったりを繰り返したり、洞窟の中をウロウロしたりしていた。
『ブクブク……。
　外に出る……。
　う～ん、でも、理由もなく出るのは……』
　エルフの友人の言う通り、別に移動すること自体は問題ないのだが、フェンリル彼女としては、決められた（というか、自分が勝手に決めた）約束事を破るのだ。

　それ相応の理由がほしかった。
　そこで、ふと思いつく事があった。

　一時期、神獣の中で話題になった話である。
　それは、人間の中から、驚くほど多くの魔力を身に秘める”魔法使い”が生まれたというものだった。
　その保有量は、並の神獣を上回り、神使の中でも、その存在を憂慮する者も現れだしたという話だった。
　会ったことがあるという、エルフの友人の話では、理知的な貴族の女なので、暴走する可能性は少ないとの事だったから、ざわついていた神獣達も、『すぐに寿命が尽きていなくなるだろう』という意見で一致し、静観することになっていた。

　とはいえ、その魔法使いの女が保有する魔力は、年々増えているとの話がある。

　そう考えると――縄張りの外のこととはいえ、最強の神獣の一柱に数えられているフェンリル彼女が、様子を見に行く。
　それは合理的であり、むしろ、今まで行かなかったこと自体、怠慢だとされても否定できないのでは？
　そんな風に考え始めた。
『しょうがないわ。
　務めだもの、しょうがないわ』
　などと、誰にしているのかも分からぬような言い訳をぶつぶつ呟きつつ、ひょいっと、縄張りから飛び出て行くのだった。

　実際の所、魔法使いの女が住むとされる場所は、フェンリル彼女にとってさほど遠くはない。

　山を飛び越え海岸に出て、海の水面を蹴りながら駆け、段丘が見えたら飛び乗り、また山や林、時に人間達の町を飛び越えて、途中、エルフの村の気配を感じたら寄り道し、魔法使いの女の話を聞きつつ、食事をもらったりしながらの――だいたい、一日ほどの道程であった。
　そのエルフの村には、その魔法使いの女に助けてもらったことがあるという少年が住んでいて、彼の話ではちょうど良いことに、その女は暑さを避けるために近くの町に来ているとのことだった。
「一週間――七日間ほどしかいないみたいだから、会うなら早めの方が良いよ」
とエルフの少年は森で取れた果実をフェンリル彼女の口に投げ入れながら、教えてくれた。

　翌日、フェンリル彼女はエルフの少年に教わった家まで行き、それを遠目に眺めた。

　どうやら、魔法使いの女が住む家には人間が沢山住んでいるらしかった。
　フェンリル彼女は、自身の姿を見た時の彼らが発する”がなり”声を嫌っていたこともあり、近づかずに見つめていた。
『聞いてはいたけど……。
　凄まじいわね』
　最強の神獣たるフェンリル彼女をして、息を飲んだ。
　外で椅子に座り、お茶らしきものに口を付けるその魔法使いの女は、一見するとエルフの友人が言うように高貴な夫人といった様子だった。

　だが、その内には恐るべきほどの魔力が渦巻いているのが感じられた。

『人間の体に、あそこまでの魔力物を良くもまあ、詰め込んだわね』
　単純な魔力だけなら、フェンリル彼女と同格か、下手をしたら超えるのではないか？

　そう思える人間だった。
　しかも、それだけでなかった。

　魔法使いの女が使役しているだろう近くに控えている魔獣や、剣を腰に下げた騎士風の男女はともかく、明らかに非力な召使いの女なども、あの魔法使いの女のそばで平然としていた。
　一度、外に放たれればこの辺りを地獄に変えることすら出来るあの膨大な魔力を、その魔法使いは平然と身の内に押し込んでいるのだ。

　その制御力や精神力もずば抜けていることが分かる。

　普段、人間のことなど地を這う虫程度にしか認識していなかったフェンリル彼女をして『あの人間、なかなかやるわね』と賞賛の言葉が漏れるほどだった。

　とはいえ、所詮は人間である。

　関心はしても、それ以上、特に何かがあるわけではなかった。
　元々、神獣の間で寿命が尽きるのを待つとの意識を共有していたこともあり、フェンリル彼女としても、『一目したことだし、帰りましょうか』ということになった。

　だが、そこで出会うこととなる。
　あの焼き菓子にだ。