HERO

とまと

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家に帰ると、よちよちとまだ拙い歩き方で寄ってくる愛らしい存在を抱き上げる。
ただいま。と部屋に投げかけると、おかえりと明るい声が返ってきた。
結婚して2年。妻にもこの生活にも、なんの不満もない。俺は変わらず幸せで、……君は変わらず幸せだろうか。


初めて君の唇に触れた日。俺は自分がただのチンケな男なのだと実感した。だけど心に残る僅かな理性が、それ以上君に触れることを拒んだ。
アンバランスな君の心は、人に触れることを恐れているくせに、赤子のようにただひたすらに降り注がれる愛情を望んでいた。
そのキスはそれ以上を望むものではなく、ただ俺を信頼する君は雛のように、愛を口から啄んでいた。
俺から手を伸ばすと躊躇うくせに、自分から俺の懐に飛び込んできては腕の中でとても幸せそうに笑い、そのまますやすやと眠った。
幾度も手を出しそうになり、俺には別の人がいるのだと自分の中の大事な人を思い浮かべ、そして理性で抑えた。
とうに君を愛おしく思っている自分の気持ち等認められるわけもなく、出来るだけ自分の心に蓋をして、見ないフリをしてきた。

君が俺を好きだと言った時、そばにいたいと言った時、とても嬉しかった。わかりやすく俺を頼る君を放っておけなかった。手放すなんて、出来なかった。

「ぎゅーってして」

君が拗ねたように俺の腕を引く。

「まだ帰りたくない」

車の窓越しに君が呟く。

「ねぇ、好きだよ」

君は恥ずかしそうに笑う。


その全てに答えたいのに、答えてしまえば俺はいつか絶対に、君を裏切る日が来るんだ。
もし俺が君を裏切ってしまう日が来たとしても、その時の俺の気持ちに嘘偽りはなかったと、君は信じてくれるかい?
俺は君にとって特別で、君を救えるのも傷つけられるのも俺だけだと思っていたし、どうか俺じゃない誰かと幸せになってほしいと、本気で願っていたんだよ。

君を海に誘ったあの日、俺だって流れ星に願ったんだ。ずっとこのままでいられますようにって。

だけど現実は止まらない。
俺には彼女がいて、君は彼女になることを諦めていた。俺達が幸せになる未来は、ここにはなかった。
そうして俺は何度も君を傷つけた。ヒーローだなんて偉そうに君に言っておきながら、君の求める手を、何度も無下に振り払った。そのくせ、振り切れずに抱きしめてしまう弱い俺を、君は笑って抱きしめ返すのだ。


だからあの日、君が俺から離れることを決めた日。心の一部を失ったような喪失感に耐えきれず、君に手を伸ばしそうになった。
まるで終わりがないかのような真冬の、夜の闇の中、君は「明日も明後日もずっと、トウヤが健康でありますように」と手を握って言った。
それ以上何も言わず、ただぎゅうぎゅうと冷えた両手で俺の手を包み込んで、俯いていた。

「ハナも、風邪ひかないようにな」

何かを言わなくてはと思い、そう口にする。
君は一度こくんと頷いて、それ以上何も言わなかった。

「…もう帰らないと。じゃあまた…」

「ねぇ、トウヤ」

「ん?」

君は話す時、いつも真っ直ぐ俺の目を見てくるから。俺はよく目を逸らしてしまう。真っ直ぐすぎる瞳に、俺のずるさを見透かされそうで、弱さに気づかれそうで、咄嗟に伏せてしまう。

「もう、ヒーロー辞めていいよ」

その台詞は、嫌いと言われるより、サヨナラより、ずっとずっと俺達の別れを示していた。

「ヒーローでいてくれて、ありがとう」

君の両手が震えているのか、握られている俺の手が震えているのかわからないけれど。
こんなにも今、温もりを分け合う手は、悲しみを伝え合い、別れからは逃げられない現実を自覚させる。

「ハナ」

「うん」

「……」

君の手が離れて、冷たい風が俺の手を包んだ。
好きだと言葉にすることは簡単で、だけどそれだけでは満たされない寂しさは存在していて。
…どうして大切な人は、1人ずつ現れてくれないんだろう。
君のことを大切に想う気持ちに嘘はないのに、君を追いかけることが出来なかった。

幸せで、ありますように。
冷たい片手で拳を作り、祈るようにもう片方の手で温めた。

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