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第三章
二
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官兵衛の思惑通り足守川流域の近郷の村々では、皆先を急ぐように石井山の秀吉本陣へ土嚢を運び入れた。
秀吉は官兵衛の進言を取り入れ、本陣を竜王山から石井山に移していたのだ。
堤は、石井山南麓の蛙ヶ鼻から門前村までの東南約四キロメートル、その高さは八メートルもしくは七メートルあった。
築堤奉行の任に就いたのは、蜂須賀小六である。
普請には士卒や近郷の農民が総動員された。これも高額の報酬によって集められた人夫たちだ。
五月八日の着工の数日後、石井山の羽柴勢本陣の陣城では、土木作業を見守っていた秀吉が不安げな面持ちで官兵衛を見やった。
「本当に降るのじゃな」
「もう間もなく雨が降りまする。然もすれば、あの城は浮き城と化しまする」
杖を片手に体重を支えつつ、官兵衛は利き腕の右手に木の枝を握り、眼下の高松城を指した。
稀代の天才軍師黒田官兵衛が考案した前代未聞の水攻めという戦法に、高松城内に籠城する城兵たちの間に動揺が走った。
城主清水宗治は、直ぐに安芸吉田郡山城の毛利輝元に援軍を求める使者を送った。
援軍要請を受けた輝元は、吉田郡山城を出陣。輝元の叔父の吉川元春、小早川隆景も軍勢を率い高松城の救援に向かった。
総勢約五万という毛利勢の襲来を受け、石井山の羽柴勢本陣では、秀吉の顔に焦りが見受けられた。
「か、官兵衛よ。安土の上様にご、ご、後詰めを……」
秀吉の声は震えていた。
石井山の羽柴勢の本陣から見える位置に、毛利勢は布陣していた。
庚申山に吉川春元、日差山に小早川隆景、そして輝元率いる毛利本隊は猿掛城に入った。
十五日、秀吉の祐筆が書いた文が羽柴勢の本陣を発った。
安土の信長の許に、秀吉の救援要請が届いたのは十七日である。
この頃、安土城内で何が起こっていたのか、秀吉も官兵衛も全く知る術もなかった。
秀吉が信長へ送った援軍要請の書状がきっかけとなって、運命の歯車が狂い出そうとしていた。
五月八日に着工した堤の普請は、十二日の工事期間を経て、十九日に竣工した。その間、羽柴、毛利の両陣営は、俄かに出来た湖に浮く孤島と化した高松城を挟む形で対峙していた。
「漸く完成致しましたな」
浮き城と化した高松城を眼下にして、口許に薄い笑みを浮かべつつ官兵衛は満足げに言った。
「上様からの返書はまだか……」
秀吉は高松城のことより、信長の返答が気になっていた。
「儂は、佐久間や林などと同じように、上様に見捨てられたのではないのか」
臆病風に吹かれた秀吉を一瞥し、官兵衛は心中でこの猿面冠者を嘲笑した。
(肝が小さい男よの……)
「心配はご無用。ここは上様がご着陣遊ばす前に、毛利方と和議を進めましょう」
「和議じゃと!? また何故に……」
秀吉は官兵衛の考えている意図が理解出来ず、訝しげに眉根を寄せた。
「毛利は、滅ぼすには惜しい大名家でござる」
官兵衛は毛利の利用価値を見出そうとしていた。
武田家のように壊滅的な打撃を与え滅ぼしてしまうよりも、毛利家を織田家に従属的な大名家として存続させた方が好都合だと考えたのだ。
この時期、官兵衛と同じような考え方を持つ武将がもう一人織田家に存在した。明智光秀である。
光秀には、官兵衛が毛利家の利用価値を見出したように、長曾我部家の利用価値を見出そうしていた節があった。
光秀は、四国長曾我部担当者だった。しかし、突如その任を解かれ、その地位を長秀に奪われた。
実を言うと、光秀の任を解くように信長に讒言した者は秀吉だった。つまり、裏で糸を引いていたのは官兵衛である。
光秀の重臣の一人である斉藤利三と、長曾我部元親は姻戚だった。因みに利三の娘がのちに春日局と呼ばれる女性だ。
室町幕府の奉公衆の一人に蜷川親順という人物がいた。この男の娘が、斉藤伊豆守に嫁ぎ利三を産んだ。
その後、利三の母は継室として石谷光政に嫁ぎ、娘を産んでいる。更に光政の娘は、長曾我部元親の許に嫁いだ。
こうした関係から、光秀は利三を通じ、長曾我部家に接近した訳である。
一時信長は、光秀の意を取り入れ、四万十川の合戦で大勝して土佐を統一した元親に、四国切り取り次第を確約した。
ところが信長はその約束を反故にして、元親に土佐一国と阿波二郡を安堵する旨を通達した。これを拒否した元親を討つため、信長は三男の神戸信孝を総大将として副えに丹羽長秀を付け、四国征伐に乗り出した。
この裏にあったのは、秀吉に急接近した三好の残党の存在だ。
秀吉は官兵衛の意見を取り入れる形で、三好康長に肩入れした。
甲州征伐と同時期に、突如信長はそれまで四国担当だった光秀を解任し、『三好山城守(康長の受領名)、四国へ出陣すべき事』と康長宛てに命令書を発給している。
光秀の目論見は見事に崩れ、武田同様長曾我部は滅びが待っているかに見えた。
秀吉は官兵衛の進言を取り入れ、本陣を竜王山から石井山に移していたのだ。
堤は、石井山南麓の蛙ヶ鼻から門前村までの東南約四キロメートル、その高さは八メートルもしくは七メートルあった。
築堤奉行の任に就いたのは、蜂須賀小六である。
普請には士卒や近郷の農民が総動員された。これも高額の報酬によって集められた人夫たちだ。
五月八日の着工の数日後、石井山の羽柴勢本陣の陣城では、土木作業を見守っていた秀吉が不安げな面持ちで官兵衛を見やった。
「本当に降るのじゃな」
「もう間もなく雨が降りまする。然もすれば、あの城は浮き城と化しまする」
杖を片手に体重を支えつつ、官兵衛は利き腕の右手に木の枝を握り、眼下の高松城を指した。
稀代の天才軍師黒田官兵衛が考案した前代未聞の水攻めという戦法に、高松城内に籠城する城兵たちの間に動揺が走った。
城主清水宗治は、直ぐに安芸吉田郡山城の毛利輝元に援軍を求める使者を送った。
援軍要請を受けた輝元は、吉田郡山城を出陣。輝元の叔父の吉川元春、小早川隆景も軍勢を率い高松城の救援に向かった。
総勢約五万という毛利勢の襲来を受け、石井山の羽柴勢本陣では、秀吉の顔に焦りが見受けられた。
「か、官兵衛よ。安土の上様にご、ご、後詰めを……」
秀吉の声は震えていた。
石井山の羽柴勢の本陣から見える位置に、毛利勢は布陣していた。
庚申山に吉川春元、日差山に小早川隆景、そして輝元率いる毛利本隊は猿掛城に入った。
十五日、秀吉の祐筆が書いた文が羽柴勢の本陣を発った。
安土の信長の許に、秀吉の救援要請が届いたのは十七日である。
この頃、安土城内で何が起こっていたのか、秀吉も官兵衛も全く知る術もなかった。
秀吉が信長へ送った援軍要請の書状がきっかけとなって、運命の歯車が狂い出そうとしていた。
五月八日に着工した堤の普請は、十二日の工事期間を経て、十九日に竣工した。その間、羽柴、毛利の両陣営は、俄かに出来た湖に浮く孤島と化した高松城を挟む形で対峙していた。
「漸く完成致しましたな」
浮き城と化した高松城を眼下にして、口許に薄い笑みを浮かべつつ官兵衛は満足げに言った。
「上様からの返書はまだか……」
秀吉は高松城のことより、信長の返答が気になっていた。
「儂は、佐久間や林などと同じように、上様に見捨てられたのではないのか」
臆病風に吹かれた秀吉を一瞥し、官兵衛は心中でこの猿面冠者を嘲笑した。
(肝が小さい男よの……)
「心配はご無用。ここは上様がご着陣遊ばす前に、毛利方と和議を進めましょう」
「和議じゃと!? また何故に……」
秀吉は官兵衛の考えている意図が理解出来ず、訝しげに眉根を寄せた。
「毛利は、滅ぼすには惜しい大名家でござる」
官兵衛は毛利の利用価値を見出そうとしていた。
武田家のように壊滅的な打撃を与え滅ぼしてしまうよりも、毛利家を織田家に従属的な大名家として存続させた方が好都合だと考えたのだ。
この時期、官兵衛と同じような考え方を持つ武将がもう一人織田家に存在した。明智光秀である。
光秀には、官兵衛が毛利家の利用価値を見出したように、長曾我部家の利用価値を見出そうしていた節があった。
光秀は、四国長曾我部担当者だった。しかし、突如その任を解かれ、その地位を長秀に奪われた。
実を言うと、光秀の任を解くように信長に讒言した者は秀吉だった。つまり、裏で糸を引いていたのは官兵衛である。
光秀の重臣の一人である斉藤利三と、長曾我部元親は姻戚だった。因みに利三の娘がのちに春日局と呼ばれる女性だ。
室町幕府の奉公衆の一人に蜷川親順という人物がいた。この男の娘が、斉藤伊豆守に嫁ぎ利三を産んだ。
その後、利三の母は継室として石谷光政に嫁ぎ、娘を産んでいる。更に光政の娘は、長曾我部元親の許に嫁いだ。
こうした関係から、光秀は利三を通じ、長曾我部家に接近した訳である。
一時信長は、光秀の意を取り入れ、四万十川の合戦で大勝して土佐を統一した元親に、四国切り取り次第を確約した。
ところが信長はその約束を反故にして、元親に土佐一国と阿波二郡を安堵する旨を通達した。これを拒否した元親を討つため、信長は三男の神戸信孝を総大将として副えに丹羽長秀を付け、四国征伐に乗り出した。
この裏にあったのは、秀吉に急接近した三好の残党の存在だ。
秀吉は官兵衛の意見を取り入れる形で、三好康長に肩入れした。
甲州征伐と同時期に、突如信長はそれまで四国担当だった光秀を解任し、『三好山城守(康長の受領名)、四国へ出陣すべき事』と康長宛てに命令書を発給している。
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