件と秀吉

西村重紀

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第四章

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 羽柴勢が高松城を包囲していた陣を引き払い、姫路に向かって退却をはじめたこの時期は、梅雨の真っ只中にあった。
 山陽地方を瀬戸内に流れる河川は氾濫し、各地に甚大な被害をもたらした。当然、羽柴勢の行く手をも拒む。
 秀吉は、氾濫する吉井川の濁流を見やって、
「ええいっ! 何とか致せ、官兵衛っ」
 唸り声を発し泣き付いた。
「人を使いましょう」
 官兵衛は平然と言い捨てる。
「人じゃと!?」
 秀吉は目を白黒させ、素っ頓狂な声を上げた。
「銭でこの辺りの農夫を雇うのでござる」
「農夫などやっとどうする気じゃ、官兵衛。足軽雑兵の類はもう充分じゃ。足りておるぞ」
 秀吉は怪訝そうに官兵衛を見た。
「橋を造りましょうぞ、殿」
「橋じゃと……?」
 秀吉は首を傾げた。
「人を使って人が渡れる橋を造るのござる。つまり、農夫共を銭で雇い、人の橋を造るのでござる」
「……上手く行くかのぉ」
 秀吉は疑いの眼差しを官兵衛に向けた。
 すると官兵衛は唇の端に薄い笑みを浮かべた。
「それとも、この場にて川の流れが治まるのを待ちまするか」
 官兵衛は濁流を指差し、秀吉に訊ねた。
「いや、こんなところで愚図愚図はしておられぬ。足止めを喰らっておっては他の奴に先を越されてしまう」
 その言葉に官兵衛は満足して首肯した。
「誰か」
 官兵衛は配下の諸将を呼び付け、濁流と化した吉井川を渡るための妙案を事細かに説明した。
 諸将は直ぐに近郷の村々を回り、銭で農夫を雇った。百人ほどの農夫が集まった。
 官兵衛は農夫たちの腰に、藁で編んだ縄を括り付け、それを鎖のように二重、三重にして繋いでいった。これで縄が切れることはない。
「さあ、川に飛び込めっ」
 侍大将と思しき男が唸り声を上げた。
「逆らう者があればこの場で斬り捨てるっ」
 叫ぶと同時に太刀を抜き、振り上げた。
 農夫たちは恐れ戦き、次々と吉井川に入っていった。水嵩は腰の辺りまであった。官兵衛が思っていたほど深くはない。
(造作もないことじゃ。これなら渡れるな)
 官兵衛は確信を得た。
 首だけを回して振り返り、馬上の秀吉を見やった。
「殿、馬が暴れるといけませぬ故、降りて頂きませ」
「か、官兵衛よ。まさかその方、この儂に川の中へ入れと申すのではないな……」
 半信半疑の秀吉は狼狽えながら問うた。
「心配はご無用。案ずることはございませぬ。この者どもより川上を渡れば大丈夫でござる。さあ、お急ぎ下さい。ここでもたもたしていては、柴田様や丹羽様に先を越されまするぞ。亡き信長公を仇である惟任日州めを討って、天下をお取り遊ばせまし」
 この期に及んでまだ二の足を踏む主君秀吉を前にして、官兵衛は欲深いこの男を焚き付けるように言った。
「おおっそうじゃ。斯様なところで愚図愚図はしておられんっ。儂は憎き明智を討って天下を取るんじゃっ!」
 自分自身を鼓舞するかのように叫ぶと、秀吉は馬から下り、濁流と化した吉井川に向かって歩き出した。
「殿、お待ちあれ。川に飛び込む前に先ずはその重い甲冑をお脱ぎ遊ばせ。然もないと溺れ死にまするぞ」
「……やはり溺れてしまうのではないかっ!?」
「それ故に、その重たい甲冑を脱ぐのでござる」
「分かった。脱ぐ、脱げばいいのじゃろっ」
 半分やけくそになりながら、秀吉は甲冑を外し狩装束になる。
「ええぃっ! 南無三っ!」
 秀吉は覚悟を決め吉井川に入ると、鎖のように数珠繋ぎになった農夫の肩にしがみ付きながら対岸を目指した。
 官兵衛は、先ほどまで秀吉が乗っていた馬の尻を鞭で叩いた。すると馬は、忽ち嘶き、川に飛び込んだ。器用に濁流の中を溺れずに泳いで渡って行く。
 兄秀吉に続き、弟の秀長が川に入った。腹心の小六や義弟の浅野長吉らもそのあとに続いた。
 左足が不自由な官兵衛も川に入った。
 そして秀吉同様農夫の肩にしがみ付きながら、濁流の中対岸を目指した。
 暴れる吉井川の濁流を辛うじて渡り切った官兵衛は、安堵の溜め息を吐いた。
「ふう、何とか渡れたわい。死ぬ気でやれば人間何でもやれるものじゃ……」
 向こう岸へ着くと、秀吉たちは再び馬に乗って駈け出した。一路姫路を目指す。官兵衛も秀吉の後を追って再び輿に乗った。
「さあ、駆けるのじゃ。皆の者急げっ」
 官兵衛の言葉を受け、足軽雑兵共は暗澹たる雲をものともせず、この先に待つ大望に向かって駆け出した。
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