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十二話
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その日の夜、俺の部屋に来客があった。
日野さんという、俺が仕事をもらっているソフトウェアハウスの人で、数か月前に他社から引き抜かれてきた人だ。
年は三十代後半で、ボストン眼鏡と顎髭がトレードマークのちょっとおシャレな人だった。
「緒方君、やっぱり体調悪いんじゃない? 顔色がよくない。ちゃんと食ってる?」
「平気です。大丈夫ですから」
心配そうな日野さんを前に、俺は無理に笑った。
打ち合わせなら電話会議で済ませられるのに、実際に顔を合せて仕事をするのがポリシーらしく、俺のところにもマメに進捗を見に来てくれる。
今夜も、次の仕事の資料を届けてくれて、ついでにデモ版の動作確認を俺の部屋で一緒にやった。
「いいのが出来たな。あれならクライアントもイッパツOK出すよ」
「ありがとうございます」
「次のもいい仕事を期待してる」
「はい、がんばります」
我ながら、心にもない返事をしていることに呆れた。
新堂のことで参っているこの状態で、次の仕事をまともにこなせる自信がない。
しばらく休ませてくれと、早々にSOSを出すのがお互いのためかもしれない。
収入がなくなっても、貯金で当座はやっていける。
だが、次に復帰しようとしたとき、仕事があるかどうか、その保障はどこにもなかった。
玄関先に送って出ると、自分でドアを開けた日野さんがふと足を止め、中にいる俺を振り返った。
「あの話、先週も言ったけど」
視線で語ってこられて、ああと頷き返した。
「すみません。俺なんか、気に掛けていただいて……」
「俺なんか、じゃないの。君が欲しいんだよ。だから言ってるのに」
「はい……」
気持ちは嬉しいが、応じるつもりはなかった。
だから即答で断ったのだ。
「ちゃんと考えて。うんって言ってくれるまで、何度でも言うからね。
僕は狙った獲物は必ず落とすよ」
「はは……、何すか、それ」
苦笑いした俺に、日野さんも笑っていた。
「それじゃ、また。何かあったら、遠慮せず僕の携帯に電話してね。何時でもいいから」
「ありがとうございます」
「ちゃんと食べろよ。今度は何か、差し入れを持ってこよう」
「お気遣い、スミマセン」
何もかもどうでもいい。
ぺこりと頭を下げはしたが、せっかくの親切も俺にはもう煩わしいだけだった。
日野さんがエレベーターに乗り込むのを見届けて、半開きにしていた玄関扉を閉めようとしたら、ふいに伸びてきた手に、がっと扉を掴まれた。
ぎょっとしたが、部屋に押し入ってきたのはとても馴染みのある顔だった。
「なんだ……、新堂か。びっくりした……」
一瞬、強盗かと驚いた分だけ、どっと体から力が抜けた。
そんなものが怖いと思うのは、まだ我が身が惜しいらしいと、思わず失笑してしまう。
そんな俺には見向きもせずに、新堂は無言で、ずかずか部屋に上がってきた。
何となくだが、機嫌が悪そうに思えた。
「どうしたの? 昨日来たのに……?」
昔から新堂は、俺の部屋に二日連続で来たりしない。
たぶん、来ても俺の体が使い物にならないと思っているからだ。
昨日の今日で、来てくれたのは正直嬉しい。
でも、手放しで喜べる状況ではなかった。
もしかしたらと、俺は身構えてしまう。
婚約者に俺のことがバレて、これきりにしようと、いよいよ俺に引導を渡しに来たのではないのか。
「俺が毎日来たら、都合悪いわけ?」
「……?」
むっとした顔をして、新堂の口調は皮肉めいて聞こえた。
やはり機嫌が悪い。婚約者と揉めたのかもしれない。
いつもなら、すぐにジャケットを脱ぐのに、今日に限ってそれもせず、新堂はどかっとベッドに腰掛ける。
両膝に肘を乗せ、両手を組んで額を支え、目を閉じてしまった。
「あの……さ、コーヒーでも淹れる?」
「……」
何かあったのかとは、怖くて聞けなかった。
黙りこくっている新堂に、どうしていいか分からなくなる。
耳障りな換気扇の音に、時折サッシに吹き付ける風の音が交じる。
通り過ぎる車のエンジン音、そんなものを聞きながら、身じろぎひとつしない新堂の横顔を、息を詰めて見ていた。
「あれって誰? さっきの……」
ようやく新堂が口を開いた。ずっと黙っていたからか、声が少し掠れ気味に聞こえる。
「さっき……?」
新堂は手を額から離し、呆然と立っている俺を見上げてくる。
その顔には、明らかに俺への怒りがあった。
「さっき、おまえが見送ってた相手だよ」
淡々とした口調は、いつもの穏やかなそれとは違い、突き放すように冷たい。
「仕事で……世話になってる人……」
まさか、俺が原因か?
何を怒っているのか分からず、新堂の顔色を窺いながらおずおずと答えた。
「ふうん、わざわざ自宅に来るなんて、ずいぶん親しいんだな。
仕事の話なら、会社でやるもんじゃないのか」
感情の籠らない声音が、特上の皮肉に聞こえる。
普段の新堂なら絶対にしない嫌な言い方だった。
「仕事で資料を届けてくれて……。別に親しいってわけじゃ……」
「……」
俺の言葉を疑っているのか、険しい眼差しがじっと俺を捉えていた。
「……俺、何かした?」
「何が?」
「何か気に障るような……」
「いいや」
思い切って聞いてみたのだが、つっけんどんな言い方をされ、取り付く島もない。
「……どんな人だ」
新堂は、イラついた声で聞いてくる。
「どんなって……」
なぜ新堂が日野さんを気にするのか。
どう応えたらいいのか分からず、困ってしまった。
「だいぶ年上だよな。ぱっと見だと、相当遊んでそうだ」
「はぁ?」
そんなこと、新堂に関係あるのか。
何が気に入らないのか知らないが、こんな風に他人を悪く言う新堂は初めてだった。
「真面目な人だよ。仕事もできるし」
つい日野さんを庇ったのだが、どうやらそれが新堂の神経を逆撫でした。
「なんだ。まんざらでもないんじゃないか。
なら、気を持たせてないで、さっさとOKしてやれよ」
「……?」
話がさっぱり見えなくて、俺の眉間に皺が寄る。
新堂は感情を抑えられなくなってきたのか、急に早口にまくし立ててきた。
「あの男と付き合うんだろ?」
「え?」
吐き捨てるみたいな言い方をされたが、その内容が突拍子なくて、眼が点になる。
「惚けなくていいよ」
冷ややかな声は立ちはだかる壁のようだ。
「君が欲しい、狙った獲物は必ず落とす。相当な自信家だよな」
日野さんが帰り際に残していった言葉を、新堂が嘲るように繰り返した。
「聞いてたの?」
「聞こえたんだ!」
立ち聞きしたと俺が責めたと思ったのか、新堂は声を荒げる。
「俺が結婚するなんて言ったから、さっそくあれが俺の後釜か! 手回し良すぎだろ!」
苛々した口調で、新堂はさらに責めたててくる。
「いつからあんなの連れ込んだ? 俺が気付かなかっただけか? もうやらせたのかよ!」
新堂は、上着を脱ぎ捨て、ネクタイも乱暴に引き抜いた。
「さっさと脱いで、足開け! おまえの体に聞いてやる」
ネクタイをベッドの上に投げ捨てると、新堂は乱暴に俺の腕を掴み、ベッドに押し倒してきた。
「痛い……。新……」
俺の腹に馬乗りになり、無理やり口づけようとする。
苦しくなって逃れようともがいた。
「もう俺は嫌か、え?」
「苦し……」
手首を掴まれ、指が食い込んでくる。
歯がぶつかるような強さで、食いちぎられそうなキスをされた。
体重を掛けられると、体格差で身動きができない。
僅かに動かせる顔を横にずらして、ささやかな抵抗を示した。
こんな新堂は初めてだった。
もしかして、これは嫉妬か。
単なるセフレでも、他の男に取られるとなると許せないか。
「おがた……」
低く唸る新堂の声が、俺の口の中に吹き込まれる。
俺の手首を解放した両の手は、俺の頭から両頬を辿り、首に回された。
「おがた……」
キスで唇は塞がれている。新堂の両手がゆっくりと俺の首を絞めた。
「……っ…!」
キスされながら、息を止めた。
首に回された手に力が籠っていく。
締まっていく感触、息苦しさ、こめかみあたりの血管が、切れそうなほどに膨れ上がった気がした。
恐らくはほんの数秒、苦しいというより、ふわっと意識が飛ぶような、むしろその苦痛が気持ちいいぐらいの感覚。
恍惚とした気分はすぐに去り、うっすら目を開けると、新堂は膝立ちで俺に跨り、俺の顔をぼんやり見下ろしていた。
突然の怒りはどうやら収まったらしく、目が合うと、じっと見つめてくる。
「あの人と付き合うのか」
「……」
「真面目で、優しい人か」
「……」
「おまえのこと、大事に……」
途中まで言い掛けて、新堂は苦しげに目を眇め、唇を歪めた。
「あのさぁ、すんごい勘違いしてるよ、新堂」
ごそごそと上体を起こし、上目使いに目の前の大バカ野郎を睨んでやる。
いきなり現れて、不機嫌な顔をされ、何事かとびくついた自分がバカらしくなってくる。
むしろ、そのとんでもない誤解に段々腹が立ってきた。
「君が欲しいっていうのは、正社員にならないかって話。今は俺、契約社員だから」
むっとした口調で言ってやると、新堂はぽかんとした顔をした。
「バカ、そんなゲイが巷にごろごろいるかよ」
ぶちぶち文句を言うと、自然に下唇も突き出てくる。
誤解と分かって一気に力が抜けたのか、新堂はベッドに胡坐を掻き、へたりこんだ。
「新堂の後釜?」
「……」
心を全て抉り取り、俺が俺でなくなるのなら、あるいはそんなことも可能なのかもしれない。
「新堂じゃない誰かと、俺が寝るの?」
「……」
ぽつんぽつんと言葉を吐くと、心がどんどん冷えていく。
後釜だとか、やらせたとか、あんまりだろう。
新堂じゃない他の人を欲しいと思ったことはない。
別れたいと思ったことも一度もない。
ずっと縋って生きてきた。新堂が俺の全て。
これからもそれは変わらない。例え、新堂が俺を捨てても。
新堂は何も言わず、ただ辛そうに俺の顔を見ている。
呆然としている男の両手に、俺は手を伸ばした。
さっき一瞬だけ、俺の首を絞めたその手のひらを見る。
黙ってそれを、自分の首にもう一度回し、目を閉じた。
「おがた……」
「……」
どうせ終わりがくるのなら、やってくれて良かったのに。
どうして途中で止めるんだ。
俺の首から手を離し、新堂は俺を抱き締めてきた。
その温もりにほっとする。
今夜もまた来てくれた。
まだ一緒にいられることが、泣きたいぐらいにありがたかった。
「おがた……」
辛そうに俺を呼ぶ。
何か言ってくれるのではないかと、俺はいつも、言葉の続きを期待する。
でも、その何かを返してくれることはない。
そして、何も言わない新堂に、俺はいつも、絶望してきた。
しばらく俺を抱いていた新堂は、ふらりと立ち上がり、玄関へ向かった。
「もう帰るの?」
「ああ」
婚約者のことを、何か言いに来たんじゃないのか。
やはり昨夜の電話のことで、責められたりしたのだろうか。
婚約者が何も言わなくても、新堂自身、潮時だと思ったんじゃないのか。
慌てて背中を追いかけて、玄関に立った。
新堂が帰るとき、これで最後じゃないかと怖くなるのが常だった。
今夜はそれがより現実味を帯びている。
靴を履いて、ふっと動きを止めた新堂は、思い切ったように俺を振り返った。
「緒方……」
俺の顔を痛々しげにじっと見て、そこで口を噤む。
何か言いたげに、でも、言葉が見つからないようだった。
もしかして、これが最後か。
いつもと違う雰囲気が、俺の不安を掻きたて、どくんどくんとこめかみに血が集まり始める。
「……しばらく……、来られないかもしれない」
「……」
散々迷った様子で、新堂が口にしたのは、こんな言葉だった。
ああ……。
やっぱり。
声も出せずに俯いて、新堂の言葉を噛み締める。
「分かってるよ。忙しいんだろ?」
これが最後か。これきりなのか。
落ちていく気持ちを振り切るように顔を上げ、口の端を上げて笑顔を作る。
泣いてすがるつもりはない。
無駄だと分かっているからだ。
ただ笑って送り出す。
俺たちの真実に気づかぬふりをするために。
苦しげに顔を顰めた新堂は、指先で俺の強ばった頬に触れてきた。
中途半端な優しさなら、いっそくれない方がいい、
もし、こう言い切る強さが俺にあったら、とっくの昔に俺たちは終わっていたのだろうか。
「また来る」
「……」
優しく言い含めるように、新堂は俺を見つめる。
この男は嘘は言わない。だからきっと、この言葉は本心だろう。
だけど、いつまで?
俺は、後何回、おまえに会えるんだ。
「待ってろ」
「うん……」
辛そうに目を眇め、それでも微笑む新堂を見上げ、俺も懸命に作った笑顔で応えた。
「……待ってる」
いつもと違う新堂の、いつも通りの優しい言葉を、俺は、いつもと同じ顔をして受け止めようとした。
別れの言葉は言わないでほしい。
また来ると、この言葉を最後にしてくれたらいい。
そうすれば俺は、明日は来るかもしれないと信じて、待ち続けることができる。
そのときふいに、新堂が消えそうな声で呟いた。
「俺が……好きか?」
「……」
目が合って、はっと息を呑み絶句した。
なぜ今、俺にそれを聞く。
「……好きだよ……!」
思いの全てを吐き出すように、喉の奥から絞り出す。
思わず返した一言で、涙がはらはら散り落ちた。
くっと眉を寄せた新堂は、顔を歪めながらも、満足そうに微笑んだ。
それから、思いきるように背中を向け、扉を開けて俺の部屋から出て行った。
日野さんという、俺が仕事をもらっているソフトウェアハウスの人で、数か月前に他社から引き抜かれてきた人だ。
年は三十代後半で、ボストン眼鏡と顎髭がトレードマークのちょっとおシャレな人だった。
「緒方君、やっぱり体調悪いんじゃない? 顔色がよくない。ちゃんと食ってる?」
「平気です。大丈夫ですから」
心配そうな日野さんを前に、俺は無理に笑った。
打ち合わせなら電話会議で済ませられるのに、実際に顔を合せて仕事をするのがポリシーらしく、俺のところにもマメに進捗を見に来てくれる。
今夜も、次の仕事の資料を届けてくれて、ついでにデモ版の動作確認を俺の部屋で一緒にやった。
「いいのが出来たな。あれならクライアントもイッパツOK出すよ」
「ありがとうございます」
「次のもいい仕事を期待してる」
「はい、がんばります」
我ながら、心にもない返事をしていることに呆れた。
新堂のことで参っているこの状態で、次の仕事をまともにこなせる自信がない。
しばらく休ませてくれと、早々にSOSを出すのがお互いのためかもしれない。
収入がなくなっても、貯金で当座はやっていける。
だが、次に復帰しようとしたとき、仕事があるかどうか、その保障はどこにもなかった。
玄関先に送って出ると、自分でドアを開けた日野さんがふと足を止め、中にいる俺を振り返った。
「あの話、先週も言ったけど」
視線で語ってこられて、ああと頷き返した。
「すみません。俺なんか、気に掛けていただいて……」
「俺なんか、じゃないの。君が欲しいんだよ。だから言ってるのに」
「はい……」
気持ちは嬉しいが、応じるつもりはなかった。
だから即答で断ったのだ。
「ちゃんと考えて。うんって言ってくれるまで、何度でも言うからね。
僕は狙った獲物は必ず落とすよ」
「はは……、何すか、それ」
苦笑いした俺に、日野さんも笑っていた。
「それじゃ、また。何かあったら、遠慮せず僕の携帯に電話してね。何時でもいいから」
「ありがとうございます」
「ちゃんと食べろよ。今度は何か、差し入れを持ってこよう」
「お気遣い、スミマセン」
何もかもどうでもいい。
ぺこりと頭を下げはしたが、せっかくの親切も俺にはもう煩わしいだけだった。
日野さんがエレベーターに乗り込むのを見届けて、半開きにしていた玄関扉を閉めようとしたら、ふいに伸びてきた手に、がっと扉を掴まれた。
ぎょっとしたが、部屋に押し入ってきたのはとても馴染みのある顔だった。
「なんだ……、新堂か。びっくりした……」
一瞬、強盗かと驚いた分だけ、どっと体から力が抜けた。
そんなものが怖いと思うのは、まだ我が身が惜しいらしいと、思わず失笑してしまう。
そんな俺には見向きもせずに、新堂は無言で、ずかずか部屋に上がってきた。
何となくだが、機嫌が悪そうに思えた。
「どうしたの? 昨日来たのに……?」
昔から新堂は、俺の部屋に二日連続で来たりしない。
たぶん、来ても俺の体が使い物にならないと思っているからだ。
昨日の今日で、来てくれたのは正直嬉しい。
でも、手放しで喜べる状況ではなかった。
もしかしたらと、俺は身構えてしまう。
婚約者に俺のことがバレて、これきりにしようと、いよいよ俺に引導を渡しに来たのではないのか。
「俺が毎日来たら、都合悪いわけ?」
「……?」
むっとした顔をして、新堂の口調は皮肉めいて聞こえた。
やはり機嫌が悪い。婚約者と揉めたのかもしれない。
いつもなら、すぐにジャケットを脱ぐのに、今日に限ってそれもせず、新堂はどかっとベッドに腰掛ける。
両膝に肘を乗せ、両手を組んで額を支え、目を閉じてしまった。
「あの……さ、コーヒーでも淹れる?」
「……」
何かあったのかとは、怖くて聞けなかった。
黙りこくっている新堂に、どうしていいか分からなくなる。
耳障りな換気扇の音に、時折サッシに吹き付ける風の音が交じる。
通り過ぎる車のエンジン音、そんなものを聞きながら、身じろぎひとつしない新堂の横顔を、息を詰めて見ていた。
「あれって誰? さっきの……」
ようやく新堂が口を開いた。ずっと黙っていたからか、声が少し掠れ気味に聞こえる。
「さっき……?」
新堂は手を額から離し、呆然と立っている俺を見上げてくる。
その顔には、明らかに俺への怒りがあった。
「さっき、おまえが見送ってた相手だよ」
淡々とした口調は、いつもの穏やかなそれとは違い、突き放すように冷たい。
「仕事で……世話になってる人……」
まさか、俺が原因か?
何を怒っているのか分からず、新堂の顔色を窺いながらおずおずと答えた。
「ふうん、わざわざ自宅に来るなんて、ずいぶん親しいんだな。
仕事の話なら、会社でやるもんじゃないのか」
感情の籠らない声音が、特上の皮肉に聞こえる。
普段の新堂なら絶対にしない嫌な言い方だった。
「仕事で資料を届けてくれて……。別に親しいってわけじゃ……」
「……」
俺の言葉を疑っているのか、険しい眼差しがじっと俺を捉えていた。
「……俺、何かした?」
「何が?」
「何か気に障るような……」
「いいや」
思い切って聞いてみたのだが、つっけんどんな言い方をされ、取り付く島もない。
「……どんな人だ」
新堂は、イラついた声で聞いてくる。
「どんなって……」
なぜ新堂が日野さんを気にするのか。
どう応えたらいいのか分からず、困ってしまった。
「だいぶ年上だよな。ぱっと見だと、相当遊んでそうだ」
「はぁ?」
そんなこと、新堂に関係あるのか。
何が気に入らないのか知らないが、こんな風に他人を悪く言う新堂は初めてだった。
「真面目な人だよ。仕事もできるし」
つい日野さんを庇ったのだが、どうやらそれが新堂の神経を逆撫でした。
「なんだ。まんざらでもないんじゃないか。
なら、気を持たせてないで、さっさとOKしてやれよ」
「……?」
話がさっぱり見えなくて、俺の眉間に皺が寄る。
新堂は感情を抑えられなくなってきたのか、急に早口にまくし立ててきた。
「あの男と付き合うんだろ?」
「え?」
吐き捨てるみたいな言い方をされたが、その内容が突拍子なくて、眼が点になる。
「惚けなくていいよ」
冷ややかな声は立ちはだかる壁のようだ。
「君が欲しい、狙った獲物は必ず落とす。相当な自信家だよな」
日野さんが帰り際に残していった言葉を、新堂が嘲るように繰り返した。
「聞いてたの?」
「聞こえたんだ!」
立ち聞きしたと俺が責めたと思ったのか、新堂は声を荒げる。
「俺が結婚するなんて言ったから、さっそくあれが俺の後釜か! 手回し良すぎだろ!」
苛々した口調で、新堂はさらに責めたててくる。
「いつからあんなの連れ込んだ? 俺が気付かなかっただけか? もうやらせたのかよ!」
新堂は、上着を脱ぎ捨て、ネクタイも乱暴に引き抜いた。
「さっさと脱いで、足開け! おまえの体に聞いてやる」
ネクタイをベッドの上に投げ捨てると、新堂は乱暴に俺の腕を掴み、ベッドに押し倒してきた。
「痛い……。新……」
俺の腹に馬乗りになり、無理やり口づけようとする。
苦しくなって逃れようともがいた。
「もう俺は嫌か、え?」
「苦し……」
手首を掴まれ、指が食い込んでくる。
歯がぶつかるような強さで、食いちぎられそうなキスをされた。
体重を掛けられると、体格差で身動きができない。
僅かに動かせる顔を横にずらして、ささやかな抵抗を示した。
こんな新堂は初めてだった。
もしかして、これは嫉妬か。
単なるセフレでも、他の男に取られるとなると許せないか。
「おがた……」
低く唸る新堂の声が、俺の口の中に吹き込まれる。
俺の手首を解放した両の手は、俺の頭から両頬を辿り、首に回された。
「おがた……」
キスで唇は塞がれている。新堂の両手がゆっくりと俺の首を絞めた。
「……っ…!」
キスされながら、息を止めた。
首に回された手に力が籠っていく。
締まっていく感触、息苦しさ、こめかみあたりの血管が、切れそうなほどに膨れ上がった気がした。
恐らくはほんの数秒、苦しいというより、ふわっと意識が飛ぶような、むしろその苦痛が気持ちいいぐらいの感覚。
恍惚とした気分はすぐに去り、うっすら目を開けると、新堂は膝立ちで俺に跨り、俺の顔をぼんやり見下ろしていた。
突然の怒りはどうやら収まったらしく、目が合うと、じっと見つめてくる。
「あの人と付き合うのか」
「……」
「真面目で、優しい人か」
「……」
「おまえのこと、大事に……」
途中まで言い掛けて、新堂は苦しげに目を眇め、唇を歪めた。
「あのさぁ、すんごい勘違いしてるよ、新堂」
ごそごそと上体を起こし、上目使いに目の前の大バカ野郎を睨んでやる。
いきなり現れて、不機嫌な顔をされ、何事かとびくついた自分がバカらしくなってくる。
むしろ、そのとんでもない誤解に段々腹が立ってきた。
「君が欲しいっていうのは、正社員にならないかって話。今は俺、契約社員だから」
むっとした口調で言ってやると、新堂はぽかんとした顔をした。
「バカ、そんなゲイが巷にごろごろいるかよ」
ぶちぶち文句を言うと、自然に下唇も突き出てくる。
誤解と分かって一気に力が抜けたのか、新堂はベッドに胡坐を掻き、へたりこんだ。
「新堂の後釜?」
「……」
心を全て抉り取り、俺が俺でなくなるのなら、あるいはそんなことも可能なのかもしれない。
「新堂じゃない誰かと、俺が寝るの?」
「……」
ぽつんぽつんと言葉を吐くと、心がどんどん冷えていく。
後釜だとか、やらせたとか、あんまりだろう。
新堂じゃない他の人を欲しいと思ったことはない。
別れたいと思ったことも一度もない。
ずっと縋って生きてきた。新堂が俺の全て。
これからもそれは変わらない。例え、新堂が俺を捨てても。
新堂は何も言わず、ただ辛そうに俺の顔を見ている。
呆然としている男の両手に、俺は手を伸ばした。
さっき一瞬だけ、俺の首を絞めたその手のひらを見る。
黙ってそれを、自分の首にもう一度回し、目を閉じた。
「おがた……」
「……」
どうせ終わりがくるのなら、やってくれて良かったのに。
どうして途中で止めるんだ。
俺の首から手を離し、新堂は俺を抱き締めてきた。
その温もりにほっとする。
今夜もまた来てくれた。
まだ一緒にいられることが、泣きたいぐらいにありがたかった。
「おがた……」
辛そうに俺を呼ぶ。
何か言ってくれるのではないかと、俺はいつも、言葉の続きを期待する。
でも、その何かを返してくれることはない。
そして、何も言わない新堂に、俺はいつも、絶望してきた。
しばらく俺を抱いていた新堂は、ふらりと立ち上がり、玄関へ向かった。
「もう帰るの?」
「ああ」
婚約者のことを、何か言いに来たんじゃないのか。
やはり昨夜の電話のことで、責められたりしたのだろうか。
婚約者が何も言わなくても、新堂自身、潮時だと思ったんじゃないのか。
慌てて背中を追いかけて、玄関に立った。
新堂が帰るとき、これで最後じゃないかと怖くなるのが常だった。
今夜はそれがより現実味を帯びている。
靴を履いて、ふっと動きを止めた新堂は、思い切ったように俺を振り返った。
「緒方……」
俺の顔を痛々しげにじっと見て、そこで口を噤む。
何か言いたげに、でも、言葉が見つからないようだった。
もしかして、これが最後か。
いつもと違う雰囲気が、俺の不安を掻きたて、どくんどくんとこめかみに血が集まり始める。
「……しばらく……、来られないかもしれない」
「……」
散々迷った様子で、新堂が口にしたのは、こんな言葉だった。
ああ……。
やっぱり。
声も出せずに俯いて、新堂の言葉を噛み締める。
「分かってるよ。忙しいんだろ?」
これが最後か。これきりなのか。
落ちていく気持ちを振り切るように顔を上げ、口の端を上げて笑顔を作る。
泣いてすがるつもりはない。
無駄だと分かっているからだ。
ただ笑って送り出す。
俺たちの真実に気づかぬふりをするために。
苦しげに顔を顰めた新堂は、指先で俺の強ばった頬に触れてきた。
中途半端な優しさなら、いっそくれない方がいい、
もし、こう言い切る強さが俺にあったら、とっくの昔に俺たちは終わっていたのだろうか。
「また来る」
「……」
優しく言い含めるように、新堂は俺を見つめる。
この男は嘘は言わない。だからきっと、この言葉は本心だろう。
だけど、いつまで?
俺は、後何回、おまえに会えるんだ。
「待ってろ」
「うん……」
辛そうに目を眇め、それでも微笑む新堂を見上げ、俺も懸命に作った笑顔で応えた。
「……待ってる」
いつもと違う新堂の、いつも通りの優しい言葉を、俺は、いつもと同じ顔をして受け止めようとした。
別れの言葉は言わないでほしい。
また来ると、この言葉を最後にしてくれたらいい。
そうすれば俺は、明日は来るかもしれないと信じて、待ち続けることができる。
そのときふいに、新堂が消えそうな声で呟いた。
「俺が……好きか?」
「……」
目が合って、はっと息を呑み絶句した。
なぜ今、俺にそれを聞く。
「……好きだよ……!」
思いの全てを吐き出すように、喉の奥から絞り出す。
思わず返した一言で、涙がはらはら散り落ちた。
くっと眉を寄せた新堂は、顔を歪めながらも、満足そうに微笑んだ。
それから、思いきるように背中を向け、扉を開けて俺の部屋から出て行った。
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……これはメンヘラなのではないか?という説もあります。
pixivでも投稿しています。
攻め:九條隼人
受け:田辺光希
友人:石川優希
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグ整理します。ご了承ください。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
《完結》僕の彼氏は僕のことを好きじゃないⅠ
MITARASI_
BL
彼氏に愛されているはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
「好き」と言ってほしくて、でも返ってくるのは沈黙ばかり。
揺れる心を支えてくれたのは、ずっと隣にいた幼なじみだった――。
不器用な彼氏とのすれ違い、そして幼なじみの静かな想い。
すべてを失ったときに初めて気づく、本当に欲しかった温もりとは。
切なくて、やさしくて、最後には救いに包まれる救済BLストーリー。
続編執筆中
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
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いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
幸せな復讐
志生帆 海
BL
お前の結婚式前夜……僕たちは最後の儀式のように身体を重ねた。
明日から別々の人生を歩むことを受け入れたのは、僕の方だった。
だから最後に一生忘れない程、激しく深く抱き合ったことを後悔していない。
でも僕はこれからどうやって生きて行けばいい。
君に捨てられた僕の恋の行方は……
それぞれの新生活を意識して書きました。
よろしくお願いします。
fujossyさんの新生活コンテスト応募作品の転載です。
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