九年セフレ

三雲久遠

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十五話

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 その後、新堂は、タクシーで彼女を家まで送った。
俺も助手席に乗れと言われ、大人しく従った。
新堂と二人で俺のマンションに帰りつく頃には、もう日暮れになっていた。

「あー、腹減った。何か食うものある?」

 部屋の明かりを点けて開口一番、新堂が言ったのがこれだった。

「カップ麺ならあるけど」
「それでいい。朝から何も食ってない」

 彼女を自宅まで送るまでも、その後、俺の部屋に着く間も、タクシーの中で新堂は終始無言で、俺は重苦しさに胸が潰れそうになった。
それがいきなり食い物の催促をされ、拍子抜けしてしまう。
言われるままに簡易キッチンに立ち、お湯を沸かした。
こんな暢気なことをしている場合かと、妙な気がしてくる。

 俺の後ろでは、新堂がベッドにどさりと腰を下ろし、脱いだスーツのジャケットやネクタイを無造作に布団の上に放り投げていた。

「不愉快な目に遭わせてすまなかった」

 疲れた顔で、新堂が俺に詫びてくる。

「あ、いや……、俺の方こそ、バカなこと口走って……」

 文字通りの醜態だった。
新堂はきっと呆れたに違いない。
でも、不思議なほど後悔はなく、あれをどう思われたとしても、むしろ俺の気持ちはすっきりしていた。

 ヤカンに水を入れ過ぎたせいで、お湯がなかなか沸かない。
新堂に背を向けたまま身じろぎもできず、それきり言葉が途切れてしまう。

「婚約解消の方向で話を進めている。まだ、完全には納得してもらえてないけどな」

 穏やかな口調で、新堂は俺の背中に告げてきた。
タクシーを降り、何も言わずに門の中に消えた女の後ろ姿は、がっくりと打ちひしがれていた。
そんな彼女に対し、新堂は車から降りようともせず、もしや、これは破談なのではないかと思ってしまった。

「でも、『しばらく来られない』って……」

 あれは、俺たちはもう終わりって意味じゃなかったのか。

「だから、『待ってろ』って言っただろ」

 俺はもう別れを覚悟していたから、あの時の言葉をネガティブな意味でしか捉えられなかった。
もしかして、あの夜、新堂は相当な決意であれを言ったということか。

「婚約を破棄するから待ってろって意味?」
「そうだよ。他にどんな意味があるんだよ」
「じゃあ、なぜあの時、結婚は止めたってはっきり……」
「言いたかったよ。だけど、いろいろ問題があり過ぎて、おまえに話せる状況じゃなかった」
「……」

 新堂の口から婚約解消だと聞かされて、ほっとしなかったと言ったら嘘になる。
だが、いろいろと問題があるとは何なのか。
手放しで喜んでいい状況ではないということか?

「まだ納得してもらってないってことは、モメてるってこと?」

 婚約者が俺を呼び出すぐらいだから、そりゃあモメているのだろう。
俺が聞いていいものかどうなのか、でも状況が見えないままでは不安になる。

「今日もあの女の父親に病院に呼びつけられた。
 あっちの弁護士同席で、やっぱり破談を取り消さないかってさ。
 無理ですって断ったら、損害賠償請求をさせてもらうって言われた」
「損害賠償……? それ、まさか裁判になるってこと……?」
「まぁ、拗れたらな」
「損害賠償って、いくらぐらい……?」
「さぁ、一般的には相手が支払い可能な範囲で妥協するらしいけど、相当ふっかけてくるかもな」

 新堂はさらりと言うが、俺は血の気が引いた。
さっき、訴えたっていい、証拠だってあると喚いたあの女の言葉は、そういう話だったのかとようやく理解が追いついた。
 
 超一級ホテルでの巨額の披露宴、建築中だという新居、俺が聞いただけでも相当金の掛かった結婚だった。
良いとこのお嬢さんが結婚式取りやめなんて、あまりにも外聞が悪い。
経済的損失と精神的苦痛、その総額は法的にいくらと見積もられるのだろう。

「新堂、あの……、会社の常務の紹介とかって言ってなかった?
 仲人も常務さんで……、そっちの方は大丈夫なの?」
「会社には辞表を出してる。正式受理はまだだ」
「え……?」

 さらに驚かされて、俺は言葉を失った。
国内でも有数の巨大医療法人は、最先端医療機器の納入先として会社にとって最重要顧客だろう。
その理事長の一人娘との常務肝いりの婚約が破談。
辞表もやむを得ないということか。

 婚約破棄なんて世間ではよくある話だと思っていたが、これは相手が悪すぎる。
巨額の損害賠償、そして会社は退職予定。
高い技術力を誇る最大手企業でのエンジニアとしてのキャリアまで捨てることになる。
何故こんな、何もかもを失うようなことになっているんだ。

 新堂は、狼狽える俺を見つめ、淡々と話し始めた。

「春頃、突然常務に呼び出されて、見合いを勧められた。
 事業部の中長期的な業績も左右するような、重要顧客のお嬢さんが相手だった。
 そんなの、一度でも会ったらもうこっちからは断れない。
 だから最初にきっぱり断ったのに妙にしつこくて、おかしいと思っていたら、叔父の方に手を回された」

 普段はまるで自分のことを話さない、そんな新堂が初めて俺に事の顛末を語ろうとしてくれている。
俺は、ベッドに座る新堂に向き直り、神妙な気持ちで耳を傾けた。

「俺の養父母が叔父夫婦だってこと、緒方は知っているよな。俺の実父のことも」

 新堂から直接聞いたことはないが、噂でいろいろ聞いていた。
その養父母にずっと気を遣っていることも、長い付き合いで薄々は承知している。

「ここ数年、その叔父の会社が相当厳しくて、最悪の場合を覚悟してくれと言われていた。
 それが、ある日家に帰ると、珍しく叔父の表情が明るい。
 合併話が持ち上がり、倒産せずに済むかもしれないと言い出した」

 忌々しげに新堂の顔が歪む。

「常務だったよ。
 俺が見合いに応じないから、俺の身辺を嗅ぎまわって、手の込んだ策を弄してきた。
 常務が社長を兼務している子会社で、叔父の会社を救済合併すると言われた。
『新堂君、これが所謂バーターってヤツだ。でも、いい縁談だろう?』
 常務にすっかりハメられた。
 叔父は資金繰りに疲れ切っていて、限界は目に見えていた。
 交換条件が俺の結婚だなんて知らずに、救いの神だって喜んでる叔父夫婦に、
 その話を断ってくれとはどうしても言えなかった」
 
 さっきあの女は、最初は常務から諦めるように暗に言われたと言っていた。
それを泣き落として無理強いをした。
常務は取引先の機嫌を損ねないために、ここまでやったということか。

「両親が事故死して、中学から育ててもらったってだけじゃない。
 父が遺した多額の借金を完済してくれたのも叔父だ。
 方々に頭を下げて、父の失敗の尻拭いを全て引き受けてくれた。
 父の悪口も、愚痴のひとつも零さずにだ。
 一生賭けても、この恩は返せないと、中坊の頃からずっとそう思ってきた」

 新堂にとって、お父さんのことは、他人からは見えない影の部分だろう。
どんな思いで過ごしてきたのか、それを思うと胸が痛くなってくる。

「だけど、ふと気づいたんだ。
 これで叔父に恩返しができるんじゃないのか。
 俺の結婚なんてことで叔父の会社が助かるのなら御の字だ。
 俺にとっては千歳一隅のチャンスだった。
 これを逃せば、きっともう一生、叔父への恩返しは無理だ。
 そう思ったら、ぱっと目の前が開けた気さえした」
 
 同意を求めるように、小首を傾げて俺を見る。
その顔を見て、新堂が自分に課してきた生き方の本質を知った。

 きっと新堂は、自分のことはどうでもいいのだ。
結婚は人生の一大事だろうに、それさえも犠牲にして、養父母に尽くそうとする。
そうせざるを得ないのが、新堂の立場だった。

「叔父の会社の状況はもうギリギリまで来ていて、明日にも不渡りを出しそうだった。
 迷っている余裕はなかった。
 だから見合いの話を受けた。すぐに叔父の会社を助けてくれって、常務に頭を下げた」

 結婚に追い込まれた新堂の苦境が手にとるように分かる。
他に方法がなかった。俺が同じ立場でも、同じ事をしただろう。
新堂の言葉から、少しずつ、今までまるで見えなかったその心が見えてくる。

「その後は、トントン拍子に話が進んで、流されていれば、周りが勝手に俺の恩返しを完成させてくれる。
 そのはずだった、……でも……」

 新堂は両手で頭を抱え、俯いてしばらく黙りこんだ。
何か高まる感情を抑えているような沈黙だった。

 ヤカンがピーっと音を立てているのに気づいたが、俺の体は、凍り付いたように動かなくなっていた。
新堂がゆらりと立ち上がり、ガスコンロの火を消してくれる。
そのままキッチンのシンクに両腕を突いて、俺の傍らで話を続けた。

「別に相手のことが好きじゃなくても、結婚ぐらいできると思ったんだけどな……」

 新堂は酷く露悪的な言い方をした。
自分の心ぐらい殺せる。
愛情がなくても、上面だけで相手に合わせるぐらい平気だと、そういう意味か。

「俺の結婚。そんなものはどうでもいい。
 だけど、おまえをどうするんだ。考えても答えが見つからない。
 結婚話は進んでいるのに、今まで通り、素知らぬふりしておまえに会って……、
 また来るって言い続けて……」

 最低だと、新堂が小さく呟く。

「いつかこんな日が来るんじゃないかと思ってた。
 男同士で、いつまでこんな関係が続くんだ。
 だけど、いざその時が来てみたら、どうしていいか分からない」

 俺のことで悩んでくれたのかと、それだけで胸がいっぱいになる。
何か言ったら、ぼろぼろ涙がこみ上げてきそうになり、息を止めて堪えた。

「サークルの飲み会で、木田に結婚話をばらされて、おまえに黙ってるのももう限界で。
 だから自分でおまえに話した。平気そうに、他人事みたいに」
「……」
「案の定、おまえに泣かれて。
 別れようって言うべきだった。
 不倫なんて、おまえをボロボロにしてしまう。
 でも俺は、どんなにおまえを傷つけても、別れようとは言えなかった。
 俺が好きだろ、って何度も聞いて。
 なんて自分勝手でずるい男なんだって、自分でも最低だなって……」

 新堂は辛そうに、首を左右に緩く振った。

「そしたら、おまえが男を連れ込んだ」
「……あの人は……」

 分かっていると言いたげに、新堂はうんうんと頷いて片手を上げて俺を制する。

「おまえに俺以外の男なんて、考えたこともなかった。
 だけど、あり得るんだよな。
 そうなのかと思ったら、もう頭に血が上って、一方的におまえを責めた」
「新堂以外、俺、考えたこともないよ」
「うん……、そうだよな……。分かってる」

 あの日の新堂は酷かった。
何であんなに疑われたのか、今も不思議でしょうがない。

「大学からこれほど長く一緒にいて、辛そうに笑うおまえを見てるのが、辛かった。
 幸せにしてやれてない。俺じゃ無理だと分かってた。
 俺じゃない他のやつなら、緒方は幸せだったかもしれない。
 今からでも他のやつに預けたら、幸せにしてくれるのか、なんて考えたら、もう頭が沸騰した」
「他の人なんて、無理に決まってるのに」
「うん、緒方、そうだよな」

 辛そうにしか笑えなかった。
負担になりたくない、負担だと思われて捨てられたくない。
そんな姑息な思惑で無理に笑顔を作っていた。
まさかそれが新堂を傷つけていたなんて知らずに。

「痴情のもつれで刃傷沙汰、ああなる心理が分かる気がした。
 俺がとち狂ったら、もう完璧二人で破滅だよな」

 怖いことを口にしながら、新堂の表情が少し緩む。
そっと俺の首に指先で触れてくる。
あの日、ほんの少しに間、両手に力を込めて締められたことを思い出す。

「これはもう無理だと悟るしかなくて、だから、叔父に話した」
「新……堂?」

 新堂が結婚を止めた。それも俺のために。
何よりも嬉しいはずのこの言葉に、俺は耳を塞ぎたくなる。

「『どうしても、別れられないヤツがいる。合併の話は諦めてほしい』」
「……そんな、だって……!」

 苦しげに微笑む新堂の、その胸にすがりついた。
そんなことを言い出せば、会社は倒産するかもしれない。
たくさんの従業員が職を失い、取引先にも迷惑が掛かる。
叔父さんも叔母さんも何もかもを失って、この先、どうなっていくのか。

 新堂のお父さんも同じような状況で、苦しんだのではないのか。
それを見ていた新堂は、その悲惨さを嫌というほど知っているんじゃないのか。

「あの夜、おまえに『待ってろ』って言った夜、家に帰って叔父に話した」
「……あの日だったの……」

 破談にするから、『待っていろ』と俺に言った。
そう言って帰ったあの日。

 それは恩ある養父に、死ねと言っているようなものだ。
恐怖でがくがく体が震え出す。
両手で髪を掻きむしり、自分の頭を押さえ込んだ。

「ごめんな、緒方。こんな重い話をおまえに背負わせたいわけじゃない。
 全部決着がついてから、ちゃんと話すつもりだった」

  だから何週間も、俺に会いに来られなかったのか。
新堂が苦しんでいる間、俺は何も知らずに、ひとり呑気に自分を哀れんでいた。

 あまりのことに、体の震えが止まらない。
大丈夫だからと、新堂に何度も背中をさすられ、俺はしばらく息をすることもできなかった。
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