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高校2年(後輩)と高校3年(先輩)
早朝
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いつも通りの浅い眠りから覚め、気怠い身体を無理やり起こす。ぼんやりとした意識のままふと目をやった窓際、なんの模様もない真っ白いカーテンの隙間からは、霧がかかったようにぼんやりと薄暗い景色が覗いていた。まだ日が昇っていないのだろうか、と枕元に無造作に置かれたスマホを手に取れば、映し出された時間は午前4時を少し過ぎたところだ。普段よりかなり早い起床にはなるが、目がさえてしまってもうひと眠りできそうにないためこのまま起きていることにした。最近また寝不足気味だが仕方がない。いつまでもここでグズグズしているのも時間の無駄だと思い直し、適当に寝具を整えてベッドから出た。とは言っても、やはり睡眠時間が明らかに足りていない体は思うように動かず、頭もろくに回らないものだ。残っている眠気を取り除くべくバシャバシャと容赦なく冷水を顔に浴びせると幾分か目は覚めたものの、鏡に映る自分の顔はとても健康的とは言い難いものだった。よく見ると目の下にうっすらとクマまで浮かんでいる。
…まずい。
このままだと、また先輩に注意されてしまうかもしれない。いつもは鈍いくせにこういう時だけ何故かよく気がつく彼女には、先日も寝不足続きなことを指摘されたばかりなのだ。ただ、そうは言っても彼女の"お説教"は全然怖くない。僕には「怒っている先輩も可愛いなあ」くらいにしか思えないものだが、向こうはあれでけっこう怒っているつもりらしいので、僕も一応反省するフリはしている。僕としては正直、彼女に怒られるのも悪くない、というか、むしろ気にかけてもらえるだけでかなり嬉しいのだ。なんなら、わざと怒られにいきたいとすら思う。が、あまり頻繁に同じことを繰り返して自己管理のできない男だと思われてしまっては困るし、呆れられて最終的に見捨てられる、なんてことがあったら僕はもう生きていける気がしない。だから今更あまり意味は無いと分かってはいながら、いちおう先程よりもさらに念入りに顔を洗ってみた。もちろんそんなことですぐに効果が現れるわけもない。少しくらいマシになっていないかと期待したが、鏡の中に映るのは相変わらず不健康そうな顔色で、さすがにもう少し早く寝た方がいいのかもしれない、とわずかながら危機感を覚えた。今夜だけでもゆっくり眠ろうと心に決めると、今日はもう諦めて洗面所を後にした。
普段ならまだ寝ている時間だということもあり大して空腹も感じないが、いつもの流れで朝食の準備に取り掛かる。朝食と言ってもただ食パンをトーストするだけの簡素なもので、準備という準備もほとんど無いが、パンを焼く間に天気予報でも見ておこうかとテレビをつければ、ちょうど目当てのコーナーが始まるところだった。芸能人のどうでもいいようなニュースが適当に切り上げられ、「今日のお天気」のテロップとともに画面が切り替わると、日本地図の上に大量の晴れマークが映し出される。今日は全国的に晴れて暖かく比較的過ごしやすい一日になるでしょう、と言う気象予報士の嬉しそうな声は最後まで聞かずにテレビを消すと、僕はため息をひとつ吐いてトーストを齧った。晴れて過ごしやすいということは、今日も先輩用の上着も傘も使えないということだ。先輩が寒い時に着てもらえるようにと買ったカーディガンも、先輩が傘を忘れたら一緒に入れるようにと買った大きめの傘も、いつか機会があればと用意だけはしてあるのだが、その"いつか"はなかなか来ないようで、残念ながら使ったことは今まで一度もない。最近春らしくなってきたし、このままいくと上着は使わずじまいになりそうだ。今日もまたダメだろうな、と少しがっかりしながら、あっという間に小さくなったパンの最後の一口を口に放り込む。食事なんて腹にたまればなんだっていいし、できるだけ短く済ませたい。これが先輩と一緒なら話は違うんだけどなあ、などとありもしないことを考えながら食器を片付け、さっさと歯も磨いてしまおうと改めて洗面所へ向かう。そういえば歯ブラシの交換を買っておいたんだった、と洗面台の棚を開けると、隣に置いてあるピンクの歯ブラシが目に入った。
ああそうだ、一度だけ。
そう、僕は一度だけ、先輩と、この家で食事を共にしたことがあった。突然の雨に降られて先輩を家に上げることに成功したあの日、半ば強引にではあったが彼女と二人きりで一晩を過ごすという夢のような状況に持ち込めたのだ。ただあの時は、とにかく先輩を帰らせないようにということしか考えられず、なんとか先輩を引き止めたはいいものの、いざ夕食を用意する時になって自分が普段全く自炊しないことを思い出し、料理も出来なければもちろん食材もほとんど何も無いという最悪の状態で内心相当焦っていたのだ。あの時ほど自分の食への無頓着さを恨んだことは無い。結局、いちばん食事らしいものをと用意出来たのは冷蔵庫に僅かに残っていた食材を米と炒めただけのチャーハンだった。チャーハン、とは言っても、当時は料理のド素人だった僕が作ったのだからもちろん食感もベチャベチャしていて、どう考えても成功とは言いがたい出来だった。料理と呼べるのかすら危ういそれを先輩に出すくらいならいっそ出前でも取ろうかと思ったのだが、先輩は何も気にしない様子で美味しいと言ってくれたのだ。料理できるのすごいね、と言われたのは例えそれがお世辞でも嬉しくて、普段も自炊してるの?という質問にはつい見栄を張った返事をしてしまった。ほとんどフライパンを握ったことすらないのによく言えたものだと自分でも思うけれど。
でも、僕はあの日から本当に料理の勉強を始めたのだ。今までは料理なんてただ面倒なだけだと思っていたが、先輩のためと思えば何の苦もない。それに、作れるものがどんどん増えていくのはそれなりに楽しくもあった。今では彼女の好物はだいたい作れるくらいには上達したが、やはり自分のためだけに凝ったものを作る気にはなれず、普段は相変わらずインスタント食品に頼る生活を続けている。早く先輩に僕の手料理を食べてもらいたいものだ。先輩は洋食の方が好きだから朝はやっぱりパンが食べたいのだろうか。マフィンなんかを焼いてもいいな、と彼女との朝食を思い描く。レシピを調べて今度の休日にでも作ってみようかと思いついたところで、でもなあ、と思考が止まってしまう。どうせ作っても先輩には食べてもらえない。当然といえば当然のことだが、その当然のことを考えてしまえばなんだか一気に現実に引き戻されたような気がして、せっかくの思いつきも実行に移そうとは思えなくなってしまった。どんなに僕が思いを巡らせたところで、実際に先輩と朝食を食べる日なんて当分来ないのだ。僕がこんなにも愛してやまない彼女は、今のところ僕をただの後輩としか思っていないのだから。そう思った途端、なんだか急に虚しく思えて、あの夜先輩が使っていたピンクの歯ブラシを棚の見えないところに隠すようにそっと移動させると、自分も急いで洗面所を後にした。
なんとなく沈んだ気分のままベッドに腰掛け、大きなため息をつく。さっきからため息ばかりついている気がする。やはり一人で過ごしてもろくなことがない。いっそ最初から意識しすぎないようにすればこんなに苦しむこともないのだと分かってはいても、気がつけば彼女のことばかり考えてしまっているのだからどうしようもなくて、改めて片想いのつらさを痛感する。早く先輩の声が聴きたい。いつものようにモーニングコールをしようとスマホを手に取るも、発信ボタンを押す直前で指が止まった。今朝は早く起きたせいで、まだ電話をかけるには早すぎる時間だったのだ。いっそ時間を間違えたフリをして電話してしまおうかとも思ったが、朝が弱い先輩のことだ、あまり無理に起こすと嫌がられてしまうかもしれないという考えが頭をよぎり踏みとどまった。モーニングコールなんてもちろん僕が勝手にやっていることだから、今はなんとなく習慣のようになってはいるものの、もし先輩に拒否されたらそこでおしまいなのだ。一時の焦りから、ただでさえ少ない先輩との繋がりを失ってしまっては元も子もない。残念だが電話をかけるのはもう少し我慢して、写真整理でもしながら時間を潰すことにした。
握りしめていたままだったスマホで画像フォルダを開けば、端末の小さな画面は最近撮ったばかりの先輩の写真で埋め尽くされていく。大半がこっそり撮影したものなのでカメラ目線のものはほとんど無いばかりか、後ろ姿など顔が写っていないような写真も多いが、僕にとってはどんな先輩も愛しいことに変わりはない。試しにずらりと並ぶ写真のひとつに触れると、画面に表示されたのは俯いた先輩の横顔だった。彼女の目線の先、画面の下の方にはノートの端のようなものが写りこんでいるのを見て、これはたぶん日誌を書いている時の写真だ、と撮影した時のことを思い出す。
ついこの間の放課後、一緒に部室へ行こうと先輩を教室まで迎えに行くと、先輩は教室に残って一人机に向かっていたのだ。作業の邪魔をしないよう気をつけつつそっと声をかけると、手元に集中していたのか、僕に全く気づいていなかったらしい先輩は少しだけ驚いた様子をしてから、「日直だったからこれ書かなきゃいけなくて」と書きかけの日誌を示した。めんどくさいんだよねこれ、などと愚痴を言ってはいるが、根は真面目な彼女らしく、日誌には丁寧に書かれた文字が綺麗に並んでいた。
書き終わったら行くから先に行ってて、という先輩の言葉に拒絶の意図は感じられなかったのでそのまま傍で見ていようとすると、彼女はそんな僕の行動をある程度予測していたのだろう。もうちょっとかかるからね、と念押ししつつ、僕に隣の椅子に座るよう促してくれたのだった。
僕は先輩のああいうところが堪らなく好きだ。普段は軽くあしらわれているように感じることも多々あるのに、かと思えばこうやって気まぐれに優しくしてくれるから、彼女は本当に僕の喜ばせ方をわかっている、というか。実際、今の僕がある程度健康で理性的な生活を送ることができているのは、全て彼女のそういう行動のおかげだと言ってもいい。きっと彼女に冷たくされたら僕はおかしくなっているはずだから。でも、彼女がこんな風だから、僕が余計に彼女から離れられなくなってしまうのもまた事実だ。もう既に戻れないところまで来ていることは自分でもなんとなくわかっている。僕が彼女に抱いている感情は、もはや恋なんて生易しいものじゃない。いつからだろう、彼女のことを考えると、なぜか自分から何かが欠けていくような思いがするのは。初めはこんな風じゃなかった。あの頃は彼女の姿を見るだけで、声を聞くだけで、心が満たされて幸せな気持ちになれたのに。今ではもう、何をしたって足りないと感じてしまう。こんなに近くに、息遣いまで聞こえるほど近くにいるのに、それでも全然満たされない。もっと彼女が欲しくて、そしてたぶん彼女にも自分を求めて欲しくて、でもそんなことを彼女に言えるわけもなくて…。僕がこんな気持ちを抱いているなんて彼女が知ったら、絶対に今の関係ではいられなくなる。だけど思えば、今のところ彼女から完全に拒絶されたことはない。それだけは救いだと思う、本当に。もし彼女に嫌われたりしたら…、なんて考えたくもない。想像するだけで吐き気がするし、胸の奥でなにか薄暗い感情が膨らんでいくような気がする。こんなこと考えるべきじゃない。だけど僕を圧迫する彼女への想いは日に日に増していくばかりで、最近はもう胸の中に留めておくのさえ苦しいのだ。この気持ちを全部吐き出せたらどんなに楽だろう。それを彼女に受け止めてもらえたらどんなに幸せなんだろう…、そんなことを考えないわけではないけれど、それと同時に、彼女にだけはこの感情を見せてはいけない、とも思う。何も知らない綺麗な彼女にこんな汚れた感情をぶつけたら、彼女が壊れてしまいそうで怖いのだ。
写真の中の彼女の綺麗な横顔を見ていると、改めて自分には手が届かない存在なのだと思い知らされているみたいで少し寂しい。夕日に照らされながら日誌を書く横顔があまりにも綺麗で、スマホをいじるフリをして思わず撮影してしまったんだっけ。もちろん実物の美しさには到底及ばないけど、写真でもまつ毛の一本一本まで輝いているように見える。こんな綺麗な人、きっと僕の醜い感情なんかには触れさせちゃいけない存在だ。彼女は一生、綺麗なものだけ見て、触れて、そうやって過ごしていくべきだと思う。でも、それでも僕は欲しくなってしまったのだ。夕日に煌めく髪も透明感のある滑らかな肌も、全部僕だけのために存在していてほしい。その長いまつ毛に縁取られた大きな瞳に映るのは僕だけであってほしい。その代わり、なんて傲慢なことは言えないけど、僕の全部は余すところなく彼女に捧げたい。足りない分は死ぬ気で尽くして埋め合わせするつもりでいる。実際、僕は彼女を幸せにするためならなんだってできる気がしているのだ。
…まずい。
このままだと、また先輩に注意されてしまうかもしれない。いつもは鈍いくせにこういう時だけ何故かよく気がつく彼女には、先日も寝不足続きなことを指摘されたばかりなのだ。ただ、そうは言っても彼女の"お説教"は全然怖くない。僕には「怒っている先輩も可愛いなあ」くらいにしか思えないものだが、向こうはあれでけっこう怒っているつもりらしいので、僕も一応反省するフリはしている。僕としては正直、彼女に怒られるのも悪くない、というか、むしろ気にかけてもらえるだけでかなり嬉しいのだ。なんなら、わざと怒られにいきたいとすら思う。が、あまり頻繁に同じことを繰り返して自己管理のできない男だと思われてしまっては困るし、呆れられて最終的に見捨てられる、なんてことがあったら僕はもう生きていける気がしない。だから今更あまり意味は無いと分かってはいながら、いちおう先程よりもさらに念入りに顔を洗ってみた。もちろんそんなことですぐに効果が現れるわけもない。少しくらいマシになっていないかと期待したが、鏡の中に映るのは相変わらず不健康そうな顔色で、さすがにもう少し早く寝た方がいいのかもしれない、とわずかながら危機感を覚えた。今夜だけでもゆっくり眠ろうと心に決めると、今日はもう諦めて洗面所を後にした。
普段ならまだ寝ている時間だということもあり大して空腹も感じないが、いつもの流れで朝食の準備に取り掛かる。朝食と言ってもただ食パンをトーストするだけの簡素なもので、準備という準備もほとんど無いが、パンを焼く間に天気予報でも見ておこうかとテレビをつければ、ちょうど目当てのコーナーが始まるところだった。芸能人のどうでもいいようなニュースが適当に切り上げられ、「今日のお天気」のテロップとともに画面が切り替わると、日本地図の上に大量の晴れマークが映し出される。今日は全国的に晴れて暖かく比較的過ごしやすい一日になるでしょう、と言う気象予報士の嬉しそうな声は最後まで聞かずにテレビを消すと、僕はため息をひとつ吐いてトーストを齧った。晴れて過ごしやすいということは、今日も先輩用の上着も傘も使えないということだ。先輩が寒い時に着てもらえるようにと買ったカーディガンも、先輩が傘を忘れたら一緒に入れるようにと買った大きめの傘も、いつか機会があればと用意だけはしてあるのだが、その"いつか"はなかなか来ないようで、残念ながら使ったことは今まで一度もない。最近春らしくなってきたし、このままいくと上着は使わずじまいになりそうだ。今日もまたダメだろうな、と少しがっかりしながら、あっという間に小さくなったパンの最後の一口を口に放り込む。食事なんて腹にたまればなんだっていいし、できるだけ短く済ませたい。これが先輩と一緒なら話は違うんだけどなあ、などとありもしないことを考えながら食器を片付け、さっさと歯も磨いてしまおうと改めて洗面所へ向かう。そういえば歯ブラシの交換を買っておいたんだった、と洗面台の棚を開けると、隣に置いてあるピンクの歯ブラシが目に入った。
ああそうだ、一度だけ。
そう、僕は一度だけ、先輩と、この家で食事を共にしたことがあった。突然の雨に降られて先輩を家に上げることに成功したあの日、半ば強引にではあったが彼女と二人きりで一晩を過ごすという夢のような状況に持ち込めたのだ。ただあの時は、とにかく先輩を帰らせないようにということしか考えられず、なんとか先輩を引き止めたはいいものの、いざ夕食を用意する時になって自分が普段全く自炊しないことを思い出し、料理も出来なければもちろん食材もほとんど何も無いという最悪の状態で内心相当焦っていたのだ。あの時ほど自分の食への無頓着さを恨んだことは無い。結局、いちばん食事らしいものをと用意出来たのは冷蔵庫に僅かに残っていた食材を米と炒めただけのチャーハンだった。チャーハン、とは言っても、当時は料理のド素人だった僕が作ったのだからもちろん食感もベチャベチャしていて、どう考えても成功とは言いがたい出来だった。料理と呼べるのかすら危ういそれを先輩に出すくらいならいっそ出前でも取ろうかと思ったのだが、先輩は何も気にしない様子で美味しいと言ってくれたのだ。料理できるのすごいね、と言われたのは例えそれがお世辞でも嬉しくて、普段も自炊してるの?という質問にはつい見栄を張った返事をしてしまった。ほとんどフライパンを握ったことすらないのによく言えたものだと自分でも思うけれど。
でも、僕はあの日から本当に料理の勉強を始めたのだ。今までは料理なんてただ面倒なだけだと思っていたが、先輩のためと思えば何の苦もない。それに、作れるものがどんどん増えていくのはそれなりに楽しくもあった。今では彼女の好物はだいたい作れるくらいには上達したが、やはり自分のためだけに凝ったものを作る気にはなれず、普段は相変わらずインスタント食品に頼る生活を続けている。早く先輩に僕の手料理を食べてもらいたいものだ。先輩は洋食の方が好きだから朝はやっぱりパンが食べたいのだろうか。マフィンなんかを焼いてもいいな、と彼女との朝食を思い描く。レシピを調べて今度の休日にでも作ってみようかと思いついたところで、でもなあ、と思考が止まってしまう。どうせ作っても先輩には食べてもらえない。当然といえば当然のことだが、その当然のことを考えてしまえばなんだか一気に現実に引き戻されたような気がして、せっかくの思いつきも実行に移そうとは思えなくなってしまった。どんなに僕が思いを巡らせたところで、実際に先輩と朝食を食べる日なんて当分来ないのだ。僕がこんなにも愛してやまない彼女は、今のところ僕をただの後輩としか思っていないのだから。そう思った途端、なんだか急に虚しく思えて、あの夜先輩が使っていたピンクの歯ブラシを棚の見えないところに隠すようにそっと移動させると、自分も急いで洗面所を後にした。
なんとなく沈んだ気分のままベッドに腰掛け、大きなため息をつく。さっきからため息ばかりついている気がする。やはり一人で過ごしてもろくなことがない。いっそ最初から意識しすぎないようにすればこんなに苦しむこともないのだと分かってはいても、気がつけば彼女のことばかり考えてしまっているのだからどうしようもなくて、改めて片想いのつらさを痛感する。早く先輩の声が聴きたい。いつものようにモーニングコールをしようとスマホを手に取るも、発信ボタンを押す直前で指が止まった。今朝は早く起きたせいで、まだ電話をかけるには早すぎる時間だったのだ。いっそ時間を間違えたフリをして電話してしまおうかとも思ったが、朝が弱い先輩のことだ、あまり無理に起こすと嫌がられてしまうかもしれないという考えが頭をよぎり踏みとどまった。モーニングコールなんてもちろん僕が勝手にやっていることだから、今はなんとなく習慣のようになってはいるものの、もし先輩に拒否されたらそこでおしまいなのだ。一時の焦りから、ただでさえ少ない先輩との繋がりを失ってしまっては元も子もない。残念だが電話をかけるのはもう少し我慢して、写真整理でもしながら時間を潰すことにした。
握りしめていたままだったスマホで画像フォルダを開けば、端末の小さな画面は最近撮ったばかりの先輩の写真で埋め尽くされていく。大半がこっそり撮影したものなのでカメラ目線のものはほとんど無いばかりか、後ろ姿など顔が写っていないような写真も多いが、僕にとってはどんな先輩も愛しいことに変わりはない。試しにずらりと並ぶ写真のひとつに触れると、画面に表示されたのは俯いた先輩の横顔だった。彼女の目線の先、画面の下の方にはノートの端のようなものが写りこんでいるのを見て、これはたぶん日誌を書いている時の写真だ、と撮影した時のことを思い出す。
ついこの間の放課後、一緒に部室へ行こうと先輩を教室まで迎えに行くと、先輩は教室に残って一人机に向かっていたのだ。作業の邪魔をしないよう気をつけつつそっと声をかけると、手元に集中していたのか、僕に全く気づいていなかったらしい先輩は少しだけ驚いた様子をしてから、「日直だったからこれ書かなきゃいけなくて」と書きかけの日誌を示した。めんどくさいんだよねこれ、などと愚痴を言ってはいるが、根は真面目な彼女らしく、日誌には丁寧に書かれた文字が綺麗に並んでいた。
書き終わったら行くから先に行ってて、という先輩の言葉に拒絶の意図は感じられなかったのでそのまま傍で見ていようとすると、彼女はそんな僕の行動をある程度予測していたのだろう。もうちょっとかかるからね、と念押ししつつ、僕に隣の椅子に座るよう促してくれたのだった。
僕は先輩のああいうところが堪らなく好きだ。普段は軽くあしらわれているように感じることも多々あるのに、かと思えばこうやって気まぐれに優しくしてくれるから、彼女は本当に僕の喜ばせ方をわかっている、というか。実際、今の僕がある程度健康で理性的な生活を送ることができているのは、全て彼女のそういう行動のおかげだと言ってもいい。きっと彼女に冷たくされたら僕はおかしくなっているはずだから。でも、彼女がこんな風だから、僕が余計に彼女から離れられなくなってしまうのもまた事実だ。もう既に戻れないところまで来ていることは自分でもなんとなくわかっている。僕が彼女に抱いている感情は、もはや恋なんて生易しいものじゃない。いつからだろう、彼女のことを考えると、なぜか自分から何かが欠けていくような思いがするのは。初めはこんな風じゃなかった。あの頃は彼女の姿を見るだけで、声を聞くだけで、心が満たされて幸せな気持ちになれたのに。今ではもう、何をしたって足りないと感じてしまう。こんなに近くに、息遣いまで聞こえるほど近くにいるのに、それでも全然満たされない。もっと彼女が欲しくて、そしてたぶん彼女にも自分を求めて欲しくて、でもそんなことを彼女に言えるわけもなくて…。僕がこんな気持ちを抱いているなんて彼女が知ったら、絶対に今の関係ではいられなくなる。だけど思えば、今のところ彼女から完全に拒絶されたことはない。それだけは救いだと思う、本当に。もし彼女に嫌われたりしたら…、なんて考えたくもない。想像するだけで吐き気がするし、胸の奥でなにか薄暗い感情が膨らんでいくような気がする。こんなこと考えるべきじゃない。だけど僕を圧迫する彼女への想いは日に日に増していくばかりで、最近はもう胸の中に留めておくのさえ苦しいのだ。この気持ちを全部吐き出せたらどんなに楽だろう。それを彼女に受け止めてもらえたらどんなに幸せなんだろう…、そんなことを考えないわけではないけれど、それと同時に、彼女にだけはこの感情を見せてはいけない、とも思う。何も知らない綺麗な彼女にこんな汚れた感情をぶつけたら、彼女が壊れてしまいそうで怖いのだ。
写真の中の彼女の綺麗な横顔を見ていると、改めて自分には手が届かない存在なのだと思い知らされているみたいで少し寂しい。夕日に照らされながら日誌を書く横顔があまりにも綺麗で、スマホをいじるフリをして思わず撮影してしまったんだっけ。もちろん実物の美しさには到底及ばないけど、写真でもまつ毛の一本一本まで輝いているように見える。こんな綺麗な人、きっと僕の醜い感情なんかには触れさせちゃいけない存在だ。彼女は一生、綺麗なものだけ見て、触れて、そうやって過ごしていくべきだと思う。でも、それでも僕は欲しくなってしまったのだ。夕日に煌めく髪も透明感のある滑らかな肌も、全部僕だけのために存在していてほしい。その長いまつ毛に縁取られた大きな瞳に映るのは僕だけであってほしい。その代わり、なんて傲慢なことは言えないけど、僕の全部は余すところなく彼女に捧げたい。足りない分は死ぬ気で尽くして埋め合わせするつもりでいる。実際、僕は彼女を幸せにするためならなんだってできる気がしているのだ。
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