エルフを殺せない世界 【第一章完結】

春風春音

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第一章

第013話 異形の少女

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「……なんだったんだ、あれは……」
 思わず、声が漏れる。
 
「わからない……あれは、魔物なのか?」
 
「龍みたいな姿だった……」
 
「そうだな……だが、龍は絶滅したはずだ」
 兄は、低く息を吐いた。
 
「アレン、今日見たことは……絶対に誰にも言うな」
 
「……わかった」
 
 その後、王宮へ戻り、兄は俺を部屋まで送ってくれた。

 道中、あの場所は何だったのか、奥の部屋には何があったのかと語り合ったが、答えは出ないままだった。
 
 塔の鍵は、兄が元の場所へ返しに行くことで決まった。
 
 ――それから。なぜ俺は、この出来事を忘れていたのか。思い出せなかった。
 
「……なんで、俺は今までこのことを忘れていたんだ?」
 
「アレン、とにかく思い出してくれてありがとう。本当は続きを話したいところだが……母上が到着する。また話そう」

 その瞬間、扉が勢いよく開かれた。
 
「アレン、傷の具合はどう?  体調悪化していない?」
 母は荒々しい形相で部屋に入ってきた。
 
「大丈夫だよ」
 
「やっぱり私のせいよね。私が城下町に行けなんて言ったから……きっと環境に慣れていなくて、大きな負担になってしまったんだわ」
 
「本当に大丈夫だよ」
 母と目を合ってしまうことが怖くて、視線を落としたまま答えた。
 
「アレン、こんなこともう二度としないで。約束できる?」
 そこでアイザックとの会話が脳裏をよぎる。
 
 ――俺と母の正体は何なんだ……。

 確かめずにはいられないが、今ではない。
 
 ――そう、またいつか。
 
「約束するよ、母上」
 
 気づけば、兄の姿はなかった。
 いつの間に部屋を出たのだろう。
 
「王宮の外で何があったの?
 聖騎士長から少し話は聞いているけれど、あまり責任を感じる必要はないのよ。国民のことは国王に任せなさい」
 
 ――本当にそれが原因なのか? だが、今は確かめる手段がない。
 
 これ以上母を不安にさせても意味がないし、下手をすれば部屋から一歩も出られなくなるかもしれない。

 ここは流れに身を任せよう。

「ああ、そうだね」
 
 ずっと横で、妹がすすり泣く声が聞こえていた。
 
 心配をかけてしまったらしい。
 
「アイラったら、昨日からずっとこの調子なの。神様や妖精に祈ってばかりいるのよ」
 
 母は優しく妹の頭を撫でながら言った。
 
「ごめんな、アイラ。すぐ良くなるから」
 
「……いつ治るの?」
 
「あんまりアレンを困らせちゃだめよ。
 この傷が治るには、たっぷり休むしかないの。時間が必要よ」
 
「他に方法はないの?」
 その問いに、母は一瞬言葉を詰まらせた。
 
 ――本当は"ある"と言いたいのだろう。

 だが、それを勧められないのは――リスクがあるからだ。“死の制約”を使えば回復できる。
 
 だが、並の人間ではその衝撃に耐えられず、精神が壊れてしまう。
 そんなことになれば、生きているのと同じとは言えない。
 
「二つ方法があるわ。でも、どちらも非常に難しいの。
 一つは、“死の制約”を使うこと。でもアレン、これは絶対に使ってはいけない」
 
 母の声と瞳には、強い意志が込められていた。
 
「もう一つは、治癒魔法を使うこと。
 でもこれは難しいわね。治癒魔法の使い手は世界に数人しかいない。少なくともこの"アルテミア"にはいないのよ」
 
 治癒魔法――それは、俺にとって本の中の存在でしかなかった。
 しかも、この大国にすらいないのなら、その希少さは計り知れない。

 この国には様々な魔法の資質を持った者がいると聞く。

 聖騎士には、その中でも特に優秀な者が選ばれる仕組みだ。
 
 王宮には芸者として魔法を披露する者が訪れることもある。中でも、花を咲かせる魔法や、人を酔わせる魔法は大盛況だった。
 
「もちろん、ゆっくり治すよ」
 
 それでも、妹の涙は止まらなかった。

 本当に家族思いの、優しい妹だ。
 
「私が治癒魔法を使えたら、兄上はもっと楽になれるのに……」
 
「アイラの熱魔法で温めてくれるだけで十分だよ」
 寒い日は、アイラの手を握っているだけで暖がとれた。
 
「このままアレンはしばらく安静ね。
 何かあったらすぐに言うのよ。さあ、アイラ、戻りましょう」
 母は妹の手を引いた。
 
 だが、アイラはうつむいたまま、動かなかった。
 
「アイラ? 行きましょう?」
 
 突然、高い声で叫び始めた。
 
「しっかりするんだ!」
 咄嗟に妹の腕を掴んだ。
 
 すると、叫びは止まり、掴んでいた腕が次第に冷たくなっていくのを感じた。
 
「アイラ……?」
 腕を揺らすと、ゆっくりと妹の顔が上がっていく。
 
 ――そして、目が開いた。妹の顔には、青黒い血管が浮かび、肌は不気味なほど青ざめていた。
 
 そして――目。
 それは、あの化け物と同じ、赤黒い眼だった。
 
 侍女たちは悲鳴を上げ、母は腰を抜かして倒れた。
 
 その時、妹の腕に少しずつ熱が戻り始めると同時に、髪が黒く染まっていった。
 
「兄上、その傷を元に戻します」
 アイラの体が宙に浮き、背後に黒い円が現れる。
 
 そして、右手をこちらに向けた。
 
 放たれた黒い波動が体に触れた瞬間、熱が全身を駆け巡るのを感じた。
 
「……体が熱い……なんだ、これは……」
 
 アイラの背に浮かんでいた黒い円がふっと掻き消える。
 
 途端に、彼女は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
 
「これは大問題よ。誰かアイラを白の塔へ運んで! 私は国王の元へ行く!」
 
 ――白の塔……どこだ……?
 
 胸の奥にざらつく違和感が広がる。
 聞き慣れた地名ならすぐに思い出せるはずだ。
 
 だが、その名にはまるで馴染みがなかった。
 この城に、いや、この国にそんな場所があっただろうか?
 
「母上、俺も父上のところへ……!」
 
「それはダメよ。ここで安静にしていなさい」
 
「なんで? アイラに一体何が起きたの?」
 
「わからない。でも、それを確かめに行くのよ」
 母は厳しい表情のまま、扉の前に控えていた兵へと視線を向ける。
 
「この部屋には誰も入れてはなりません。
 たとえ王であろうと、私が戻るまで扉を開けさせないで」
 
 そう言いながら、母は兵士の耳元にそっと囁いた。
 
 声は聞き取れなかったが、その言葉を受けた兵士の目が一瞬揺らぐのを俺は見逃さなかった。
 
「……心得ました」
 兵士が静かに頷くと、母は俺を一瞥し、足早に去っていった。
 
 ――白の塔。
 
 その言葉が頭の中をぐるぐると渦巻く。

 ――なぜ母上は当たり前のようにその名を口にした? 俺が知らないだけなのか……? 
 
 そんな考えを巡らせるうちに、別の疑念が胸をよぎる。
 
 ――あの眼。記憶の塔にいた化け物と、酷く似ていた。
 まさか、妹は魔物なのか……? 
 
 ――いや、そんなはずは……。
 
 だが、否定しようとすればするほど、黒い影のように疑念がまとわりつく。
 
 考えまいとしても、頭の奥にこびりついて離れない。
 
 こういう時は、何も考えずに目を閉じるべきだ。
 
 ――いや、だめだ。考えるなと言われるほど、気になって仕方がない。
 
 それに、もうひとつ気がかりなことがあった。
 ――俺は、何を忘れたんだ?
 
 ふと、鼻をくすぐる微かな違和感を覚えた。
 
 甘いような、かすかに薬草の香りを含んだ匂い。……いや、違う。これは――。
 
「……っ、何だ、これ……?」
 意識がふわりと揺らぐ。

 肺の奥に入り込んだ何かが、じわじわと体の力を奪っていく。

 視界がぼやけ、手を伸ばそうとするが、指先から感覚が抜け落ちていった。
 
 煙――。部屋の隅で燻る、小さな香炉。

 そこから淡く立ち上る白い煙が、静かに空気を満たしていた。
 
 ――母上、まさか……。
 
 声を絞り出そうとした瞬間、瞼が耐えきれないほど重くなる。

 抗おうとしても、意識は深い闇へと沈んでいった。
 
 ――最後に聞こえたのは、扉の向こうで微かに響く兵士の足音だった。
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