エルフを殺せない世界 【第一章完結】

春風春音

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第一章

第014話 地下の白塔

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 喉元に鈍い痛みを感じ、目を覚ました。

 咳払いをして、喉の違和感を消そうとするが、大して良くならない。
 
 諦めて水を一口飲んだ。

 喉の渇きが少し和らいだところで、背中に手をやる。
 
 痛みも、傷跡さえも、すっかり消えている。
 
 ――まさか母上が睡眠薬を使うなんて……。
 それほどまでに、俺に追跡されたくなかったということか。
 
 今はとにかく、ここから出なければならない。

 動かなければ、真相に近づくことすらできない。
 
「さて、どうするか」
 扉の前には兵士が立っている。
 
 窓の外を覗けば、地面までの距離はあまりにも高すぎる。とはいえ、迂闊に騒いでも無駄だ。
 
 まずは何事もなかったかのように外へ出るふりをしてみよう。
 
「やあ、兵士たち、おは……」
 ――ガチャン。
 扉が無言で閉じられた。
 
「せめて最後まで言わせてくれよ……」
 小さくため息をつく。

 やはり、正攻法では出られそうにない。
 
 残る手段は……窓しかないか。
 
「でも、この高さは……」
 
 窓枠に手をかけ、そっと顔を出す。
 
 冷たい風が頬を撫で、地上の煉瓦道が遥か下に広がっていた。こんな高さから飛び降りたら、ただでは済まない。
 
 ――もし兄だったら……?
 
 思わず考える。兄なら、こんな状況でどう切り抜けるだろう。
 
 ――迷わず飛び降りているな。
 
 それが、確信だった。
 ならば俺もやるしかない。
 
 地面に着地する瞬間、静電気を反発させて衝撃を和らげる。そうすれば――。
 
 窓枠に足をかける。あとは、覚悟を決めるだけ。

 もう一度、下を見た。
 
 ――10階。……いや、やっぱりやめよう。
 
 そう思った瞬間だった。――足を滑らせた。

 視界が一気に傾き、灰色の煉瓦道が猛スピードで迫ってくる。
 
 ――このままでは、死んでしまう……!

 右腕を地面に向かって伸ばし、掌に全力で魔力を込める。しかし――
 
 ――止まらない。

 身体が落ちていく中、なぜか懐かしい気持ちが込み上げてきた。
 
 ――待て、何かがおかしい。落下の勢いが、消えている?

 ゆっくりと瞼を開く。

 掌を伸ばした先、地面まではあとわずか。

 腕の関節がもう一つあれば届くほどの距離で、俺は――宙に浮いていた。
 
 ――よし、成功だ。
 
 安堵の中、頭の奥で何かが弾けるような感覚がした。
 
 ――ドンッ。
 地面に叩きつけられた、鈍い音が響く。
 
 ――やはり、連続して魔法を使うと持続力が低下するな。
 兄は俺と同じ歳で龍を操っていたのに……。
 
「今アルはどうでもいい」
 
 無意識に呟き、考えを振り払う。

 今は先に進まなければ。
 
 ――母上の元へ行くか? それとも、兄上に助けを求めるべきか?
 
 そう思いながらも、俺の足は自然と、ある場所へ向かっていた。
 
 勢いよく扉を開ける。
 
 視界が広がると同時に、探していた人物の姿が目に飛び込んだ。
「アイザック!」
 
「アレン? どうしてここに?」
 
「大変なことが起きた。助けてくれ」
 
 アイザックは一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに俺の体をじっと見つめた。
 
「……体は平気なのですか?」
 その声には、どこか責任を感じているような響きがあった。
 
「ああ、それについてなんだが……」
 俺は昨日起きた出来事を、できるだけ詳しく説明した。
 
「……アイラ姫に、そんな力が……。それにまた、治癒魔法とは……」
 
「そんなに治癒魔法ってすごいのか?」
 
 アイザックは静かに首を振る。
 
「すごいどころの話じゃありませんよ。
 もしこの力を制御できれば――この国は世界を征服できるかもしれない」
 
「世界を征服……?」
 思わず言葉を繰り返す。
 
「それで、アイラ姫はどこに運ばれたのですか?」
 
「“白の塔”という場所だ」
 俺がそう答えた瞬間、アイザックの表情が僅かに曇った。
 
「……なぜ”緑の塔”ではなく、“白の塔”に?」
 
「白の塔って一体どんな場所なんだ?」
 アイザックは一瞬、躊躇うような素振りを見せた後、低く答えた。
 
「実験のための塔です」

 その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍りつく。
 
 “実験”という言葉が、全身を逆撫でするように嫌な感覚をもたらした。
 
「……案内してくれ」
 
 アイザックは顎に手を添え、しばらく考え込んだ。

 そして、真剣な眼差しでこちらを見つめる。
 
「……何もしないと、約束できますか?」
 
 俺は、無言で頷いた。
 
「では案内します」
 王宮には3つの塔がそびえ立ち、それぞれが異なる分野を司っている。
 
 その管理を担うのは、栄誉貴族――王国の中枢を成す者たちだ。
 
「どの塔なんだ?」
 
「上ではなく、地下にあります」
 ――地下。
 
 記憶の塔も、地下にあった。
 
 ――ということは、合計で少なくとも5つの塔があるということか……?
 
 胸の奥でざわめく、嫌な感覚。
 
 ――……共通点はなんだ?
 
「なんで、わざわざ地下なんだ?」
 
「隠したいから……あるいは、必要な時に消すためか」
 アイザックの言葉に、脳裏をかすめるのは2年前の記憶。
 記憶の塔で見た、あの龍。
 
 ――関係があるのか?
 
 足が重くなる。それでも、アイザックの背中を見失わないようについていく。

 2年前と同じだ。迷路のような道を、ひたすら進む。
 
「驚かないのですか?」
 不意にアイザックが問いかけてきた。
 
「何のことだ?」
 
「普通、この迷路のような通路を初めて通れば、もっと戸惑うものだと思うのですが」
 
「……驚いているさ。でも、今はそれどころじゃないんだ」
 
 本当は”初めて”ではない。

 だが、それを口にすることはできなかった。
 
 アイザックはじっと俺を見つめる。

 その視線はまるで、何かを見透かそうとしているかのようだった。
「なるほど」

 納得したのか、あるいは深く追及するのをやめたのか。

 アイザックはそれ以上何も言わず、足を進めた。
 
「白の塔では、どんな実験をしているんだ?」
 
「薬品の投与、あるいは人体実験……。ただ、正直に言えば、私も詳しくは知らないのです」
 
「人体実験……」
 その言葉が、冷たい刃のように突き刺さる。
 
 ――アイラが、実験に?
 
「今、どんな想像をしても、良いものにはならないでしょう。実際に目で確かめるまでは」
 
「ああ……先を急ごう」
 重苦しい沈黙の中、何度も左右に曲がるのを繰り返しながら進む。

 やがて、目の前に現れたのは、あの門だった。
 
「……ここが、入口なのか?」
 見上げると、あの時と同じ、無機質な門。
 
「この門は、鍵によって転移先が変わるんです」
 
「転移先は、いくつあるんだ?」
 
「さあ……それを知るのは、一部の人間だけでしょうね」
 アイザックは鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
 
 次の瞬間、まばゆい光があふれ出し、門に刻まれた模様をなぞるように広がっていく。
 
 ――また、あの教会に転移するのではないか?
 
 悪夢のような記憶が蘇り、背筋に冷たいものが走る。
 それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
 
 ゆっくりと門が開く。
「……なんだ、この空間は……」
 
 そこは”塔”と呼ぶには、あまりにも異質だった。
 
 監獄――。
 
 白の塔。
 その名とは裏腹に、そこに広がっていたのは、白とは正反対の、沈んだ闇の気配。
 
 壁は苔むし、天井から垂れ下がる鎖が空中で揺れている。
 
 ――本当に、アイラはここにいるのか?
 
 ――風の音。
 ひゅう、と長い尾を引くように、どこからか吹き抜ける。
 
「……風が強いな」
 
「恐らくここは――空でしょうね」
 
 ――そうか、空中なら、容易に見つけられることはない。
 
「ここが空か……」
 
「上の階へ向かいましょう」
 
「来たことがあるのか?」
 
「ええ、何度か」
 アイザックの言葉には、どこか後ろめたさが滲んでいた。
 
「何の用で?」
 
「大人にはいろいろと秘密があるものですよ」
 そう言ってアイザックは笑ったが、その笑みの奥に何かを隠しているように思えた。
 
 ――さっきから檻のような部屋が並んでいるが、中には誰もいない。

 あるのは、鎖で固定するための器具と、濁った水が入ったバケツだけ。
 
「なぜ、どの檻も空なんだ?」
 
「今は投獄する者がいないのですよ」
 
 この空間には管理者の気配もまるでない。檻の中に誰もいないのなら、管理する者も不要ということか。
 
 ――突如、横の檻からうめき声が聞こえた。
「……なんだ、今のは?」
 思わず一歩後ずさる。
 
「どうしました?」
 
「今、あの檻の中から声が聞こえた」
 
「私は聞こえませんでしたが……」
 
 アイザックは檻に近づき、中を覗き込む。
「やはり、誰もいませんね」
 
「……そうか」
 
 ――気のせいなのか? だが、確かに聞こえたはずだ。
 
「先を急ぎましょう」
 
 少し進むと、目の前に螺旋階段が現れた。

 見上げると、果てしなく続く高い天井が視界に入る。
 
「さあ、行きましょう」
 
「どこへ?」
 
「最上階の一歩手前です」
 
 ――まさか、これを登るのか?
 
「そんな顔をしないでください。さあ、捕まって」
 アイザックは右腕を差し出す。
 
「こうか?」
 俺は左手を彼の腕の上にそっと乗せた。
 
 ――次の瞬間、体が勢いよく浮かび上がる。 
 
「……空を飛んだのか?」
 
「ただの脚力ですよ」
 
 ――やっぱりこいつは化け物だ。
 
「……さあ、着きました」
 
 ――たった5歩で、ここまで到達するとは。
 
「ここが……最上階?」
 
「いいえ。最上階のひとつ下です」
 アイザックが扉の前に立つ。
 
「この先に、アイラ姫がいるはずです」
 俺は息を呑み、ゆっくりと扉に手をかけた。
 ――視界が開ける。
 
 そこには、まるで王族の居室のような、華美な装飾の空間が広がっていた。
 
 天井まで届くカーテン、繊細な刺繍が施された絨毯、黄金の装飾が施された調度品。
 
 ――なぜ、こんな場所がこの塔の中に?
 
 部屋の中央には、大きなベッド。その上には、誰かが静かに横たわっている。
 
「アイラ!」
 駆け寄る。――やはり、髪が黒くなっている。
 
「……お兄様?」
 その瞬間、全身に悪寒が走る。
 
「アイラ、その眼――」
 
 言いかけた瞬間、肩を強く掴まれた。
 ――アイザックだ。
 
 横目で見ると、彼は僅かに首を振り、鋭い視線を向けていた。
 ……それ以上、言うな。そう言われた気がした。
 
「大丈夫ですか? アイラ姫」
 
「アイザックさんもいたの?」
 
「ええ、お見舞いに来ました」
 
「……何かあったの?」
 アイラが小首をかしげる。その仕草に、奇妙な違和感を覚える。
 
「覚えていないのか?」
 思わず強く肩を掴む。
 
「痛い!」
 ――何だ、この違和感は。
 
「アイラ、肩を見せてくれ」
 躊躇わず、袖を捲る。
 
 ――そして、息を呑んだ。
 
「……これは」
 そこには、まるで鱗のようなものが浮かび上がっていた。
 肌に張り付くように、異様な光を帯びた紋様。
 
「アイラ、一体何をされたんだ!?
 昨日起こったことを、何でもいい、思い出してくれ!」
 
「思い出せない……頭が痛い……」
 
「じゃあ、最後に覚えていることは?」

「……お兄様と、母上の部屋で話したこと」
 
「俺が倒れたことも覚えてないのか?」
 
「お兄様が……倒れた?」
 アイラは驚いた様子で目を見開いた。
 
 どうやら、アイラの記憶は2日分抜け落ちているらしい。
 
 ――なぜ妹がこんな目に遭わなければならないんだ。
 
「……いや、なんでもない。忘れてくれ」
 
「私、何か悪いことしちゃったの……?」
 アイラは不安げに瞳を揺らし、涙を滲ませた。
 
「そんなことはない。アイラは何も悪くないよ」
 そう言って、そっと頭を撫でる。
 
「じゃあ、どうして……どうして私、呪われちゃったの?」
 
 ――これは呪いなのか?
 
「心配いりませんよ、姫は呪われてなどいません。そのうち、きっと元に戻ります」
 アイザックが穏やかに微笑みながら、優しく言った。
 
 外から複数の足音が聞こえた。
 
「今から、あなたの姿を他の人に視認されないようにします」
 
「どうやって?」
 
「私の魔法で。アイラ姫も、アレンはいなかったことにしてください」
 
 アイラは小さく頷くと、静かに目を閉じた。
 
 ――扉が開く音。
 続いて、凛とした声が響く。
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