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3.肩から膝からずり落ちそうなスーツ
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「え~ 遠野さん」
学校最古参の平教師、五十を幾つか過ぎたらしい六年の化学担当の声は、教室の中にのんびりと響きわたった。
「あの、森岡先生」
「何ですか」
「遠野さんは、欠席です」
「ほぉ、欠席。だが今朝、私は彼女を文化部棟の方で見かけましたが?」
「あの、授業は欠席する、と伝えてくれ、と」
穏やかに、しかし鋭く追求する森岡の声に、伝言役の女生徒も、やや恐縮している様だった。
後ろで聞いている高村にも、それは良く判った。
教室の定員は三十名である。
この校舎は、かつて一クラスに五十人の生徒がひしめいていた時代に作られたものなので、現在では座席の背後は広く空いている。
高村はその空いた場所にパイプ椅子を持ち込み、授業を見学していた。
さすがに後ろに実習生が居る、ということで、内職や早弁をしている者は居ない。しかし、手元で携帯にメールを打ったり、古典的に手紙を書く者は、当たり前の様に多数存在した。
要は、授業そのものを壊さなければいいのだ、と彼は言われていた。直接的に授業妨害をする様なことが無ければ、後は自由。個々の成績が上がるも落ちるも、後期生に関しては自主性に任せられるのである。
変わってないなあ、と彼は彼らの様子を見ながら、ふと自分の頃を思いだし、ため息をつく。
一方、生徒達が聞いているのか否かにも関わらず、森岡も授業を淡々と進めて行く。
彼もまた、この生徒達の様子を知っているだろうに、冷静極まりない。表情一つ変えずに、講義内容を次々とホワイトボードに書き付けて行く。
高村はそんな生徒達の様子も含めて、見学をしているのだが、組んだ足の上のメモボードが、さっきからずり落ちそうで困っていた。
と言うよりも、彼が現在着ている紺色のスーツが、肩から膝からずり落ちそうだったのだ。
「ちょっと待て、お前スーツの一着も持ってねえのかよ!」
とクラスメートからそのことを指摘されたのは、既にゴールデンウイーク最終日だった。
「仕方ねーだろ、仕送りはだいたい生活費に回るしさあ」
「へいへい、バイト代はだいたいそこいらのものに変わってしまうからな」
友人は彼の部屋の中にあるCDや、ずらりと並べられている、柄シャツ・Tシャツといったものを指さした。
「だってこの間、『ベイシックDD』で、セールやっててさあ」
馴染みの古着屋の名前を彼は口にしていた。
「何かちょうど、オレはまりのモノばっかでさ~」
「使い果たした訳ね」
クラスメートは額を押さえ、ため息をついた。
結果、まともなスーツを買う程の現金は、その時の彼の手元には存在しなかったのだ。
「おい、どうしよう~オレ~」
泣きついたら、そこは友達だった。仕方ねえなあ、と呆れつつも、そのクラスメートは「就職用に」と持っていた中の一着を貸してくれたのだ。
大感謝、という所だが、着てみたら、肩幅もウエストも違いすぎていた。
柄や色合いが良ければ、レディースのシャツも着られてしまうスレンダーなサイズの彼にとって、運動部在籍のクラスメートのスーツは大きすぎたのだ。
朝起きて、焦って飛び出した時はまだ良かった。しかし、一度落ち着いた場所に居着いてしまうと、こういうものはどんどん気になってしまうものである。
南雲はいきなり吹き出した。
「それであなた、そんなぶかぶかのスーツだったのね!」
四時限目の後のことだった。歩くたびにスーツのあちこちを摘んだり上げたりしている高村に、業を煮やした南雲が理由を問いただしたのだ。
「そんなに笑うなんて、失礼ですよ……」
「ああごめんなさい、いや確かに、変だ変だと思ってはいたんだけど」
勝手にして下さい、と高村は眉を寄せつつ、くいっ、と落ちかけた肩をまた持ち上げた。
「昼食はどうするの? 私は化学準備室に行くけど」
「購買があるんですよね、確か」
「ええ。すぐ目の前にも、分室があるわよ」
え、と高村は南雲の指さす方向を向いた。五年七組と八組の間の小部屋に、生徒が群がっていた。
「まあ今からだと、パンも果たして買えるか……」
そう彼女がつぶやいた時、既に高村は生徒の中に突進していた。
「おや、遅かったですね、南雲さん」
「森岡先生」
先客は、既に手弁当の半分を食べ尽くしていたところだった。
化学準備室は、理科棟の一階の階段横にあった。
広さは他の教室の半分程度しか無かったが、静かなうえ、日当たりが良く、騒がしい学校の中では、居心地の良い空間だった。
また、書棚やデスクの上の書類や本、無造作に置かれたTVモニターと言ったものが、必要に応じて配置されている。何処かそれは、大学の研究室を思わせるものだった。
その中で、ふと高村の目に、色鮮やかなものが飛び込んできた。紙細工の動物や恐竜だった。
折り紙の様に見えたが、ずいぶんと細かいものだな、と彼は感心した。
「高村くん、何か疲れた顔してますね。六年生はなかなかあなどれないでしょう」
「え」
「あれでも、半分は、聞いていますよ。ご心配なく」
はあ、と高村はうなづいた。
「彼、何か妙なことを?」
南雲は眉をひそめた。いえいえ、と森岡は箸を持ったまま、軽く右手を振った。
「彼はちゃあんと、私の授業を熱心に見学していましたよ。ご心配なく。ただまあ…… 授業というものは、皆すべからくきちんと聞いているとは限らないものでしょう。古今東西」
「全く。どうにかならないでしょうか」
ふう、と南雲はため息をつき、今度は露骨に眉を寄せた。
学校最古参の平教師、五十を幾つか過ぎたらしい六年の化学担当の声は、教室の中にのんびりと響きわたった。
「あの、森岡先生」
「何ですか」
「遠野さんは、欠席です」
「ほぉ、欠席。だが今朝、私は彼女を文化部棟の方で見かけましたが?」
「あの、授業は欠席する、と伝えてくれ、と」
穏やかに、しかし鋭く追求する森岡の声に、伝言役の女生徒も、やや恐縮している様だった。
後ろで聞いている高村にも、それは良く判った。
教室の定員は三十名である。
この校舎は、かつて一クラスに五十人の生徒がひしめいていた時代に作られたものなので、現在では座席の背後は広く空いている。
高村はその空いた場所にパイプ椅子を持ち込み、授業を見学していた。
さすがに後ろに実習生が居る、ということで、内職や早弁をしている者は居ない。しかし、手元で携帯にメールを打ったり、古典的に手紙を書く者は、当たり前の様に多数存在した。
要は、授業そのものを壊さなければいいのだ、と彼は言われていた。直接的に授業妨害をする様なことが無ければ、後は自由。個々の成績が上がるも落ちるも、後期生に関しては自主性に任せられるのである。
変わってないなあ、と彼は彼らの様子を見ながら、ふと自分の頃を思いだし、ため息をつく。
一方、生徒達が聞いているのか否かにも関わらず、森岡も授業を淡々と進めて行く。
彼もまた、この生徒達の様子を知っているだろうに、冷静極まりない。表情一つ変えずに、講義内容を次々とホワイトボードに書き付けて行く。
高村はそんな生徒達の様子も含めて、見学をしているのだが、組んだ足の上のメモボードが、さっきからずり落ちそうで困っていた。
と言うよりも、彼が現在着ている紺色のスーツが、肩から膝からずり落ちそうだったのだ。
「ちょっと待て、お前スーツの一着も持ってねえのかよ!」
とクラスメートからそのことを指摘されたのは、既にゴールデンウイーク最終日だった。
「仕方ねーだろ、仕送りはだいたい生活費に回るしさあ」
「へいへい、バイト代はだいたいそこいらのものに変わってしまうからな」
友人は彼の部屋の中にあるCDや、ずらりと並べられている、柄シャツ・Tシャツといったものを指さした。
「だってこの間、『ベイシックDD』で、セールやっててさあ」
馴染みの古着屋の名前を彼は口にしていた。
「何かちょうど、オレはまりのモノばっかでさ~」
「使い果たした訳ね」
クラスメートは額を押さえ、ため息をついた。
結果、まともなスーツを買う程の現金は、その時の彼の手元には存在しなかったのだ。
「おい、どうしよう~オレ~」
泣きついたら、そこは友達だった。仕方ねえなあ、と呆れつつも、そのクラスメートは「就職用に」と持っていた中の一着を貸してくれたのだ。
大感謝、という所だが、着てみたら、肩幅もウエストも違いすぎていた。
柄や色合いが良ければ、レディースのシャツも着られてしまうスレンダーなサイズの彼にとって、運動部在籍のクラスメートのスーツは大きすぎたのだ。
朝起きて、焦って飛び出した時はまだ良かった。しかし、一度落ち着いた場所に居着いてしまうと、こういうものはどんどん気になってしまうものである。
南雲はいきなり吹き出した。
「それであなた、そんなぶかぶかのスーツだったのね!」
四時限目の後のことだった。歩くたびにスーツのあちこちを摘んだり上げたりしている高村に、業を煮やした南雲が理由を問いただしたのだ。
「そんなに笑うなんて、失礼ですよ……」
「ああごめんなさい、いや確かに、変だ変だと思ってはいたんだけど」
勝手にして下さい、と高村は眉を寄せつつ、くいっ、と落ちかけた肩をまた持ち上げた。
「昼食はどうするの? 私は化学準備室に行くけど」
「購買があるんですよね、確か」
「ええ。すぐ目の前にも、分室があるわよ」
え、と高村は南雲の指さす方向を向いた。五年七組と八組の間の小部屋に、生徒が群がっていた。
「まあ今からだと、パンも果たして買えるか……」
そう彼女がつぶやいた時、既に高村は生徒の中に突進していた。
「おや、遅かったですね、南雲さん」
「森岡先生」
先客は、既に手弁当の半分を食べ尽くしていたところだった。
化学準備室は、理科棟の一階の階段横にあった。
広さは他の教室の半分程度しか無かったが、静かなうえ、日当たりが良く、騒がしい学校の中では、居心地の良い空間だった。
また、書棚やデスクの上の書類や本、無造作に置かれたTVモニターと言ったものが、必要に応じて配置されている。何処かそれは、大学の研究室を思わせるものだった。
その中で、ふと高村の目に、色鮮やかなものが飛び込んできた。紙細工の動物や恐竜だった。
折り紙の様に見えたが、ずいぶんと細かいものだな、と彼は感心した。
「高村くん、何か疲れた顔してますね。六年生はなかなかあなどれないでしょう」
「え」
「あれでも、半分は、聞いていますよ。ご心配なく」
はあ、と高村はうなづいた。
「彼、何か妙なことを?」
南雲は眉をひそめた。いえいえ、と森岡は箸を持ったまま、軽く右手を振った。
「彼はちゃあんと、私の授業を熱心に見学していましたよ。ご心配なく。ただまあ…… 授業というものは、皆すべからくきちんと聞いているとは限らないものでしょう。古今東西」
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