16 / 16
15 無力さを噛みしめる
しおりを挟む
翌朝。
あれは夢だったのではないか、と彼女は思った。
思いたかった。
だが窓には鍵が掛かっていなかったし、カーテンも半開きだった。
それに、パジャマの上にカーディガンを着たままでベッドに入るということはまず無い。
それに何よりも、強い強い腕の感触が、残っている。
あれは現実だった。
しかしあれが現実ならば、現実だと言うのなら。
「変な夢だったんですよ。クニが出てきて」
「あらあ。そうねえ、あの子、真理子先生、あなたのお気に入りだったものね」
先輩格の職員に、洗濯物を畳む作業をしながら、さりげなく話を振ってみた。
「昨日、リョウ達と映画見に行ったせいだと思いますけどね…彼一人居ないし」
「そうねえ。ま、可哀想だけど、仕方ないわね」
「そうですね。あたし詳しくは知らないんですけど、吉野先生はご存じですか? どうやって、あの子達、使われてるんですか?」
できるだけさりげなく。
この言葉を使うのはなかなかに苦しかったが。
だがさすがに先輩格の彼女は、それが当然、という口調でこう言った。
「そうねえ。私も良くは知らないわ。でもうーん、訓練の後、海外に、とか言ってたから、そういうことなんじゃないかしら」
「そういうこと、ですか。はあ確かに」
「ね」
それで吉野は納得した様だった。
大量の洗濯物。取り込んだばかりのそれを、どんどん畳んで行く。
積み上げて行く。
当たり前の光景。
「ほら、ねえ、あの子達って、他に使い道なんて無いでしょうに」
当たり前の様に、吉野は言った。
そして「ね」と同意を求める。
真理子はそれには気付かなかった様に、急に立ち上がった。
「あ、やだ、これ、上手く汚れが取れてない」
「あらそう?」
「あたしちょっと、これだけ洗い直してきますね」
さっ、と彼女はその場から立ち上がった。
どうにもならない感情が、喉元からあふれ出してきそうだった。
皆の話をまとめれば。
それを全部信じていいとするなら。
彼女は洗面所のバケツの中に、汚れたはずのタオルを押し込んだ。
本当は何処も汚れていない。
だが彼女は部分洗い用の棒石鹸をそこになすりつけた。
とにかくうつむいて、手を動かしていたかった。
冗談じゃない。
一体あたしは―――
*
退職願は意外な程あっさりと受理された。
「長距離恋愛をしている恋人と結婚するので、その準備のため」
適当な口実だった。
「残念ですねえ」
眩しい程の頭の園長は、いつもと変わらない穏やかな笑顔でそう言った。
「尾原先生だったら、彼らを強い子供に育ててくれると思ったのですが」
それはここに就職が決まった時にも言われたことだった。
あなたの様な意思の強いひとなら、強い子供を育ててくれそうだ、と。
そうかもしれない。
そうだったかもしれない。
けど。
「ま、ひとにはそれぞれ事情がありますからねえ」
「すみません」
「ああ、そう言えば、あの子、捕まったそうですよ」
園長はさらりと言った。
一瞬、心臓が跳ね上がった。
「は? 何のことですか?」
真理子はできるだけ冷静な声を絞り出した。
「いや、こっちの勘違いですね。お幸せに、尾原先生」
今までありがとうございました、と真理子は頭を下げた。
*
真理子は慌てて荷物をまとめ、目的地のウイークリーマンションに送らせた。
素早い行動だった。
まとめた荷物の中身をいちいち調べてはいない。
いつか調べなくてはならないかもしれない。
でもどちらでもいい。
ほとんど処分するかもしれない。
それに、何処に居ても、本当の意味で逃げることなど、できない様な気がした。
だがそれでも、ここには居たくなかった。
逃げたかった。
どうしても逃げたかった。
それは彼女のそれまでの生き方に完全に反していた。
だがそれでも構わなかった。
とにかく、もうここには、居たくなかったのだ。
荷物を運び出す車に、駅まで送ってもらうと、そのままやってきた列車にすぐさま乗り込んだ。
乗り継ぎの関係も、どうでも良かった。
車内は客がほとんどいなかった。
この時間に各駅停車を使う客などほとんど居ないのだ。
がたんがたん、と揺れるたびに、身をすくめたくなる様な気持ちに襲われる。
ごめん、カナ、ごめん、ユキ。
今度はこの二人が、クニの様にされるのか。
それが判っていても、自分は何もしようとしない。いや、できない。
気が付くと、真理子の中には言い訳ばかりが頭をよぎって行った。
そして思った。
――あたしは、無力だ。
喉の奥から、洗濯していた時以来、必死で止めていた嗚咽がほとばしる様にあふれてきた。
奥歯を思い切り噛みしめる。
拳を握りしめる。
「ううう……」
だがこの先、無力かどうかは、まだ判っていない。
あれは夢だったのではないか、と彼女は思った。
思いたかった。
だが窓には鍵が掛かっていなかったし、カーテンも半開きだった。
それに、パジャマの上にカーディガンを着たままでベッドに入るということはまず無い。
それに何よりも、強い強い腕の感触が、残っている。
あれは現実だった。
しかしあれが現実ならば、現実だと言うのなら。
「変な夢だったんですよ。クニが出てきて」
「あらあ。そうねえ、あの子、真理子先生、あなたのお気に入りだったものね」
先輩格の職員に、洗濯物を畳む作業をしながら、さりげなく話を振ってみた。
「昨日、リョウ達と映画見に行ったせいだと思いますけどね…彼一人居ないし」
「そうねえ。ま、可哀想だけど、仕方ないわね」
「そうですね。あたし詳しくは知らないんですけど、吉野先生はご存じですか? どうやって、あの子達、使われてるんですか?」
できるだけさりげなく。
この言葉を使うのはなかなかに苦しかったが。
だがさすがに先輩格の彼女は、それが当然、という口調でこう言った。
「そうねえ。私も良くは知らないわ。でもうーん、訓練の後、海外に、とか言ってたから、そういうことなんじゃないかしら」
「そういうこと、ですか。はあ確かに」
「ね」
それで吉野は納得した様だった。
大量の洗濯物。取り込んだばかりのそれを、どんどん畳んで行く。
積み上げて行く。
当たり前の光景。
「ほら、ねえ、あの子達って、他に使い道なんて無いでしょうに」
当たり前の様に、吉野は言った。
そして「ね」と同意を求める。
真理子はそれには気付かなかった様に、急に立ち上がった。
「あ、やだ、これ、上手く汚れが取れてない」
「あらそう?」
「あたしちょっと、これだけ洗い直してきますね」
さっ、と彼女はその場から立ち上がった。
どうにもならない感情が、喉元からあふれ出してきそうだった。
皆の話をまとめれば。
それを全部信じていいとするなら。
彼女は洗面所のバケツの中に、汚れたはずのタオルを押し込んだ。
本当は何処も汚れていない。
だが彼女は部分洗い用の棒石鹸をそこになすりつけた。
とにかくうつむいて、手を動かしていたかった。
冗談じゃない。
一体あたしは―――
*
退職願は意外な程あっさりと受理された。
「長距離恋愛をしている恋人と結婚するので、その準備のため」
適当な口実だった。
「残念ですねえ」
眩しい程の頭の園長は、いつもと変わらない穏やかな笑顔でそう言った。
「尾原先生だったら、彼らを強い子供に育ててくれると思ったのですが」
それはここに就職が決まった時にも言われたことだった。
あなたの様な意思の強いひとなら、強い子供を育ててくれそうだ、と。
そうかもしれない。
そうだったかもしれない。
けど。
「ま、ひとにはそれぞれ事情がありますからねえ」
「すみません」
「ああ、そう言えば、あの子、捕まったそうですよ」
園長はさらりと言った。
一瞬、心臓が跳ね上がった。
「は? 何のことですか?」
真理子はできるだけ冷静な声を絞り出した。
「いや、こっちの勘違いですね。お幸せに、尾原先生」
今までありがとうございました、と真理子は頭を下げた。
*
真理子は慌てて荷物をまとめ、目的地のウイークリーマンションに送らせた。
素早い行動だった。
まとめた荷物の中身をいちいち調べてはいない。
いつか調べなくてはならないかもしれない。
でもどちらでもいい。
ほとんど処分するかもしれない。
それに、何処に居ても、本当の意味で逃げることなど、できない様な気がした。
だがそれでも、ここには居たくなかった。
逃げたかった。
どうしても逃げたかった。
それは彼女のそれまでの生き方に完全に反していた。
だがそれでも構わなかった。
とにかく、もうここには、居たくなかったのだ。
荷物を運び出す車に、駅まで送ってもらうと、そのままやってきた列車にすぐさま乗り込んだ。
乗り継ぎの関係も、どうでも良かった。
車内は客がほとんどいなかった。
この時間に各駅停車を使う客などほとんど居ないのだ。
がたんがたん、と揺れるたびに、身をすくめたくなる様な気持ちに襲われる。
ごめん、カナ、ごめん、ユキ。
今度はこの二人が、クニの様にされるのか。
それが判っていても、自分は何もしようとしない。いや、できない。
気が付くと、真理子の中には言い訳ばかりが頭をよぎって行った。
そして思った。
――あたしは、無力だ。
喉の奥から、洗濯していた時以来、必死で止めていた嗚咽がほとばしる様にあふれてきた。
奥歯を思い切り噛みしめる。
拳を握りしめる。
「ううう……」
だがこの先、無力かどうかは、まだ判っていない。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる