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第9話 「あなた軍人だったんでしょ? 助けてよ! 弟を!」
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大きな音を立てて扉が開いた。
雨の音が、その間から飛び込んでくる。濡れた草の匂いが、漂ってくる。彼は磨いていた床から、顔を上げた。手にしていた雑巾が落ちる。彼は一人だった。雨降りだったから、工場からミッシャもお呼びがかかっている。彼は一人残されていた。
適当に雑用をしながら、彼は付けっぱなしだったラジオが時々立てる音に、耳を澄ませていた。
雑音の中にほんの微かに聞こえてくるニュースは、ひどく不安げな口調になっていた。交渉の経過。何っていう大佐だったのか、その名前がなかなか聞き取れない。
そんなことで時間を潰しているはずだったのに。
「サッシャ…… どうしたの、まだ仕事中だろ」
はあはあ、と息づかいが彼の耳に飛び込む。
立ち上がり、目をこらすと、彼女はずぶぬれだった。
昨夜からの雨は、弱くなることもなく、ずっと降り続いていた。金色の巻き毛が、濡れてすっかりまっすぐになつて、彼女の顔のまわりにへばりついている。大きな、堅い布地の作業服が、すっかり水を吸い込んでその重みを倍にでもしていそうだった。
そしてその腕が、水を飛ばしながら動いた。
「ちょっと来て!」
言うが早いが、サッシャは彼の手を引っ張って、飛び込んで来た扉を再び大きく開いた。
だが彼女は、すぐに飛び出すことはできなかった。掴んでいたはずの手が、掴まれている。
何すんのよ、と彼女は大きく腕を振り回そうとする。だがそれはできなかった。男の力は、思った以上に強かった。
「何よあんた、邪魔する気?」
「邪魔するも何も、一体何があったんだよ」
「説明している暇が無いのっ! あなた軍人だったんでしょ? 訓練受けてんでしょ? 手を貸してよっ!」
「だから、何が、あったんだよ! 落ち着けよっ!」
振り下ろされる言葉に、彼女の動きが止まった。青い目が、大きく見開かれた。
「ミッシャが……」
「ミッシャが、どうしたんだよ」
「いつものように、雨降り用の、布の乾燥広場のテントを張っていたのよ。あの子の仕事は、階上で大きな防水布を止めていくものだったわ」
「そんな危険な」
「危険だろうがそうでなかろうが、必要だからするに決まってるじゃない! あの子はああ見えて身軽よ。それに仕事は丁寧だったから、重宝がられていたのよ! それにいつもだったら、命綱がちゃんと効いてるわよ!」
いつもだったら。彼は手に込めた力を緩めた。
「もしかして、サッシャ」
「切れたのよ! もう弱っていたから、どんだけ換えてくれ換えてくれって言ったか…… あのケチ工場長! ……ああそんな場合じゃないっ! いいえサンド、落ちた訳じゃないわ、落ちた訳じゃ。だけど、落ちるわ、このままじゃ!」
それでようやく彼は、合点がいった。
「つまり、ミッシャは今、何処かで引っかかっているんだね? 命綱が切れて、高い所から、落ちて」
「そうよ! このままじゃ落ちる、っていうのに、誰も、助けるの、それ自体危険だって言って、誰もどうすることもできないのよ! あなた軍人だったんでしょ? そういう訓練受けてるでしょ? 助けてよ! 弟を!」
顔中をくしゃくしゃにさせて、彼女は両手で彼の肩を揺さぶる。確かに、訓練は受けている…… 様々な状況で生き残るための、訓練。学んだのは士官学校でだったが、そのコツを教えてくれたのは……
「向こうにロープはあるの? 強度が―――くらいの」
「え?」
どうやら専門知識は無い。
彼はいいよ、とうなづくと、履いていたサンダルから、家の中で見つけた、サイズの合いそうな靴に替えた。
彼は奇妙に血が騒ぐ自分に気付いていた。その様子を見ながら、彼女はその時ようやく、ぶる、と身体を震わせた。初夏とは言え、濡れたまま走ってきたから、寒いのだろう。彼はその様子を見ると、そっと彼女の肩を抱いた。そして軽く背を叩くと、工場はどっち? と訊ねた。
彼の腕を解くと、こっちよ、と彼女は髪の乱れを直しながら、外へと駆け出した。
*
ざわ、と十人ばかりが動いた。色素の薄いその一団が、彼を連れてきたサッシャの方に一斉に視線を移したのだ。
「何やってたんだ、サッシャ、あんた……」
「ごめんなさい副長、あの子、まだ大丈夫?」
副長と呼ばれた初老の男性は、うなづきながら、腕を上げた。サッシャは副長の指す場所を見て、ややほっとする。ああまだ大丈夫、とつぶやく声が、彼の耳にも飛び込んできた。
「だけど時間の問題だ。一応連絡もしてみたんだ、管区の救助隊の支部に…… だけど」
「それで! あの、いくらでも、救助に費用かかるなら、あたしの給金から引いて下さい! お願いです!」
「いやそれはいいんだ。そうじゃなくてサッシャ、いないんだよ、誰も」
いない?、と彼女の眉は大きく寄せられた。その間に彼は、辺りをふらりと見渡した。何か使えるものは……
「さっきから、ラジオの方の様子もおかしいんだ」
「何…… まさか、救助隊が、非常態勢に入ってるってこと?」
副長は苦々しげな顔でうなづいた。そしてその時やっと、黒い髪を揺らせている彼に気付いたようで、サッシャに訊ねた。
「彼は?」
「彼は…… サンドは、一応軍隊の訓練は受けてるわ」
サッシャは曖昧に説明する。それ以上のことは、彼女にも言えない。そして彼女は、彼の方へと声を張り上げた。
「どう? やれる?」
彼は防水布を取り付けていたロープを幾つか手にし、器用な手つきで短い部分を結び始めていた。身体は記憶している。教わった、サバイバルの方法。どんな場所でも、あるものを、最大限に使え、と。
「そんなもので大丈夫なの?」
「大丈夫も何も」
正直言えば、無駄口を叩いている気分ではなかった。彼はミッシャの引っかかっている場所を見上げる。少年は、工場の建物と建物の間で揺れていた。
建物の一方に、雨天用の防水布が常備されている。片側は固定されていて、そこからつながる強いロープでもって、二階のベランダから少年は、一つ一つの指定された結び目を作っていくのが仕事だったのだ。
ロープは長い。防水布は、この地の軍旗製作用の布地に特殊防水加工をしたもので、長期間使用が可能なものである。従って、非常に重い。その重い布を広範囲で支えるのだから、ロープ自体も、実に長く、強いものでなくてはならない。
だが取り付けることにはそう力は要らない。それにはある種のこつがあり、それさえ会得してしまえば、力は必要ないのだ。ただ、そのベランダ自体が、狭く、人が歩くような場所ではなかった。そして、少年は、突然の強風で、あおられ、バランスを崩したのだという。
命綱は切れたが、運良くロープを腕に絡めていたから、そのまま落ちてしまうことはなかった。だが絡まったロープが、少年自身の力だけでは、解くことができなくなっていた。
下でクッションを用意して、飛び降りろと言われても、強いロープを解くことも切ることもできず、無理だった。少年は、腕を強く締め付けられたまま、空中に揺れていた。
高いな、と彼はつぶやく。
工場の「二階」のベランダは、普通のビルの五階に相当する。少年が揺れているのは、だいたい四階くらいの高さだ。
軍や救助隊の特殊緩衝材仕様のブーツを履いているなら、何とか飛び降りることも可能かもしれないが、あいにく足につけているのは、ただの革靴だ。底もあまりしっかりしていない上に、すべりやすい。
ち、と微かな声を漏らすと、彼は再び少年の状態を推し量る。ぐったりと目を閉じている。
気を失っているのか? だったらその方が都合がいい、と彼は思った。
だが助けるなら助けるで、早くしないと、少年の腕も心配だった。助かったはいいが、強い力で締め付けられ続けている腕が駄目になりかねない。
「ナイフを貸してくれないか? サッシャ」
「これでいいかしら」
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そんなことで時間を潰しているはずだったのに。
「サッシャ…… どうしたの、まだ仕事中だろ」
はあはあ、と息づかいが彼の耳に飛び込む。
立ち上がり、目をこらすと、彼女はずぶぬれだった。
昨夜からの雨は、弱くなることもなく、ずっと降り続いていた。金色の巻き毛が、濡れてすっかりまっすぐになつて、彼女の顔のまわりにへばりついている。大きな、堅い布地の作業服が、すっかり水を吸い込んでその重みを倍にでもしていそうだった。
そしてその腕が、水を飛ばしながら動いた。
「ちょっと来て!」
言うが早いが、サッシャは彼の手を引っ張って、飛び込んで来た扉を再び大きく開いた。
だが彼女は、すぐに飛び出すことはできなかった。掴んでいたはずの手が、掴まれている。
何すんのよ、と彼女は大きく腕を振り回そうとする。だがそれはできなかった。男の力は、思った以上に強かった。
「何よあんた、邪魔する気?」
「邪魔するも何も、一体何があったんだよ」
「説明している暇が無いのっ! あなた軍人だったんでしょ? 訓練受けてんでしょ? 手を貸してよっ!」
「だから、何が、あったんだよ! 落ち着けよっ!」
振り下ろされる言葉に、彼女の動きが止まった。青い目が、大きく見開かれた。
「ミッシャが……」
「ミッシャが、どうしたんだよ」
「いつものように、雨降り用の、布の乾燥広場のテントを張っていたのよ。あの子の仕事は、階上で大きな防水布を止めていくものだったわ」
「そんな危険な」
「危険だろうがそうでなかろうが、必要だからするに決まってるじゃない! あの子はああ見えて身軽よ。それに仕事は丁寧だったから、重宝がられていたのよ! それにいつもだったら、命綱がちゃんと効いてるわよ!」
いつもだったら。彼は手に込めた力を緩めた。
「もしかして、サッシャ」
「切れたのよ! もう弱っていたから、どんだけ換えてくれ換えてくれって言ったか…… あのケチ工場長! ……ああそんな場合じゃないっ! いいえサンド、落ちた訳じゃないわ、落ちた訳じゃ。だけど、落ちるわ、このままじゃ!」
それでようやく彼は、合点がいった。
「つまり、ミッシャは今、何処かで引っかかっているんだね? 命綱が切れて、高い所から、落ちて」
「そうよ! このままじゃ落ちる、っていうのに、誰も、助けるの、それ自体危険だって言って、誰もどうすることもできないのよ! あなた軍人だったんでしょ? そういう訓練受けてるでしょ? 助けてよ! 弟を!」
顔中をくしゃくしゃにさせて、彼女は両手で彼の肩を揺さぶる。確かに、訓練は受けている…… 様々な状況で生き残るための、訓練。学んだのは士官学校でだったが、そのコツを教えてくれたのは……
「向こうにロープはあるの? 強度が―――くらいの」
「え?」
どうやら専門知識は無い。
彼はいいよ、とうなづくと、履いていたサンダルから、家の中で見つけた、サイズの合いそうな靴に替えた。
彼は奇妙に血が騒ぐ自分に気付いていた。その様子を見ながら、彼女はその時ようやく、ぶる、と身体を震わせた。初夏とは言え、濡れたまま走ってきたから、寒いのだろう。彼はその様子を見ると、そっと彼女の肩を抱いた。そして軽く背を叩くと、工場はどっち? と訊ねた。
彼の腕を解くと、こっちよ、と彼女は髪の乱れを直しながら、外へと駆け出した。
*
ざわ、と十人ばかりが動いた。色素の薄いその一団が、彼を連れてきたサッシャの方に一斉に視線を移したのだ。
「何やってたんだ、サッシャ、あんた……」
「ごめんなさい副長、あの子、まだ大丈夫?」
副長と呼ばれた初老の男性は、うなづきながら、腕を上げた。サッシャは副長の指す場所を見て、ややほっとする。ああまだ大丈夫、とつぶやく声が、彼の耳にも飛び込んできた。
「だけど時間の問題だ。一応連絡もしてみたんだ、管区の救助隊の支部に…… だけど」
「それで! あの、いくらでも、救助に費用かかるなら、あたしの給金から引いて下さい! お願いです!」
「いやそれはいいんだ。そうじゃなくてサッシャ、いないんだよ、誰も」
いない?、と彼女の眉は大きく寄せられた。その間に彼は、辺りをふらりと見渡した。何か使えるものは……
「さっきから、ラジオの方の様子もおかしいんだ」
「何…… まさか、救助隊が、非常態勢に入ってるってこと?」
副長は苦々しげな顔でうなづいた。そしてその時やっと、黒い髪を揺らせている彼に気付いたようで、サッシャに訊ねた。
「彼は?」
「彼は…… サンドは、一応軍隊の訓練は受けてるわ」
サッシャは曖昧に説明する。それ以上のことは、彼女にも言えない。そして彼女は、彼の方へと声を張り上げた。
「どう? やれる?」
彼は防水布を取り付けていたロープを幾つか手にし、器用な手つきで短い部分を結び始めていた。身体は記憶している。教わった、サバイバルの方法。どんな場所でも、あるものを、最大限に使え、と。
「そんなもので大丈夫なの?」
「大丈夫も何も」
正直言えば、無駄口を叩いている気分ではなかった。彼はミッシャの引っかかっている場所を見上げる。少年は、工場の建物と建物の間で揺れていた。
建物の一方に、雨天用の防水布が常備されている。片側は固定されていて、そこからつながる強いロープでもって、二階のベランダから少年は、一つ一つの指定された結び目を作っていくのが仕事だったのだ。
ロープは長い。防水布は、この地の軍旗製作用の布地に特殊防水加工をしたもので、長期間使用が可能なものである。従って、非常に重い。その重い布を広範囲で支えるのだから、ロープ自体も、実に長く、強いものでなくてはならない。
だが取り付けることにはそう力は要らない。それにはある種のこつがあり、それさえ会得してしまえば、力は必要ないのだ。ただ、そのベランダ自体が、狭く、人が歩くような場所ではなかった。そして、少年は、突然の強風で、あおられ、バランスを崩したのだという。
命綱は切れたが、運良くロープを腕に絡めていたから、そのまま落ちてしまうことはなかった。だが絡まったロープが、少年自身の力だけでは、解くことができなくなっていた。
下でクッションを用意して、飛び降りろと言われても、強いロープを解くことも切ることもできず、無理だった。少年は、腕を強く締め付けられたまま、空中に揺れていた。
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軍や救助隊の特殊緩衝材仕様のブーツを履いているなら、何とか飛び降りることも可能かもしれないが、あいにく足につけているのは、ただの革靴だ。底もあまりしっかりしていない上に、すべりやすい。
ち、と微かな声を漏らすと、彼は再び少年の状態を推し量る。ぐったりと目を閉じている。
気を失っているのか? だったらその方が都合がいい、と彼は思った。
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