20 / 78
19.客室の珍客
しおりを挟む
「へえ、こんな風になってるんだ……」
宿泊先の「ヘガジューの宿」の客室に足を踏み入れた時、イアサムはそうつぶやいた。
決して大きな部屋ではない。格別上等な部屋でもない。窓を閉め切ったエア・コンディショニングとは無縁な部屋だった。窓の近くに蛇腹式の籐製のついたてが立ち、風をとおしながらも、外からの視線を防ぐ役割をしている。
「来たことはないの?」
窓を開けながらGは訊ねる。その側におかれたポットは今朝より重い。中身を入れ替えられた様だった。
「そりゃあ普通、地元の人間は客室には泊まらないよ」
確かに、とGはうなづく。イアサムはそのまま部屋の中を進むと、やはりシーツも取り替えられたらしい寝台にぼん、と腰を下ろした。
「でもあまりこの宿は上等じゃあないけどね。平気?」
「別にね。そんなに場所にはこだわらないよ」
「へえ」
ポットから杯に冷たい、濃い茶を注ぐと、彼はイアサムに手渡した。
「あまり入れ方が上手くないね、これ」
「そりゃあ君ほどに上手くはないだろ」
「そりゃあそうだけど」
そう言いつつも、イアサムはそれを半分ほど呑む。
「結構さ、いいとこに泊まってるのが似合うと思うんだけど」
「似合うかどうか判らないけど、いつもいつもそういう訳にはいかないだろ?」
言いながら、彼もまたイアサムの横に腰を下ろした。
「ふうん。じゃあ結構色んなところ、回ってるんだ」
「まあね。君はずっとここ?」
「どう見える?」
くっ、とイアサムは笑みを浮かべる。どうだろう、とGは相手の顔をのぞき込む。
「ここは、どう?」
イアサムは口の端をきゅっと上げて問いかける。
「どうって?」
「この地は。サンドさんにとって、ここは居心地がいい?」
「そうだね」
彼は首を傾げる。
「うん。かなり俺としては、居心地がいいね。何でだろう」
「きっとこの街が暑いからだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ」
そうなのかな、と彼は思う。確かに暑いだろう。触れた手首がもううっすらと汗に湿っている。
夜でもじっとしていると身体中から汗が噴き出してきそうな程である。風が欲しいな、と彼は思った。しかし風は無い。ほんの時々、大気が動く様子が、やはり自分の首筋や手首が軽く温度を下げる時に判る程度だった。
彼はそんな汗が浮かんだ相手の手首を取ると、くっと引き寄せる。イアサムは逆らうことなく目を伏せる。慣れているのだな、とGはそんな相手の様子をうかがいながら思う。
実際、その思いは唇を重ねてからも変わらなかった。いや、それ以上だった。
確かに、言うだけの時間を重ねているのだろうな、と彼は思う。仕掛けたのは自分だが、ともすると、向こうに押されそうな気持ちになる。
どのくらいそうしていただろう? イアサムは頭に乗せた布を自分から取ろうとした。
と、その手をGは止めた。どうしたの、と離れた唇が聞こえるか聞こえないか程度の声で問いかける。
しっ、とGはそれを見て人差し指を立てた。
「……何か、居る」
ゆっくりと、音を立てないようにしてGは寝台の上から身を滑らせる。何処だ、と彼は耳を澄ませる。皮膚の上を流れる大気の変化を読みとろうとする。
「おい!」
そして彼は蛇腹の衝立を一気に取り去った。
「あ」
イアサムはそれを見て声を上げる。窓を開けた時には、蛇腹のかげになって見えなかったのだろう。それに。
「マリエアリカじゃねーの!」
イアサムは思わずそこに居た女に駆け寄っていた。気配が当初はしなかったはずだ。女は衝立の陰で倒れていたのだ。
Gはフロアスタンドをそっと彼女のそばに寄せる。う、と彼は声を立てた。
「……ひでえ」
口元が腫れていた。いや、口元だけではない。むき出しになった腕や足にまで、打ち身の跡があった。
そもそも、そんな部分が見える様にむき出しになっているということ自体、大変なことだった。おそらくは夜の舞台の時の衣装なのだろう。先日窓から逃げ出した時の格好と同じなのだが、頭につけていた赤いヴェールはここには無い。彼女の黒い、長い巻き毛がそのまま床に流れている状態だった。胸当てからは詰め物が少しこぼれている。もともと大きなものではないらしい。
そして腰に巻かれていた布が、半分ちぎられていた。そのせいで彼女の足は太股からすっかりと見えていたのだ。先日のよう裾をくくったズボンは履いていない。足はむき出しのままだった。
どうする、とイアサムは首を傾けた。どうしたものかな、とGもまた思う。何処かから彼女が逃げてきたことは一目瞭然だ。それに彼女に前科がある。しかしその「いつものこと」とは違うだろうことも一目瞭然なのだ。
「ん……」
「あ、目をさました」
灯りを近づけたせいだろうか、彼女は身体をぴく、と震わせた。目を開ける。数秒、ぼんやりと視線を漂わせていたが、やがて弾かれた様に身体を起こした。
「……な…… あ…… そっか……」
彼女の額から、首筋から、一瞬にして汗が噴き出した。だらだら、と流れる様が灯りに映し出される。
「……ご、ごめんなさい…… あの……」
「あんたなー、いい加減にしろよな」
イアサムは顔をしかめる。せっかくの楽しみが、と口の中でぶつぶつとつぶやく。
「えーと…… あの」
「ごめんなさいはいいよ」
Gは前日のうんざりした会話を思い出す。何だって二日も続けてこんなことが起こらなくてはならないのだ。
無論「休暇」は終わったのだから、何が起こったところで構わない覚悟はある。だがこの女の到来はいつもそんな彼の予測外のものだったのだ。
「それより、何なんだい? この跡は」
Gは彼女の足にかかる布をぱっ、と引き払う。彼女は目をそらした。
「サーカスンの劇場では、逃げ出したあんたにそんなことするのかい?」
「い、いえそんなことは」
「じゃあ誰がこんなことするんだよ。いくら何だって、ここの真っ当な住人は、女にこんな風に手を挙げたりはしないぜ?」
不機嫌さを隠さない声でイアサムも問いつめる。
「それは……」
「口ごもっていりゃいいってもんじゃないんだよ?」
それもそうだよな、とGも思う。
だいたい彼は、この女の態度を信用していなかった。いやもともと信用はしていないのだが、前日のことがあってから、全く信じてないと言ってもいい。
宿泊先の「ヘガジューの宿」の客室に足を踏み入れた時、イアサムはそうつぶやいた。
決して大きな部屋ではない。格別上等な部屋でもない。窓を閉め切ったエア・コンディショニングとは無縁な部屋だった。窓の近くに蛇腹式の籐製のついたてが立ち、風をとおしながらも、外からの視線を防ぐ役割をしている。
「来たことはないの?」
窓を開けながらGは訊ねる。その側におかれたポットは今朝より重い。中身を入れ替えられた様だった。
「そりゃあ普通、地元の人間は客室には泊まらないよ」
確かに、とGはうなづく。イアサムはそのまま部屋の中を進むと、やはりシーツも取り替えられたらしい寝台にぼん、と腰を下ろした。
「でもあまりこの宿は上等じゃあないけどね。平気?」
「別にね。そんなに場所にはこだわらないよ」
「へえ」
ポットから杯に冷たい、濃い茶を注ぐと、彼はイアサムに手渡した。
「あまり入れ方が上手くないね、これ」
「そりゃあ君ほどに上手くはないだろ」
「そりゃあそうだけど」
そう言いつつも、イアサムはそれを半分ほど呑む。
「結構さ、いいとこに泊まってるのが似合うと思うんだけど」
「似合うかどうか判らないけど、いつもいつもそういう訳にはいかないだろ?」
言いながら、彼もまたイアサムの横に腰を下ろした。
「ふうん。じゃあ結構色んなところ、回ってるんだ」
「まあね。君はずっとここ?」
「どう見える?」
くっ、とイアサムは笑みを浮かべる。どうだろう、とGは相手の顔をのぞき込む。
「ここは、どう?」
イアサムは口の端をきゅっと上げて問いかける。
「どうって?」
「この地は。サンドさんにとって、ここは居心地がいい?」
「そうだね」
彼は首を傾げる。
「うん。かなり俺としては、居心地がいいね。何でだろう」
「きっとこの街が暑いからだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ」
そうなのかな、と彼は思う。確かに暑いだろう。触れた手首がもううっすらと汗に湿っている。
夜でもじっとしていると身体中から汗が噴き出してきそうな程である。風が欲しいな、と彼は思った。しかし風は無い。ほんの時々、大気が動く様子が、やはり自分の首筋や手首が軽く温度を下げる時に判る程度だった。
彼はそんな汗が浮かんだ相手の手首を取ると、くっと引き寄せる。イアサムは逆らうことなく目を伏せる。慣れているのだな、とGはそんな相手の様子をうかがいながら思う。
実際、その思いは唇を重ねてからも変わらなかった。いや、それ以上だった。
確かに、言うだけの時間を重ねているのだろうな、と彼は思う。仕掛けたのは自分だが、ともすると、向こうに押されそうな気持ちになる。
どのくらいそうしていただろう? イアサムは頭に乗せた布を自分から取ろうとした。
と、その手をGは止めた。どうしたの、と離れた唇が聞こえるか聞こえないか程度の声で問いかける。
しっ、とGはそれを見て人差し指を立てた。
「……何か、居る」
ゆっくりと、音を立てないようにしてGは寝台の上から身を滑らせる。何処だ、と彼は耳を澄ませる。皮膚の上を流れる大気の変化を読みとろうとする。
「おい!」
そして彼は蛇腹の衝立を一気に取り去った。
「あ」
イアサムはそれを見て声を上げる。窓を開けた時には、蛇腹のかげになって見えなかったのだろう。それに。
「マリエアリカじゃねーの!」
イアサムは思わずそこに居た女に駆け寄っていた。気配が当初はしなかったはずだ。女は衝立の陰で倒れていたのだ。
Gはフロアスタンドをそっと彼女のそばに寄せる。う、と彼は声を立てた。
「……ひでえ」
口元が腫れていた。いや、口元だけではない。むき出しになった腕や足にまで、打ち身の跡があった。
そもそも、そんな部分が見える様にむき出しになっているということ自体、大変なことだった。おそらくは夜の舞台の時の衣装なのだろう。先日窓から逃げ出した時の格好と同じなのだが、頭につけていた赤いヴェールはここには無い。彼女の黒い、長い巻き毛がそのまま床に流れている状態だった。胸当てからは詰め物が少しこぼれている。もともと大きなものではないらしい。
そして腰に巻かれていた布が、半分ちぎられていた。そのせいで彼女の足は太股からすっかりと見えていたのだ。先日のよう裾をくくったズボンは履いていない。足はむき出しのままだった。
どうする、とイアサムは首を傾けた。どうしたものかな、とGもまた思う。何処かから彼女が逃げてきたことは一目瞭然だ。それに彼女に前科がある。しかしその「いつものこと」とは違うだろうことも一目瞭然なのだ。
「ん……」
「あ、目をさました」
灯りを近づけたせいだろうか、彼女は身体をぴく、と震わせた。目を開ける。数秒、ぼんやりと視線を漂わせていたが、やがて弾かれた様に身体を起こした。
「……な…… あ…… そっか……」
彼女の額から、首筋から、一瞬にして汗が噴き出した。だらだら、と流れる様が灯りに映し出される。
「……ご、ごめんなさい…… あの……」
「あんたなー、いい加減にしろよな」
イアサムは顔をしかめる。せっかくの楽しみが、と口の中でぶつぶつとつぶやく。
「えーと…… あの」
「ごめんなさいはいいよ」
Gは前日のうんざりした会話を思い出す。何だって二日も続けてこんなことが起こらなくてはならないのだ。
無論「休暇」は終わったのだから、何が起こったところで構わない覚悟はある。だがこの女の到来はいつもそんな彼の予測外のものだったのだ。
「それより、何なんだい? この跡は」
Gは彼女の足にかかる布をぱっ、と引き払う。彼女は目をそらした。
「サーカスンの劇場では、逃げ出したあんたにそんなことするのかい?」
「い、いえそんなことは」
「じゃあ誰がこんなことするんだよ。いくら何だって、ここの真っ当な住人は、女にこんな風に手を挙げたりはしないぜ?」
不機嫌さを隠さない声でイアサムも問いつめる。
「それは……」
「口ごもっていりゃいいってもんじゃないんだよ?」
それもそうだよな、とGも思う。
だいたい彼は、この女の態度を信用していなかった。いやもともと信用はしていないのだが、前日のことがあってから、全く信じてないと言ってもいい。
0
あなたにおすすめの小説
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
魔力ゼロの英雄の娘と魔族の秘密
藤原遊
ファンタジー
魔法が支配する世界で、魔力を持たない少女アリア・マーウェラ。彼女は、かつて街を守るために命を落とした英雄的冒険者の両親を持ちながら、その体質ゆえに魔法を使えず、魔道具すら扱えない。しかし、彼女は圧倒的な身体能力と戦闘センスを武器に、ギルドでソロ冒険者として活動していた。街の人々やギルド仲間からは「英雄の娘」として大切にされつつも、「魔力を捨てて進化した次世代型脳筋剣士」と妙な評価を受けている。
そんなある日、アリアは山中で倒れていた謎の魔法使いイアンを助ける。彼は並外れた魔法の才能を持ちながら、孤独な影を背負っていた。やがて二人は冒険の中で信頼を深め、街を脅かす魔王復活を阻止するため、「カギ」を探す旅に出る。
しかしイアンには秘密があった。彼は魔族と人間の混血であり、魔王軍四天王の血を引いていたのだ。その事実が明らかになったとき、アリアは「どんな過去があっても、イアンはイアンだよ」と笑顔で受け入れる。
過去に囚われたイアンと、前を向いて進むアリア。二人の絆が、世界を揺るがす冒険の行方を決める――。シリアスとギャグが織り交ざる、剣と魔法の冒険譚!
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる