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19.客室の珍客
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「へえ、こんな風になってるんだ……」
宿泊先の「ヘガジューの宿」の客室に足を踏み入れた時、イアサムはそうつぶやいた。
決して大きな部屋ではない。格別上等な部屋でもない。窓を閉め切ったエア・コンディショニングとは無縁な部屋だった。窓の近くに蛇腹式の籐製のついたてが立ち、風をとおしながらも、外からの視線を防ぐ役割をしている。
「来たことはないの?」
窓を開けながらGは訊ねる。その側におかれたポットは今朝より重い。中身を入れ替えられた様だった。
「そりゃあ普通、地元の人間は客室には泊まらないよ」
確かに、とGはうなづく。イアサムはそのまま部屋の中を進むと、やはりシーツも取り替えられたらしい寝台にぼん、と腰を下ろした。
「でもあまりこの宿は上等じゃあないけどね。平気?」
「別にね。そんなに場所にはこだわらないよ」
「へえ」
ポットから杯に冷たい、濃い茶を注ぐと、彼はイアサムに手渡した。
「あまり入れ方が上手くないね、これ」
「そりゃあ君ほどに上手くはないだろ」
「そりゃあそうだけど」
そう言いつつも、イアサムはそれを半分ほど呑む。
「結構さ、いいとこに泊まってるのが似合うと思うんだけど」
「似合うかどうか判らないけど、いつもいつもそういう訳にはいかないだろ?」
言いながら、彼もまたイアサムの横に腰を下ろした。
「ふうん。じゃあ結構色んなところ、回ってるんだ」
「まあね。君はずっとここ?」
「どう見える?」
くっ、とイアサムは笑みを浮かべる。どうだろう、とGは相手の顔をのぞき込む。
「ここは、どう?」
イアサムは口の端をきゅっと上げて問いかける。
「どうって?」
「この地は。サンドさんにとって、ここは居心地がいい?」
「そうだね」
彼は首を傾げる。
「うん。かなり俺としては、居心地がいいね。何でだろう」
「きっとこの街が暑いからだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ」
そうなのかな、と彼は思う。確かに暑いだろう。触れた手首がもううっすらと汗に湿っている。
夜でもじっとしていると身体中から汗が噴き出してきそうな程である。風が欲しいな、と彼は思った。しかし風は無い。ほんの時々、大気が動く様子が、やはり自分の首筋や手首が軽く温度を下げる時に判る程度だった。
彼はそんな汗が浮かんだ相手の手首を取ると、くっと引き寄せる。イアサムは逆らうことなく目を伏せる。慣れているのだな、とGはそんな相手の様子をうかがいながら思う。
実際、その思いは唇を重ねてからも変わらなかった。いや、それ以上だった。
確かに、言うだけの時間を重ねているのだろうな、と彼は思う。仕掛けたのは自分だが、ともすると、向こうに押されそうな気持ちになる。
どのくらいそうしていただろう? イアサムは頭に乗せた布を自分から取ろうとした。
と、その手をGは止めた。どうしたの、と離れた唇が聞こえるか聞こえないか程度の声で問いかける。
しっ、とGはそれを見て人差し指を立てた。
「……何か、居る」
ゆっくりと、音を立てないようにしてGは寝台の上から身を滑らせる。何処だ、と彼は耳を澄ませる。皮膚の上を流れる大気の変化を読みとろうとする。
「おい!」
そして彼は蛇腹の衝立を一気に取り去った。
「あ」
イアサムはそれを見て声を上げる。窓を開けた時には、蛇腹のかげになって見えなかったのだろう。それに。
「マリエアリカじゃねーの!」
イアサムは思わずそこに居た女に駆け寄っていた。気配が当初はしなかったはずだ。女は衝立の陰で倒れていたのだ。
Gはフロアスタンドをそっと彼女のそばに寄せる。う、と彼は声を立てた。
「……ひでえ」
口元が腫れていた。いや、口元だけではない。むき出しになった腕や足にまで、打ち身の跡があった。
そもそも、そんな部分が見える様にむき出しになっているということ自体、大変なことだった。おそらくは夜の舞台の時の衣装なのだろう。先日窓から逃げ出した時の格好と同じなのだが、頭につけていた赤いヴェールはここには無い。彼女の黒い、長い巻き毛がそのまま床に流れている状態だった。胸当てからは詰め物が少しこぼれている。もともと大きなものではないらしい。
そして腰に巻かれていた布が、半分ちぎられていた。そのせいで彼女の足は太股からすっかりと見えていたのだ。先日のよう裾をくくったズボンは履いていない。足はむき出しのままだった。
どうする、とイアサムは首を傾けた。どうしたものかな、とGもまた思う。何処かから彼女が逃げてきたことは一目瞭然だ。それに彼女に前科がある。しかしその「いつものこと」とは違うだろうことも一目瞭然なのだ。
「ん……」
「あ、目をさました」
灯りを近づけたせいだろうか、彼女は身体をぴく、と震わせた。目を開ける。数秒、ぼんやりと視線を漂わせていたが、やがて弾かれた様に身体を起こした。
「……な…… あ…… そっか……」
彼女の額から、首筋から、一瞬にして汗が噴き出した。だらだら、と流れる様が灯りに映し出される。
「……ご、ごめんなさい…… あの……」
「あんたなー、いい加減にしろよな」
イアサムは顔をしかめる。せっかくの楽しみが、と口の中でぶつぶつとつぶやく。
「えーと…… あの」
「ごめんなさいはいいよ」
Gは前日のうんざりした会話を思い出す。何だって二日も続けてこんなことが起こらなくてはならないのだ。
無論「休暇」は終わったのだから、何が起こったところで構わない覚悟はある。だがこの女の到来はいつもそんな彼の予測外のものだったのだ。
「それより、何なんだい? この跡は」
Gは彼女の足にかかる布をぱっ、と引き払う。彼女は目をそらした。
「サーカスンの劇場では、逃げ出したあんたにそんなことするのかい?」
「い、いえそんなことは」
「じゃあ誰がこんなことするんだよ。いくら何だって、ここの真っ当な住人は、女にこんな風に手を挙げたりはしないぜ?」
不機嫌さを隠さない声でイアサムも問いつめる。
「それは……」
「口ごもっていりゃいいってもんじゃないんだよ?」
それもそうだよな、とGも思う。
だいたい彼は、この女の態度を信用していなかった。いやもともと信用はしていないのだが、前日のことがあってから、全く信じてないと言ってもいい。
宿泊先の「ヘガジューの宿」の客室に足を踏み入れた時、イアサムはそうつぶやいた。
決して大きな部屋ではない。格別上等な部屋でもない。窓を閉め切ったエア・コンディショニングとは無縁な部屋だった。窓の近くに蛇腹式の籐製のついたてが立ち、風をとおしながらも、外からの視線を防ぐ役割をしている。
「来たことはないの?」
窓を開けながらGは訊ねる。その側におかれたポットは今朝より重い。中身を入れ替えられた様だった。
「そりゃあ普通、地元の人間は客室には泊まらないよ」
確かに、とGはうなづく。イアサムはそのまま部屋の中を進むと、やはりシーツも取り替えられたらしい寝台にぼん、と腰を下ろした。
「でもあまりこの宿は上等じゃあないけどね。平気?」
「別にね。そんなに場所にはこだわらないよ」
「へえ」
ポットから杯に冷たい、濃い茶を注ぐと、彼はイアサムに手渡した。
「あまり入れ方が上手くないね、これ」
「そりゃあ君ほどに上手くはないだろ」
「そりゃあそうだけど」
そう言いつつも、イアサムはそれを半分ほど呑む。
「結構さ、いいとこに泊まってるのが似合うと思うんだけど」
「似合うかどうか判らないけど、いつもいつもそういう訳にはいかないだろ?」
言いながら、彼もまたイアサムの横に腰を下ろした。
「ふうん。じゃあ結構色んなところ、回ってるんだ」
「まあね。君はずっとここ?」
「どう見える?」
くっ、とイアサムは笑みを浮かべる。どうだろう、とGは相手の顔をのぞき込む。
「ここは、どう?」
イアサムは口の端をきゅっと上げて問いかける。
「どうって?」
「この地は。サンドさんにとって、ここは居心地がいい?」
「そうだね」
彼は首を傾げる。
「うん。かなり俺としては、居心地がいいね。何でだろう」
「きっとこの街が暑いからだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ」
そうなのかな、と彼は思う。確かに暑いだろう。触れた手首がもううっすらと汗に湿っている。
夜でもじっとしていると身体中から汗が噴き出してきそうな程である。風が欲しいな、と彼は思った。しかし風は無い。ほんの時々、大気が動く様子が、やはり自分の首筋や手首が軽く温度を下げる時に判る程度だった。
彼はそんな汗が浮かんだ相手の手首を取ると、くっと引き寄せる。イアサムは逆らうことなく目を伏せる。慣れているのだな、とGはそんな相手の様子をうかがいながら思う。
実際、その思いは唇を重ねてからも変わらなかった。いや、それ以上だった。
確かに、言うだけの時間を重ねているのだろうな、と彼は思う。仕掛けたのは自分だが、ともすると、向こうに押されそうな気持ちになる。
どのくらいそうしていただろう? イアサムは頭に乗せた布を自分から取ろうとした。
と、その手をGは止めた。どうしたの、と離れた唇が聞こえるか聞こえないか程度の声で問いかける。
しっ、とGはそれを見て人差し指を立てた。
「……何か、居る」
ゆっくりと、音を立てないようにしてGは寝台の上から身を滑らせる。何処だ、と彼は耳を澄ませる。皮膚の上を流れる大気の変化を読みとろうとする。
「おい!」
そして彼は蛇腹の衝立を一気に取り去った。
「あ」
イアサムはそれを見て声を上げる。窓を開けた時には、蛇腹のかげになって見えなかったのだろう。それに。
「マリエアリカじゃねーの!」
イアサムは思わずそこに居た女に駆け寄っていた。気配が当初はしなかったはずだ。女は衝立の陰で倒れていたのだ。
Gはフロアスタンドをそっと彼女のそばに寄せる。う、と彼は声を立てた。
「……ひでえ」
口元が腫れていた。いや、口元だけではない。むき出しになった腕や足にまで、打ち身の跡があった。
そもそも、そんな部分が見える様にむき出しになっているということ自体、大変なことだった。おそらくは夜の舞台の時の衣装なのだろう。先日窓から逃げ出した時の格好と同じなのだが、頭につけていた赤いヴェールはここには無い。彼女の黒い、長い巻き毛がそのまま床に流れている状態だった。胸当てからは詰め物が少しこぼれている。もともと大きなものではないらしい。
そして腰に巻かれていた布が、半分ちぎられていた。そのせいで彼女の足は太股からすっかりと見えていたのだ。先日のよう裾をくくったズボンは履いていない。足はむき出しのままだった。
どうする、とイアサムは首を傾けた。どうしたものかな、とGもまた思う。何処かから彼女が逃げてきたことは一目瞭然だ。それに彼女に前科がある。しかしその「いつものこと」とは違うだろうことも一目瞭然なのだ。
「ん……」
「あ、目をさました」
灯りを近づけたせいだろうか、彼女は身体をぴく、と震わせた。目を開ける。数秒、ぼんやりと視線を漂わせていたが、やがて弾かれた様に身体を起こした。
「……な…… あ…… そっか……」
彼女の額から、首筋から、一瞬にして汗が噴き出した。だらだら、と流れる様が灯りに映し出される。
「……ご、ごめんなさい…… あの……」
「あんたなー、いい加減にしろよな」
イアサムは顔をしかめる。せっかくの楽しみが、と口の中でぶつぶつとつぶやく。
「えーと…… あの」
「ごめんなさいはいいよ」
Gは前日のうんざりした会話を思い出す。何だって二日も続けてこんなことが起こらなくてはならないのだ。
無論「休暇」は終わったのだから、何が起こったところで構わない覚悟はある。だがこの女の到来はいつもそんな彼の予測外のものだったのだ。
「それより、何なんだい? この跡は」
Gは彼女の足にかかる布をぱっ、と引き払う。彼女は目をそらした。
「サーカスンの劇場では、逃げ出したあんたにそんなことするのかい?」
「い、いえそんなことは」
「じゃあ誰がこんなことするんだよ。いくら何だって、ここの真っ当な住人は、女にこんな風に手を挙げたりはしないぜ?」
不機嫌さを隠さない声でイアサムも問いつめる。
「それは……」
「口ごもっていりゃいいってもんじゃないんだよ?」
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