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33.やせた子供
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湿った空気が鼻をついた。
「……痛ってぇ……」
つぶやきながら彼は、じっとりとした地面に両手をついて身体を起こす。重い。ひどく重かった。地面の水気が服に染み込んできていて気持ち悪いというのに、重力に逆らって手足を動かすのが、どうにも辛い。
この重さには、覚えがあった。
滅多なことでは出てこない、あの能力が発動した後のものだ。
そうだ。
彼はかさかさに乾いた声でつぶやく。
確か、あの時、炎に包まれたはずだったのに。
そのままその場に居たら、確実に自分に待っていたのは「死」である。あの時、身体は紅茶に仕込まれた薬物のせいで動くのもままならなかった。
それでも、気が付いた今、そこが天国ではなく、どうしようもなく現実でいうことが目に痛い。
ビルの谷間。光は遠かった。
一体ここは何処なのだろう、と彼は思う。立ち上がった身体をもたれさせている壁の生々しい冷たさは、むき出しのコンクリート。見上げると、遙か向こうに、微かに青空と、入道雲に似たものが見える。
そうかそれでも今は昼間なのか。
遠すぎて、ここまで光が射し込んでも来ない。高い高い、壁。
べたべたと窓が壁には張り付いていて、その一つ一つから小さな張り出しがのぞき、色鮮やかな洗濯物がひらひらと揺れる。
だったらここは、人の住むビルなのか。
まだすぐには動きたくはなかった。無意識の能力は、体力をこれでもかとばかりに奪う。立ち上がるのも億劫だったが、立ち上がらないことには、何もできない。動かなくては。ここにじっとしている訳にはいかなかった。
まず、ここが何時の時代の何処なのか、を探して……
経験が彼の思考を動かし出す。
しかし。
「ひっ!」
彼は思わず、心臓と身体をひくつかせた。
足に、柔らかい何かが絡みついている。
何故今まで気付かなかったのか。自分の消耗ぶりに彼は苦笑いする。
払おうとして足元を見て、彼はその手を止めた。
「君……?」
子供だった。
やせた子供が、身体ごと自分の足に絡みついているのだ。
払うために向けた手が、そっと、その肩に触れる。びく、と子供の肩は反射的に動いた。
だがすぐにその動きは止まった。止まっただけではない。不意にその顔が、上がった。彼を真っ正面から見据えた。
「……」
かすれた声。耳に飛び込む頃には言葉にはならない。湿った空気の中に消えていく。だが唇の動きは判る。大きく、はっきりと、一つの言葉をつづる。路地の、薄暗い光の中でも、彼の目には、判った。
た・す・け・て。
骨ばかりになったやせた手が、そう言いながら彼の顔へと伸びようとする。Gはその手を取った。握りしめた。
ふとその時、ふわりと甘い香りが漂うのに彼は気付いた。
子供の指先から、首筋から、その香りは立ち上ってくる。まるでそこに香水の原液をかぶったかの様だった。
ただし彼が知っているその香りは、水ではない。
亜熟果香、と名がついている。
およそ、こんな子供には似合わない、そして、子供からその香りがするなら……
「……何処でこの香りをつけたの?」
Gは子供に問いかける。答えは無かった。抱え上げた首が力無くだらり、と後ろに倒れる。息はある。力尽きただけだろう、と彼は判断した。
そっとその子供を抱え上げる。軽い。自分も細いとは言われることがよくあるが、それとは違う意味の、やせた身体が手の中にはあった。
自分の身体とて、まだ回復している訳ではないのだが。
そういうところがお前は甘いよね。
同僚の、言葉が頭の中に再生される。
甘いよな。彼は内心つぶやく。
だけど、目の前で震えながら気を失う子供を、どうして見捨てられよう?
*
ふう、と確保した安ホテルの一室で、彼はようやく一息入れる。
固い椅子に座り、これだけはやけに高い天井を見ると、人の顔と牛が戦っている様な染みが一面に広がっている。
天井は高いくせに、部屋は狭い。
人一人がただ寝るためだけに取る様な宿である。子供だから、と渋い顔をされながらも店主は二人で泊まり込むことを了承した。正直、懐の中の金が何処まで通用するのか、判らないのだ。
空間はともかく、時間を飛んでしまった場合、カードは役には立たない。それこそ同じ年内に居るのではない限り、そのカードを使えるという保証は全くない。
現金にしたところで、先日の惑星ミントで下ろした分の札の発行年月日が、今現在居るこの時間より向こう側だったら、使ったことで危険になる可能性もあるのだ。
いずれにせよ、この場所と時間がはっきりするまでは、そうそう動きが取れない。
それに、こうやって飛んだことが、実はまたMの予測範囲内のことなのかもしれない。そう思うと、下手な動きは余計に取れない。
う…… ん、と子供が寝返りを打つ。その声に彼はふと我に返る。
「……痛ってぇ……」
つぶやきながら彼は、じっとりとした地面に両手をついて身体を起こす。重い。ひどく重かった。地面の水気が服に染み込んできていて気持ち悪いというのに、重力に逆らって手足を動かすのが、どうにも辛い。
この重さには、覚えがあった。
滅多なことでは出てこない、あの能力が発動した後のものだ。
そうだ。
彼はかさかさに乾いた声でつぶやく。
確か、あの時、炎に包まれたはずだったのに。
そのままその場に居たら、確実に自分に待っていたのは「死」である。あの時、身体は紅茶に仕込まれた薬物のせいで動くのもままならなかった。
それでも、気が付いた今、そこが天国ではなく、どうしようもなく現実でいうことが目に痛い。
ビルの谷間。光は遠かった。
一体ここは何処なのだろう、と彼は思う。立ち上がった身体をもたれさせている壁の生々しい冷たさは、むき出しのコンクリート。見上げると、遙か向こうに、微かに青空と、入道雲に似たものが見える。
そうかそれでも今は昼間なのか。
遠すぎて、ここまで光が射し込んでも来ない。高い高い、壁。
べたべたと窓が壁には張り付いていて、その一つ一つから小さな張り出しがのぞき、色鮮やかな洗濯物がひらひらと揺れる。
だったらここは、人の住むビルなのか。
まだすぐには動きたくはなかった。無意識の能力は、体力をこれでもかとばかりに奪う。立ち上がるのも億劫だったが、立ち上がらないことには、何もできない。動かなくては。ここにじっとしている訳にはいかなかった。
まず、ここが何時の時代の何処なのか、を探して……
経験が彼の思考を動かし出す。
しかし。
「ひっ!」
彼は思わず、心臓と身体をひくつかせた。
足に、柔らかい何かが絡みついている。
何故今まで気付かなかったのか。自分の消耗ぶりに彼は苦笑いする。
払おうとして足元を見て、彼はその手を止めた。
「君……?」
子供だった。
やせた子供が、身体ごと自分の足に絡みついているのだ。
払うために向けた手が、そっと、その肩に触れる。びく、と子供の肩は反射的に動いた。
だがすぐにその動きは止まった。止まっただけではない。不意にその顔が、上がった。彼を真っ正面から見据えた。
「……」
かすれた声。耳に飛び込む頃には言葉にはならない。湿った空気の中に消えていく。だが唇の動きは判る。大きく、はっきりと、一つの言葉をつづる。路地の、薄暗い光の中でも、彼の目には、判った。
た・す・け・て。
骨ばかりになったやせた手が、そう言いながら彼の顔へと伸びようとする。Gはその手を取った。握りしめた。
ふとその時、ふわりと甘い香りが漂うのに彼は気付いた。
子供の指先から、首筋から、その香りは立ち上ってくる。まるでそこに香水の原液をかぶったかの様だった。
ただし彼が知っているその香りは、水ではない。
亜熟果香、と名がついている。
およそ、こんな子供には似合わない、そして、子供からその香りがするなら……
「……何処でこの香りをつけたの?」
Gは子供に問いかける。答えは無かった。抱え上げた首が力無くだらり、と後ろに倒れる。息はある。力尽きただけだろう、と彼は判断した。
そっとその子供を抱え上げる。軽い。自分も細いとは言われることがよくあるが、それとは違う意味の、やせた身体が手の中にはあった。
自分の身体とて、まだ回復している訳ではないのだが。
そういうところがお前は甘いよね。
同僚の、言葉が頭の中に再生される。
甘いよな。彼は内心つぶやく。
だけど、目の前で震えながら気を失う子供を、どうして見捨てられよう?
*
ふう、と確保した安ホテルの一室で、彼はようやく一息入れる。
固い椅子に座り、これだけはやけに高い天井を見ると、人の顔と牛が戦っている様な染みが一面に広がっている。
天井は高いくせに、部屋は狭い。
人一人がただ寝るためだけに取る様な宿である。子供だから、と渋い顔をされながらも店主は二人で泊まり込むことを了承した。正直、懐の中の金が何処まで通用するのか、判らないのだ。
空間はともかく、時間を飛んでしまった場合、カードは役には立たない。それこそ同じ年内に居るのではない限り、そのカードを使えるという保証は全くない。
現金にしたところで、先日の惑星ミントで下ろした分の札の発行年月日が、今現在居るこの時間より向こう側だったら、使ったことで危険になる可能性もあるのだ。
いずれにせよ、この場所と時間がはっきりするまでは、そうそう動きが取れない。
それに、こうやって飛んだことが、実はまたMの予測範囲内のことなのかもしれない。そう思うと、下手な動きは余計に取れない。
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