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53.蛇口から出てくる「くだものの香り」

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 それにしても。Gは懲りずに窓の外を見る。
 花火、というには、それはひどく規模が大きかった。確かにそうだ。空には明るく、色とりどりの花火がぱっと一瞬開いては、消えていく。
 ただそれが、ひっきりなしなだけだった。
 息もつかせぬ程に、ばちばちと音を立てて次々と空に開いては消えてゆく。どんどん大きく、どんどん激しく……
 そしてどんどん高く。  

「でも、そんなこと、どうでもいいわ」

 彼女は続きを、とばかりに彼のうなじを撫でる。それを避けるでもなく、かと言って応えるでもなく、彼は

「……良くないだろ。あの軍を」
「だから表向きは、何もしていないじゃない。あれはただの花火。その中に、たまたま、本当の爆弾が入っていたとしても、今日は祭りだもの。知ったことじゃないわ」

 Gは首を横に振る。

「君達は、あの軍の怖さを知らないんだ」
「じゃあ、あんたは知っているというの?」

 コレットは真っ直ぐ彼を見据える。

「知っていると言ったら?」
「じゃあ答えて。彼らに何ができるの?」
「それは……」

 Gは言いよどむ。

「ほら、答えられないんでしょ」

 つ、と彼女は絡めていた腕を解く。
 そのまま、洗面台の方へ向かう。巻き毛がふわふわ、と歩くたびに揺れる。腰のあたりまである。結い上げていた時には判らなかったが、その長さは、あの旧友の相方を思い出させた。

 ……そういえばこの時期に、彼はどうしていたのだろう? 

 不意にそんな問いが心に浮かぶ。コレットはそんなGの考えにはお構いなしに、化粧を落とす支度をしていた。あてつけだろうか、と彼が考えたかどうかは判らない。

「あら?」

 手にクレンジングクリームを少し取り、水道の蛇口をひねった時だった。

「どうしたの?」
「水が…… 出ないのよ」
「壊れたのかな? それとも」
「断水は、この都市では滅多にないわ。郊外にまず枯れない貯水池があるのよ」
「見せて」

 手にとったクリームをどうしようか迷っている彼女を横にやると、彼は水道の蛇口をひねった。確かに水が出ない。

「ん?」

 蛇口に置いた手に、幾らかの振動が伝わる。出るのかな?
 ぷしゅ!
 反射的に彼は蛇口を締めた。固く、固く締めた。
 まさか。

「……あら、あんたコロンか何か使ってるの?」
「……使っていない……」

 ―――まさか。

 彼の中に、危険信号が走る。

「出てきたの? やっぱり駄目なのかしら?」

 ひょい、とのぞき込もうとした彼女を、Gは手で制する。

「何すんのよ」

 少しばかり、眉を寄せて彼女はGを見上げる。

「……コレットよく聞いて」
「……何よ」

 コレットは少しばかり、たじろぐ。Gは彼女の両肩を強く掴んだ。

「絶対、この蛇口をひねっては駄目だ。いや、ここだけじゃない」
「何なのよ、一体」

 手を払う。

「いきなりそういうこと言われて、はいそうですか、とあっさり言える程、あたしはできた人間じゃあないのよ? 何か変なの? 何かおかしなものが、蛇口から出てきたっていうの?」
「亜熟果香……」
「あじゅく…… 何ですって?」
「聞いたこと、ない?」

 彼女は首を横に振る。その可能性はあった。まだこの時代、それは広まっていない。
 ……いや、それどころか。

「……麻薬の様な、香だ、と言えば、判る?」
「……麻薬?! ですって?」

 それが身体にさして影響が無い、という点はあえて彼は口にしなかった。強烈な習慣性。禁断症状。それだけで充分、それは危険なものなのだ。

「そう。今、それが蛇口から出てきた」
「って、今の甘い…… くだものの様な、香り?」
「そう」

 ち、と彼は舌打ちをする。
 蛇口から出てくるとしたら。しかもこの香りは、ちょっと嗅いだだけでは、それこそ「くだものの香り」として認識されてしまうのだ。そのまま断水が終わるまで、と蛇口を開きっぱなしにする家も決して少なくはないだろう。
 ……勢いにしたってそうだ。水とは違う。開いた蛇口から、圧縮された空気とともに流れてきたとしたら?
 Gは彼女の手を取った。

「逃げた方が、いい。この街から」
「どうしてよ。蛇口だったら、こうやって、閉じておけば……」

 彼女ははっとする。
 蛇口がぶるぶると震えている。開くのをこれでもかとばかりに待っている。圧力を上げたな、とGは思う。

「……逃げるって…… でも、何処へ?」

 彼女は声を張り上げる。そして首を横に振った。

「できないわ!」
「コレット」

 彼は目を見開いた。そういう答えが返ってくるとは思ってもみなかったのだ。

「あんた行くなら、早く行った方がいい。今なら間に合う、とあんたは思ってるんでしょ? ここに今居る旅行者のあんたなら」

 何かしら、入ってきた時の様に、出ることができるのだろう、と。

「でもあたしにはできないわ。それに、あたしはクルティザンヌなのよ? この惑星に縛り付けられている。あたしが逃げたら、あたしを売った家はどうなるの?」
「そういうことを言ってる場合じゃ」
「そういうこと、じゃないわ。それが大切なのよ」

 とん、と彼女はGの胸を両手で押した。

「行って。今ならあんたは大丈夫なのでしょ?」

 扉はあっちよ、と彼女はすらりとした腕を伸ばした。
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