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第10話 さなぎになるアリカ
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既に七日。
目の前で、自分の身代わりの少女は昏々と眠り続けている。
あの朝。サボンが寝過ごした朝、アリカが起こしてくれなかった朝。あれから。
あの几帳面な彼女が、朝の光に目を醒ますこともできず、動くことができない眠りにつなぎとめられている。
微かな寝息。一見して安らかな眠りとも感じられる。
だがその身体を巡る血の流れは速い。
脈を取る侍医の表情は重い。
「非常にお身体の中が忙しく働いておりますな」
そう言われてサボンは嘘だ、と思った。
「けどぴくりとも動かないではないですか」
「血の巡りが―――あー、そうですな、あんたは蝶の蛹を見たことがありますかな」
「蛹? いいえ」
「芋虫が蝶に変わることは」
「そのくらいは…… でも見たことは」
「ずいぶんとお嬢さんとご一緒のお暮らしだったようですな」
微かにサボンはむっとする。侍医はそんな彼女の表情には構わず続ける。
「芋虫は蝶になる前に蛹の姿をとる」
ええ、と彼女はうなづく。そのくらいは知っている。
「蛹自身は眠っているかの様にじっとしているが、その中では驚くべき変化が行われているのですぞ」
「それが?」
「芋虫はそのためにもぞもぞと動きながら一生懸命食物を口にする。……だがこのお嬢さんはそうはできなかったようですな」
「……あの……」
「なかなか大変なことになりそうじゃ。機会を見つけては、甘水を吸い飲みで流し込んでやりなさい。できるだけちょくちょく。水菓子の汁、蜜水、何でもよろしい。口にすればすぐに身体を巡る様なものがよろしい」
「は、はあ……」
「何ですね頼りない。今が大切なのですぞ」
「大切……」
「聞いていないのですかな。この時期に命を落とす女性方が多いということを」
あ、とサボンは口に手を当てた。
侍医はため息をついた。哀れむ様に彼女を見た。
「あ、あの…… お――― 将軍様は、私には、その様な」
「なる程…… まあサヘ将軍の様な勇猛果敢なお方は、自分の家の召使いも同じと思ったのか! それとも女というもの、言えば怖がるとお思いになられたのか! だが娘さん、それじゃあいかん。それじゃあいかんのだよ!」
侍医はそう言うと、さらさらと紙に何やら書き出した。
「配膳方にこれを渡しなさい」
ざっと目を通す。
甘水。水菓子の中でも特に甘みの強いもの、絞り汁がとろりと濃いもの、―――中にはこの帝都でも珍しいものもある。季節に合わないものもある。
「口にさせたほうが良いものじゃ」
「け、けど」
「目を醒ますかどうかはあなた次第じゃな。ええと、サボナンチュさんや」
「え…… あ、はい」
そうだそれがサボンの正式名だった、と彼女は思い出す。
そしてこの目の前で眠るのがアリカケシュなのだ。
自分がもしかしたら、そうなるかもしれなかった姿。眠り続ける、蛹の姿。
蛹の中で、何が起こっているのかは、誰も知らない。
「あの…… 一体いつまで、お眠りになるのですか」
侍医は首を振った。
「今まで儂は二十四人の女性を見送らなくてはならなかった。二十五人見送ったら宮中を去ろうと考えておる」
そうならないことを祈る、と彼は言い残して北離宮を去った。
配膳方は侍医から渡された書を読むと、黙々と作業を始めた。まずそれは、必要な食材を入手することからだった。
「サボンさん」
「は、はいっ」
「私が出ている間、女君には牛乳に蜜を混ぜたものを時々吸わせてやって下さい」
人肌に温める、と付け加えると、配膳方は外へと飛び出して行った。
一人残されたサボンは、おぼつかない手つきで、何とか牛乳に糖蜜を入れ、火に掛けた。
だが慣れないことはやはり難しい。鍋一杯に作ってしまい、無駄極まりない。
吸い飲みに何とか掬い入れ、人肌まで冷ますと、眠るアリカの枕元まで持って行く。吸い飲みを頬に当てる。起きてちょうだい。そう願いながら。
目覚めはしない。だが吸い飲みを口に差し込むと、口はすうすうと中身を吸った。流れ込んで行く。喉がごくりと鳴る。
サボンは少しばかりほっとする。
しかしどのくらい呑ませればいいのだろう。呑ませっぱなしでいい訳がない。その程度の理性と分別はサボンにもある。
とりあえず二杯目を用意しておこう、と彼女は立ち上がった。いずれにせよ、沢山用意してしまったのだ。
そして次に幾らかアリカが欲しがる素振りを見せた時に、すぐに口にできる様に、自分の胸で冷めない様にしておこう―――
そう思った時だった。
ばたばたばた、と外で音がした。
「いけません、ここには」
雑人女の声がする。
「何事ですか」
サボンは戸を開く。
「兄が妹に会いに来ただけだ! 病気だと! それの何が……」
はっ、と彼は息を呑んだ。視線が絡む。
サボンは口を開きかけ――― 慌てて手を当てた。いけない。その言葉を言っては。
代わりに出たのは、雑人女に対しての。
「下がってもらえる?」
「けどサボンさん」
「いいの、この方は、お嬢様の……」
「お嬢様!?」
青年は顔をしかめる。
「下がって、ね。本当よ、将軍様の跡取りの方で」
そのままサボンは彼を中へと通した。
「自分が――― 自分が、何をしたのか、判っているのか?! ……アリカ」
呼ぶ名は小声だった。聞こえてはいけない。だが呼ばずにはいられない。そんな口調だった。
「ええ、判っております。ウリュン兄様」
いえ、と彼女は目を伏せる。
「もう、そう呼んではいけませんのですね、小将軍様」
目の前で、自分の身代わりの少女は昏々と眠り続けている。
あの朝。サボンが寝過ごした朝、アリカが起こしてくれなかった朝。あれから。
あの几帳面な彼女が、朝の光に目を醒ますこともできず、動くことができない眠りにつなぎとめられている。
微かな寝息。一見して安らかな眠りとも感じられる。
だがその身体を巡る血の流れは速い。
脈を取る侍医の表情は重い。
「非常にお身体の中が忙しく働いておりますな」
そう言われてサボンは嘘だ、と思った。
「けどぴくりとも動かないではないですか」
「血の巡りが―――あー、そうですな、あんたは蝶の蛹を見たことがありますかな」
「蛹? いいえ」
「芋虫が蝶に変わることは」
「そのくらいは…… でも見たことは」
「ずいぶんとお嬢さんとご一緒のお暮らしだったようですな」
微かにサボンはむっとする。侍医はそんな彼女の表情には構わず続ける。
「芋虫は蝶になる前に蛹の姿をとる」
ええ、と彼女はうなづく。そのくらいは知っている。
「蛹自身は眠っているかの様にじっとしているが、その中では驚くべき変化が行われているのですぞ」
「それが?」
「芋虫はそのためにもぞもぞと動きながら一生懸命食物を口にする。……だがこのお嬢さんはそうはできなかったようですな」
「……あの……」
「なかなか大変なことになりそうじゃ。機会を見つけては、甘水を吸い飲みで流し込んでやりなさい。できるだけちょくちょく。水菓子の汁、蜜水、何でもよろしい。口にすればすぐに身体を巡る様なものがよろしい」
「は、はあ……」
「何ですね頼りない。今が大切なのですぞ」
「大切……」
「聞いていないのですかな。この時期に命を落とす女性方が多いということを」
あ、とサボンは口に手を当てた。
侍医はため息をついた。哀れむ様に彼女を見た。
「あ、あの…… お――― 将軍様は、私には、その様な」
「なる程…… まあサヘ将軍の様な勇猛果敢なお方は、自分の家の召使いも同じと思ったのか! それとも女というもの、言えば怖がるとお思いになられたのか! だが娘さん、それじゃあいかん。それじゃあいかんのだよ!」
侍医はそう言うと、さらさらと紙に何やら書き出した。
「配膳方にこれを渡しなさい」
ざっと目を通す。
甘水。水菓子の中でも特に甘みの強いもの、絞り汁がとろりと濃いもの、―――中にはこの帝都でも珍しいものもある。季節に合わないものもある。
「口にさせたほうが良いものじゃ」
「け、けど」
「目を醒ますかどうかはあなた次第じゃな。ええと、サボナンチュさんや」
「え…… あ、はい」
そうだそれがサボンの正式名だった、と彼女は思い出す。
そしてこの目の前で眠るのがアリカケシュなのだ。
自分がもしかしたら、そうなるかもしれなかった姿。眠り続ける、蛹の姿。
蛹の中で、何が起こっているのかは、誰も知らない。
「あの…… 一体いつまで、お眠りになるのですか」
侍医は首を振った。
「今まで儂は二十四人の女性を見送らなくてはならなかった。二十五人見送ったら宮中を去ろうと考えておる」
そうならないことを祈る、と彼は言い残して北離宮を去った。
配膳方は侍医から渡された書を読むと、黙々と作業を始めた。まずそれは、必要な食材を入手することからだった。
「サボンさん」
「は、はいっ」
「私が出ている間、女君には牛乳に蜜を混ぜたものを時々吸わせてやって下さい」
人肌に温める、と付け加えると、配膳方は外へと飛び出して行った。
一人残されたサボンは、おぼつかない手つきで、何とか牛乳に糖蜜を入れ、火に掛けた。
だが慣れないことはやはり難しい。鍋一杯に作ってしまい、無駄極まりない。
吸い飲みに何とか掬い入れ、人肌まで冷ますと、眠るアリカの枕元まで持って行く。吸い飲みを頬に当てる。起きてちょうだい。そう願いながら。
目覚めはしない。だが吸い飲みを口に差し込むと、口はすうすうと中身を吸った。流れ込んで行く。喉がごくりと鳴る。
サボンは少しばかりほっとする。
しかしどのくらい呑ませればいいのだろう。呑ませっぱなしでいい訳がない。その程度の理性と分別はサボンにもある。
とりあえず二杯目を用意しておこう、と彼女は立ち上がった。いずれにせよ、沢山用意してしまったのだ。
そして次に幾らかアリカが欲しがる素振りを見せた時に、すぐに口にできる様に、自分の胸で冷めない様にしておこう―――
そう思った時だった。
ばたばたばた、と外で音がした。
「いけません、ここには」
雑人女の声がする。
「何事ですか」
サボンは戸を開く。
「兄が妹に会いに来ただけだ! 病気だと! それの何が……」
はっ、と彼は息を呑んだ。視線が絡む。
サボンは口を開きかけ――― 慌てて手を当てた。いけない。その言葉を言っては。
代わりに出たのは、雑人女に対しての。
「下がってもらえる?」
「けどサボンさん」
「いいの、この方は、お嬢様の……」
「お嬢様!?」
青年は顔をしかめる。
「下がって、ね。本当よ、将軍様の跡取りの方で」
そのままサボンは彼を中へと通した。
「自分が――― 自分が、何をしたのか、判っているのか?! ……アリカ」
呼ぶ名は小声だった。聞こえてはいけない。だが呼ばずにはいられない。そんな口調だった。
「ええ、判っております。ウリュン兄様」
いえ、と彼女は目を伏せる。
「もう、そう呼んではいけませんのですね、小将軍様」
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