7 / 38
第7話 さてその皇太子はと言えば。
しおりを挟む
「こういう時には皇后陛下のあの恐ろしいまでの体力がもの凄くありがたいですわ」
女官長は半ば呆れ、半ばありがたいとばかりにため息をつく。
と言うのも、この「皇后陛下」ときたら、普通の子供を産んだばかりの女性と違い、赤ん坊の乳の求めにきっちり対応できてしまうのだ。
*
そもそもの出産が実に順調だった。
女官長レレンネイは、出仕した十代の終わりの頃から、非常に多くの出産を見てきた。残念ながらどれも決して安産ではなかった。
それに引き換え。
このどう見ても少女をほんの少し越えた程度の女君は、そろそろ、と思われていた頃もいつもの様に文献だの報告書だのをサボンと一緒に調べていたのだ。
いい加減安静にしろ、という周囲の上級女官の声も何のその、ある時すっくと立ち上がり、大して表情も変えぬまま、産屋と決められた部屋へとさっさと移動してしまった。
サボンの方が「あああああああ」と言いながら、アリカの歩いて行く跡に大量の水が下りていたことに焦りまくっていた。
「そこは何とかするからサボンは早く女君を追って頂戴!」
レレンネイの言葉にはっとしたサボンはアリカを追った。
「お、お身体は大丈夫ですか」
着替え、いきむための場所に陣取ったアリカはやや口の端を引きつらせこう言った。
「痛いことは痛いです」
「痛かったら思い切り痛いと言って頂戴! いつもの様に我慢しないで」
「だから我慢してませんって」
そう言ってアリカは珍しく苦笑する。痛いことは痛い。おそらく他の人間だったら気絶する程に。だが彼女にとって「痛み」と「辛さ」は繋がっていないのだ。出よう出ようとしている子供、内側からばりばりと剥がれ落ちようとするもの、それらが痛みを伴わない訳がない。
ただそれに感情がさっぱり湧いてこないだけなのだ。
……そしてやってきた医女と産女が呆れる様なあっけなさで、皇太子は産み落とされた。
「いやあ、もうぎりぎりまで下りてきてましたねえ」
「よくそこまで我慢できましたねえ」
逆だ、とサボンは憮然としながら思った。アリカは少しいきめばすぐに出てくることに気付いていたから移動したのだ、と。
後産もすぐに終わり、出血もそれまでのお産に比べて相当少ない、と皆が皆驚きすぎ……
これが皇太子の誕生だということに、すぐには思い至ることができなかった。
「……あ、あの…… 皇帝陛下には……」
サボンが言うまでレレンネイですら気付かなかったくらいである。
アリカときたら、確かにいきんだ時の顔の赤みなどは酷かったが、用は済んだとばかりにまた起き上がろうとするので、皆揃って押さえつけなくてはならなかった。
「大丈夫なんですが」
「そう言って頭から血が下りて人事不省に陥った女君もありますのよ! 皇后陛下!」
レレンネイはあえてそこでその呼び名を強調した。既に確認していた。確かに男子だった。それまでは「出てくるまでは」と「女君」と併用していたのだ。
本当に大丈夫なのに、とつぶやきつつも、アリカはそのまましばらく横たわっていることになった。見張りとしてサボンを横につけて。
その後皇帝がやってきて感謝の意を身体一杯に示したとか、その時にも太公主が一緒だったとか、後々まで女官の口から口を通して話が帝都中を巡ったことは言うまでもない。
帝都は数日前からそわそわしていたが、実際にその知らせが出ると、いきなりお祭り騒ぎとなった。
ところがその後がまた一騒動だった。
すぐに乳母と決められていた女性がやってきたが、「乳をやる役目なら不要」とアリカ自身が言い放ったのだった。
まだ産後で大変だ、栄養が、赤子は時間を待たない、とか様々な説得が行われたが、そこは無駄だった。
「何とかして下さいませ」
と女官長達は自分で乳をあげ、離そうとしないアリカについてとうとう皇帝にまで奏上した。
「妥協点は無いのか?」
「ともかく乳だけは自分のものをあげたい、の一点張りです」
「乳だけは、か」
思うところがあったのか、皇帝はこう付け加えた。
「では乳以外のことで其方達は世話をするがいい」
「しかし赤子の乳やりというのは、本当に時間が」
「あれが大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう」
自分と同じ生き物なのだから、とは言わなかったが。
「俺はあの女の乳などもらったことがなかった。あの頃に、だ。やりたいと思っている当人の身体に害が無いならやらせてやればいい。無理が来たなら手伝ってやってくれ」
さすがにそれを言われると女官長も弱かった。
「宿屋の倅」だった彼が、生まれてすぐに「あの女」―――皇太后から育ての母の手に渡され、素性も何も聞かされずに育ったのはある程度の歳がいった宮中の人間なら大まかに知っている。
レレンネイは直接見たことは無いが、先輩の女官から「即位なされたころしばらくはいらっしゃったのだが、実の母子とは思えない様な視線で睨み合っていた」と聞いている。
「判りました。では皇后様がお疲れになったら、乳母の方に」
「せっかく用意させたのに済まないな」
「いえ、一応乳母子も特別に今は入れさせてもらっております。時期が済めばまた副帝都に戻らせますが」
その女官長の言葉に、彼は何か言いたげだったが、何でもない、と結局は止めた。
*
しかし困ったことに、この皇后陛下は、恐ろしいまでの赤子の乳を求める時間に全て対応し、しかもまるで消耗していないのである。
ただし配膳方は大変だった。
「じっとしているのに無闇に腹が減るんですよ」
そういう彼女達の主人の言葉に、大量の食事を作る必要ができてしまったのだ。
「何でですかねえ。大して動いてもいないのに」
「……あのですねえ、私も聞いただけなんで何ですが、普通のお産をした方はそんなにすぐに元気ではいられませんって」
サボンもさすがに呆れ、うめく様にそう言ったものだった。
女官長は半ば呆れ、半ばありがたいとばかりにため息をつく。
と言うのも、この「皇后陛下」ときたら、普通の子供を産んだばかりの女性と違い、赤ん坊の乳の求めにきっちり対応できてしまうのだ。
*
そもそもの出産が実に順調だった。
女官長レレンネイは、出仕した十代の終わりの頃から、非常に多くの出産を見てきた。残念ながらどれも決して安産ではなかった。
それに引き換え。
このどう見ても少女をほんの少し越えた程度の女君は、そろそろ、と思われていた頃もいつもの様に文献だの報告書だのをサボンと一緒に調べていたのだ。
いい加減安静にしろ、という周囲の上級女官の声も何のその、ある時すっくと立ち上がり、大して表情も変えぬまま、産屋と決められた部屋へとさっさと移動してしまった。
サボンの方が「あああああああ」と言いながら、アリカの歩いて行く跡に大量の水が下りていたことに焦りまくっていた。
「そこは何とかするからサボンは早く女君を追って頂戴!」
レレンネイの言葉にはっとしたサボンはアリカを追った。
「お、お身体は大丈夫ですか」
着替え、いきむための場所に陣取ったアリカはやや口の端を引きつらせこう言った。
「痛いことは痛いです」
「痛かったら思い切り痛いと言って頂戴! いつもの様に我慢しないで」
「だから我慢してませんって」
そう言ってアリカは珍しく苦笑する。痛いことは痛い。おそらく他の人間だったら気絶する程に。だが彼女にとって「痛み」と「辛さ」は繋がっていないのだ。出よう出ようとしている子供、内側からばりばりと剥がれ落ちようとするもの、それらが痛みを伴わない訳がない。
ただそれに感情がさっぱり湧いてこないだけなのだ。
……そしてやってきた医女と産女が呆れる様なあっけなさで、皇太子は産み落とされた。
「いやあ、もうぎりぎりまで下りてきてましたねえ」
「よくそこまで我慢できましたねえ」
逆だ、とサボンは憮然としながら思った。アリカは少しいきめばすぐに出てくることに気付いていたから移動したのだ、と。
後産もすぐに終わり、出血もそれまでのお産に比べて相当少ない、と皆が皆驚きすぎ……
これが皇太子の誕生だということに、すぐには思い至ることができなかった。
「……あ、あの…… 皇帝陛下には……」
サボンが言うまでレレンネイですら気付かなかったくらいである。
アリカときたら、確かにいきんだ時の顔の赤みなどは酷かったが、用は済んだとばかりにまた起き上がろうとするので、皆揃って押さえつけなくてはならなかった。
「大丈夫なんですが」
「そう言って頭から血が下りて人事不省に陥った女君もありますのよ! 皇后陛下!」
レレンネイはあえてそこでその呼び名を強調した。既に確認していた。確かに男子だった。それまでは「出てくるまでは」と「女君」と併用していたのだ。
本当に大丈夫なのに、とつぶやきつつも、アリカはそのまましばらく横たわっていることになった。見張りとしてサボンを横につけて。
その後皇帝がやってきて感謝の意を身体一杯に示したとか、その時にも太公主が一緒だったとか、後々まで女官の口から口を通して話が帝都中を巡ったことは言うまでもない。
帝都は数日前からそわそわしていたが、実際にその知らせが出ると、いきなりお祭り騒ぎとなった。
ところがその後がまた一騒動だった。
すぐに乳母と決められていた女性がやってきたが、「乳をやる役目なら不要」とアリカ自身が言い放ったのだった。
まだ産後で大変だ、栄養が、赤子は時間を待たない、とか様々な説得が行われたが、そこは無駄だった。
「何とかして下さいませ」
と女官長達は自分で乳をあげ、離そうとしないアリカについてとうとう皇帝にまで奏上した。
「妥協点は無いのか?」
「ともかく乳だけは自分のものをあげたい、の一点張りです」
「乳だけは、か」
思うところがあったのか、皇帝はこう付け加えた。
「では乳以外のことで其方達は世話をするがいい」
「しかし赤子の乳やりというのは、本当に時間が」
「あれが大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう」
自分と同じ生き物なのだから、とは言わなかったが。
「俺はあの女の乳などもらったことがなかった。あの頃に、だ。やりたいと思っている当人の身体に害が無いならやらせてやればいい。無理が来たなら手伝ってやってくれ」
さすがにそれを言われると女官長も弱かった。
「宿屋の倅」だった彼が、生まれてすぐに「あの女」―――皇太后から育ての母の手に渡され、素性も何も聞かされずに育ったのはある程度の歳がいった宮中の人間なら大まかに知っている。
レレンネイは直接見たことは無いが、先輩の女官から「即位なされたころしばらくはいらっしゃったのだが、実の母子とは思えない様な視線で睨み合っていた」と聞いている。
「判りました。では皇后様がお疲れになったら、乳母の方に」
「せっかく用意させたのに済まないな」
「いえ、一応乳母子も特別に今は入れさせてもらっております。時期が済めばまた副帝都に戻らせますが」
その女官長の言葉に、彼は何か言いたげだったが、何でもない、と結局は止めた。
*
しかし困ったことに、この皇后陛下は、恐ろしいまでの赤子の乳を求める時間に全て対応し、しかもまるで消耗していないのである。
ただし配膳方は大変だった。
「じっとしているのに無闇に腹が減るんですよ」
そういう彼女達の主人の言葉に、大量の食事を作る必要ができてしまったのだ。
「何でですかねえ。大して動いてもいないのに」
「……あのですねえ、私も聞いただけなんで何ですが、普通のお産をした方はそんなにすぐに元気ではいられませんって」
サボンもさすがに呆れ、うめく様にそう言ったものだった。
0
あなたにおすすめの小説
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる