懐古的希望少女~昭和初期の令嬢と不良少女のそれぞれの夢

江戸川ばた散歩

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第14話 二人の明日はたぶん明るい。

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「よく進学できたわね」

 歓迎会の後、多希子はハナを見つけて、その肩を思い切り掴んだ。驚きもせず、ハナはにやりと笑った。やっぱり、とつぶやくあたり、小憎らしい、と多希子は思った。
 そしてそのまま、こっそりと寮の庭へと移動した。ちょうど満開の桜が、常夜灯に照らされてぼんやりと不思議な空間を作りだしていた。

「日比野さんに、出世払い、ってことで借りたんだ」
「出世払い」
「あたしが嫌だったのは、勉強のための資金を、向こうが丸ごと出してくれる、って言ったことだったんだ。それだと、その先が縛られるような気がして仕方なかったからさ」
「ああ」

 そういうことか、と多希子は思う。あの頃、結局ハナは渋る気持ちの中身を話してはくれなかった。

「別に向こうはその気はなかったとしても、あたしの気持ちが承知しない。それを言ったら、日比野さんは、じゃあ、と言ってきた訳さあ」

 なるほど、と多希子は感心する。

「で、あんたと会わなくなってから、切符売りも返上で、半年間勉強三昧。日比野さんとこにほとんど監禁状態でね。何せあたしは、『苦肉の策』も知らなかったくらいだからね」
「か、監禁?」
「あー、と」

 照れくさそうにぽりぽり、とハナは頭をかく。何をこの「お嬢さん」が想像したのか、予想できたのだ。

「って言っても、向こうは結局、あたしのことを妹程度にしか考えていないからね。だから、強引にそんなことできたんだよ。どうせ出世払いだったら、同じだろ、ってさ。けどお屋敷ってのは嫌だね。広すぎる」

 何じゃそれは、と多希子は思った。けど何かハナの様子は嬉しそうだった。照れ隠しなのだろう、と感じた。

「男爵からはお許しが出たの?」
「男爵の方は、もともと『才能には金を』というひとらしいから。何度か会わされたけど、剛胆なひとだね。息子とは大違いだ。ま、でも日比野さんがようやく帝大を卒業しようって気になっていたから、それであたしを住まわせて、ってのも平気だったのかもしれない」
「卒業、したの…… ってしたいからってできるもの?」
「あいつはね! しようと思えば余裕でできたの! ったく」

 忌々しそうにハナは吐き出す。

「ただ出ても世間もつまらなさそうだから、ってんだからね。ったくもう」

 しかしその口調はやっぱり楽しそうだった。

「何でも、何年か大陸のほうにある子会社へ出向してくるってことでね。その間あたしには寮に入ってみっちり勉強してこい、ってことだったけど」
「何か、いたれりつくせりじゃない」
「や、そこは出世払い、だよ。必ずあたしはあいつとあいつの家には利子つけて返してやる」

 ハナはそう言って、拳を強く握りしめる。それでこそ彼女だ、と多希子は思う。

「けどそういうあんたもよく来れたね。まあ、来なかったら一生会わないつもりでいたけど」
「そこはここよ」

と頭を指さし、多希子はにやりと笑った。その笑みが自分のものと少し似ていたのに、ハナはぞく、とする。

「お父様達にはこう言ったのよ」



「婚約の話、お引き受けいたします」

 おお、と両親はその時、露骨に嬉しそうな顔をした。

「ただ、やはり建築家の妻となるのでしたら、それなりに話ができる家庭であるほうが、円満ではないかと思うのですが」
「ふむ、それはそうかもしれないが」

 宇田川に学校のことを聞いた日の夜、多希子は両親にあらためて話がある、と切り出した。
 あくまで、冷静に。そしてちゃんと頭の中で組み立てて。

「ですから、N女子大学の家政学部に進学したいのです。そこには建築のことを少しは学ぶこともできるようですから」

 嘘ではない。ただ、目的がやや違うだけで。
 一ノ瀬氏は、そんな娘に訝しげな顔を向けた。

「そんな学問などわざわざ苦労して勉強しなくとも、お前は良き妻良き母になれると思うがな。女学校でもいい成績だった。それで充分だろう?」

 父親は当然のように、そう言った。ここがふんばりどころだ、と多希子も思った。
 しかしそれに反論したのは、夫人のほうだった。

「あなた、多希さんのいい様にさせてやってくれませんか」
「何だねお前まで」

 一ノ瀬氏は、眉を強く寄せた。ここで妻が反論するとは思っていなかったのだ。

「悪いことでは無いと思いますのよ。ええ、お家のことでしたら、私もおいおいお教えしていきますから」

 夫人の気持ちを推測することは多希子にとってそう難しくはなかった。
 せっかくまとまりかけている縁談を壊したくはない。
 それにさすがに母親を長くやっているだけあって、こういう所で反対されると、婚約そのものが駄目になってしまうかもしれなかった。彼女の知る多希子の性格からすれば、その可能性は大きかった。
 夫人も何度か会ったあの青年が多希子の婿になるなら願ったりかなったりだった。それでまた別の、となると、それもまた厄介である。
 いい縁談で、娘の気持ちも向いているのなら、数年また学校に行かせることくらい、大したことではない。そして、本当に必要なら、学校など辞めさせればいい、と思っていたのだ。
 もっとも、そんな母親の気持ちまで、多希子が計算に入れていた、などと、この人のいい夫人は思わないのだが。
 多希子は無論辞めさせられる可能性も考えていたし、その時にはまた闘わなくてはならないことは判っていた。しかしそれは後のことだ。とにかくは、入らないことにはお話にならない。
 入るためには、母親は必ず味方になる、と踏んでいた。
 両方を揃えて「お話が……」と切り出したのは、そのためだったのだ。



「きっとお母様はそう言って下さると思ったのよ。あの方は、私が嫁がないうちには、妹の由希子を結婚させる訳にはいかない、って思っているから。だから私の縁談が壊れてしまうことのほうを恐れると思ったわ」

 くすくす、と笑う多希子。ハナは腕組をしながら目をむく。

「驚いた! 嘘一つつけそうにないあんたがねえ!」
「あら、私結構小賢しいのよ。知らなかった?」

 何も言わずに、ハナは苦笑する。

「で、彼と結婚、するのかい?」
「さあぁ」

 多希子は首をぐるりと回す。

「さあぁ、ってあんた」
「だって私、どうしてもそうしたかったんですもの。この学校に入って、建築を勉強したかったんですもの」

 にっこりと多希子は笑う。その笑みにハナはぞくり、とする。

「別に全くの嘘でもないしね」
「じゃあ何。彼のことも、好きになってしまった訳かい?」
「あら前にも言わなかった? 宇田川さんのことは、結構好きよ。一緒に居ると楽しいし、会わないとつまらないし」
「そこまでは聞いていないよ。それって、充分『好き』じゃないか」
「でも結婚したい程かどうか、まだそれはわからないわ。まだ私達、距離置いてるし」
「そうか」
「それに結婚は生活ですもん。だから宇田川さんとはもう少しゆっくりおつきあいしてみようと思うし。それは彼も承知の上だし。その上で、どうしてもその気にならなかったら」
「ならなかったら?」
「その時は、その時よ! ねえ、その時にはあなた、私と一緒に暮らさない?」

 呆れた、ハナはあははは、と笑った。その声につられて多希子も笑い出した。
 あまりにもその声が大きかったので、寮舎の近くの窓から抗議が来たくらいだった。

 二人はそれで、翌日から入学早々、寮内の有名人となってしまうのである。
 しかしとりあえず、この日の二人には、そんなことはどうでも良かった。


 やっと、足を踏み出せるのだ。
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