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第29話 「優しいけど絶対的な拒絶」より「怖いけど可能性がある方」がずっとまし
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「結構ありふれた言い方だけど…… ある程度見えているレールの上を走るのがつまらないと思ったんでしょうね」
「他人事のように」
「当時のあたし、など他人ですよ」
「ですがそれは甘い、と私のような中年から見たら言いたくなりますが? 普通そこまでレールを敷くだけで疲れ切ってしまう人も多いのですよ?」
「そうかもしれませんね。実際甘い。実際失敗ばかりですよ。だけどどうやら出していたのは自分の力の半分以下に過ぎません。そしたら自分をちょっと見失ってしまいましてね。自分の歩いてきた道自体に疑問を持ってしまったんです」
HISAKAは断言する。
「で、ある日思ったんですよ。疑問を持ったまま人に教えられた安全な道を失敗もせずに行って、最後の最後に後悔するよりは、失敗しようが傷を負おうが自分で道を探す方が納得がいくって」
「―――若いですね」
「当然ですよ。若いんです。若いから人生を甘く見ることにしてるんです」
にやり、とHISAKAは笑う。
「ま、実際現在のあたしから見れば、当時の悩み方なんてもっと甘いし、うちのファンだって大甘の子が大多数ですがね、だけどうちのファンの中には、ライヴの時だけが生きてる気がする、って子も結構います。学校や家に居場所がなくって、どうしようもなくって、呼吸するのも辛いような子が、『でもライヴあるから死ねない』って来る時だってあるんですよ。それが大人から見て大甘ちゃんでも、痛みは確かにあるんですから」
「まるで宗教ですね」
「でも入り口はいつも開いているし、出口だっていつも開いてますよ」
頭がいい女だな、と彼は思った。
「その子達のために何かしようとは思いませんよ。ロックだろうがクラシックだろうが、音楽は基本的には自分のためにするものです。人の為と書いたら偽りですからね」
彼はん? と思ってテーブルに字を指で書く。確かにそうだ。
「ただ、そういう子が本気な分、相応の感情で応えてやるのが礼儀だと思ってますよ」
「なるほど」
彼はうなづいた。そろそろいいですか、とHISAKAは言った。彼は時計を見る。確かにそろそろ最初の約束の時間だ。
「では最後に一つ」
「はい?」
「ところで何故トモコに手伝いをさせてもいいと思いましたか? あの子に何か取り柄がありますか?」
「トモコちゃんのお茶、飲んだことがあります?」
「お茶?」
「あたしの家族には料理の達人がいるんですが…… その彼女が驚いてましたよ。『負けた』って」
「そうですか……」
考えたこともなかった。
*
こんなに父親の帰りを待ったのは生まれて始めてではないか、とトモコは思う。答えは保留にされている。だが保留にされたままでは身動きが取れないのだ。
トモコは何となく父親に期待し始めていた。母親の、「優しいけど絶対的な拒絶」より、怖いけど可能性がある方がずっとましではないか、と思い始めていたのである。
本当に自分の意見を押し通す人というのは、言葉の上では非常に丁寧で優しく、低姿勢なことが多い。
大量の枕ことばで繰り返し同じことを言い、結局自分の都合のいい方へ持っていくのである。言われた方は、相手が低姿勢な時に強気で断ると、結局周囲から自分が悪者に見られるのを避けて断りきれない。
記憶をたどる。
そう言えばそうだった。母親はいつも優しい言葉を駆使して、結局は自分をがんじがらめにしていた。何故だろう? 疑問に思う。だがそこまではトモコには掴めない。
答えは簡単である。自分の手の中にいてもらった方が楽だからだ。
彼女はトモコにある程度の自由を約束してやっているようなふりして、根の所では認めていない。だから、自分の手が届かなくなるようなこと、自分には理解しかねる所へは行って欲しくないのだ。
そして彼女は仮想の父親像を作り上げる。自分が締め付けているのではなく、父親というものに自分は命令されている立場だ、と中間的な立場を強調する。無論自分の位置を言葉で表現する訳ではない。だが、敏感な子にはその言葉の端々にあるものは刷り込まれていくのだ。
呪文はこう。
早く私から独立しなさい。私に依存しながら。
でももしあなたが一人前になれなくとも私の責任ではないわ。私はただの中間管理職なんだから。
チャイムの音がする。母親はオートロックを外す。いつもより早い帰宅だった。
父親は鞄を妻に預けると、上着だけ取って食卓の椅子に腰掛けた。トモコは恐る恐る近付くと、ありったけの勇気を込めて言葉を出す。彼は彼でどう切り出すべきか考えているようにも見えた。
「お父さん…… あの……」
「ああ、お茶、いれてくれないか、トモコ」
え、と彼女は驚いた。今までそんなこと言われたことはなかった。
「あなた、私が」
「トモコに言ってるんだ」
「はい…… 日本茶でいいですか?」
そして母親の居る前でトモコはいつもしているようにお茶の道具を取りだした。お茶と言っても別に特別変わったことをする訳ではない。
ただ、冷蔵庫にやや長い時間入れておいた塩素を飛ばした水を沸かし、きっちりお茶の葉の量をはかり、ちょうどいい温度を見きわめて湯を注ぐだけのことだ。
それを温めた湯呑みに入れ、ある程度冷ましてから飲むべき人に出す。ただそれだけだ。別にそれ以上のことはしていない、とトモコは思う。
「はい」
「ありがとう」
父親は手に取る。さほどに熱くない。手に取って持てないような熱さでは駄目だ。一口すする。
どうだろう。トモコはじっと父親の様子を見る。何か言ってくれないと、次の言葉を切り出すこともできない。
父親はじっと目をつぶって一口、二口と茶を含む。
息が詰まる。心臓の音が聞こえてくる。頭に血が上る。
「きちんと連絡を入れるなら、『手伝い』をしてもいいぞ」
「え」
「あなた!」
「どうして」
「したくないのか?」
トモコはぶるんぶるんと大きく首を左右に振る。したくない訳ない!
「他人事のように」
「当時のあたし、など他人ですよ」
「ですがそれは甘い、と私のような中年から見たら言いたくなりますが? 普通そこまでレールを敷くだけで疲れ切ってしまう人も多いのですよ?」
「そうかもしれませんね。実際甘い。実際失敗ばかりですよ。だけどどうやら出していたのは自分の力の半分以下に過ぎません。そしたら自分をちょっと見失ってしまいましてね。自分の歩いてきた道自体に疑問を持ってしまったんです」
HISAKAは断言する。
「で、ある日思ったんですよ。疑問を持ったまま人に教えられた安全な道を失敗もせずに行って、最後の最後に後悔するよりは、失敗しようが傷を負おうが自分で道を探す方が納得がいくって」
「―――若いですね」
「当然ですよ。若いんです。若いから人生を甘く見ることにしてるんです」
にやり、とHISAKAは笑う。
「ま、実際現在のあたしから見れば、当時の悩み方なんてもっと甘いし、うちのファンだって大甘の子が大多数ですがね、だけどうちのファンの中には、ライヴの時だけが生きてる気がする、って子も結構います。学校や家に居場所がなくって、どうしようもなくって、呼吸するのも辛いような子が、『でもライヴあるから死ねない』って来る時だってあるんですよ。それが大人から見て大甘ちゃんでも、痛みは確かにあるんですから」
「まるで宗教ですね」
「でも入り口はいつも開いているし、出口だっていつも開いてますよ」
頭がいい女だな、と彼は思った。
「その子達のために何かしようとは思いませんよ。ロックだろうがクラシックだろうが、音楽は基本的には自分のためにするものです。人の為と書いたら偽りですからね」
彼はん? と思ってテーブルに字を指で書く。確かにそうだ。
「ただ、そういう子が本気な分、相応の感情で応えてやるのが礼儀だと思ってますよ」
「なるほど」
彼はうなづいた。そろそろいいですか、とHISAKAは言った。彼は時計を見る。確かにそろそろ最初の約束の時間だ。
「では最後に一つ」
「はい?」
「ところで何故トモコに手伝いをさせてもいいと思いましたか? あの子に何か取り柄がありますか?」
「トモコちゃんのお茶、飲んだことがあります?」
「お茶?」
「あたしの家族には料理の達人がいるんですが…… その彼女が驚いてましたよ。『負けた』って」
「そうですか……」
考えたこともなかった。
*
こんなに父親の帰りを待ったのは生まれて始めてではないか、とトモコは思う。答えは保留にされている。だが保留にされたままでは身動きが取れないのだ。
トモコは何となく父親に期待し始めていた。母親の、「優しいけど絶対的な拒絶」より、怖いけど可能性がある方がずっとましではないか、と思い始めていたのである。
本当に自分の意見を押し通す人というのは、言葉の上では非常に丁寧で優しく、低姿勢なことが多い。
大量の枕ことばで繰り返し同じことを言い、結局自分の都合のいい方へ持っていくのである。言われた方は、相手が低姿勢な時に強気で断ると、結局周囲から自分が悪者に見られるのを避けて断りきれない。
記憶をたどる。
そう言えばそうだった。母親はいつも優しい言葉を駆使して、結局は自分をがんじがらめにしていた。何故だろう? 疑問に思う。だがそこまではトモコには掴めない。
答えは簡単である。自分の手の中にいてもらった方が楽だからだ。
彼女はトモコにある程度の自由を約束してやっているようなふりして、根の所では認めていない。だから、自分の手が届かなくなるようなこと、自分には理解しかねる所へは行って欲しくないのだ。
そして彼女は仮想の父親像を作り上げる。自分が締め付けているのではなく、父親というものに自分は命令されている立場だ、と中間的な立場を強調する。無論自分の位置を言葉で表現する訳ではない。だが、敏感な子にはその言葉の端々にあるものは刷り込まれていくのだ。
呪文はこう。
早く私から独立しなさい。私に依存しながら。
でももしあなたが一人前になれなくとも私の責任ではないわ。私はただの中間管理職なんだから。
チャイムの音がする。母親はオートロックを外す。いつもより早い帰宅だった。
父親は鞄を妻に預けると、上着だけ取って食卓の椅子に腰掛けた。トモコは恐る恐る近付くと、ありったけの勇気を込めて言葉を出す。彼は彼でどう切り出すべきか考えているようにも見えた。
「お父さん…… あの……」
「ああ、お茶、いれてくれないか、トモコ」
え、と彼女は驚いた。今までそんなこと言われたことはなかった。
「あなた、私が」
「トモコに言ってるんだ」
「はい…… 日本茶でいいですか?」
そして母親の居る前でトモコはいつもしているようにお茶の道具を取りだした。お茶と言っても別に特別変わったことをする訳ではない。
ただ、冷蔵庫にやや長い時間入れておいた塩素を飛ばした水を沸かし、きっちりお茶の葉の量をはかり、ちょうどいい温度を見きわめて湯を注ぐだけのことだ。
それを温めた湯呑みに入れ、ある程度冷ましてから飲むべき人に出す。ただそれだけだ。別にそれ以上のことはしていない、とトモコは思う。
「はい」
「ありがとう」
父親は手に取る。さほどに熱くない。手に取って持てないような熱さでは駄目だ。一口すする。
どうだろう。トモコはじっと父親の様子を見る。何か言ってくれないと、次の言葉を切り出すこともできない。
父親はじっと目をつぶって一口、二口と茶を含む。
息が詰まる。心臓の音が聞こえてくる。頭に血が上る。
「きちんと連絡を入れるなら、『手伝い』をしてもいいぞ」
「え」
「あなた!」
「どうして」
「したくないのか?」
トモコはぶるんぶるんと大きく首を左右に振る。したくない訳ない!
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