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8.「あなたは、彼女がものの値段を正当に評価できると思いますか?」
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「金銭面の問題ではありません。もっとも吉衛氏は、トモミさんが望むなら、あなたに援助をすることも考えていたそうですが」
「要らないよ」
彼はぽん、と即座に答えていた。
「ええ、そう言うだろう、と言うのも氏の言葉でした。四年間、彼はあなたという人物をよく観察してらしたのですね」
本当に。四年。十代の若者には長い時間だ。
理解のある――― ありすぎる父親。
自分の家とはまるで違っていた。倉瀬は思う。都心へ出て来る時に彼は、自分の父親とは殴り合いのケンカを数回。口ゲンカはもう数知れず。妥協は無かった。お互いの意見を絶対譲り合わず、結局、物別れになって彼は家を出てきた。
まるで違う。違っていた。どちらがいいとは言えない。ただ確実に「違う」。
「ともかく」
弁護士は彼の思いには関係なく、自分の仕事を進めることにした。
「トモミさんにとって現在頼りにできるのは、あなたしかいないことは確かです」
「ねえ、あいつには、親戚とかいない訳?」
「残念ながら」
弁護士は苦笑した。
「吉衛氏は親戚一同から縁を切られた形となっておりまして」
はあ、と倉瀬はうなづいた。世界が違う、と彼は思った。予想ができない。親戚と言えば、盆暮れに訪ねる存在じゃあなかったのか。
あれ? ふと彼は何かを思い出しかけた。だがそれが何だったのか、思い出せない。
弁護士はともかく、と続ける。
「吉衛氏の資産はあくまで氏が一人で作り上げたものです。それだけに、彼は何があったとしても、全てが彼女に行く様に、名義を彼女にしておいたのでしょう…… しかしまあ、金銭的なことは、実はどうでもいいのです。私はそれ相当の正当な報酬とともに、彼女に彼女のしたいことに対する合理的な使い方を助言する様に頼まれました」
「合理的な使い方?」
「あなたは、彼女がものの値段を正当に評価できると思いますか?」
うう、と彼はうめいた。思わない。全くもって思えない。以前、ベースを買いに出かけた時も、彼女は店員の言葉を鵜呑みにして、高額のものを買わされそうになっていた。
「ちょっと待てまだお前には早い!」
とその時には、慌てて安くてそれなりのものに変えさせたが、彼女がセールストークに弱いことがよく判った一瞬だった。
その後、彼はトモミに訊ねた。
「お前家にセールスが来た時どうしてる?」
「父はワタシに出るなって言うけど」
それは正しいよ、と倉瀬は嘆息と共に、思わず正面向いた彼女の両肩を掴んだ。ぎゃん、という声とともに彼女は飛び跳ね、彼はしまった、と思った。その時点でもまだ、予告無しで触れることに彼女は抵抗があったのだ。父親ですら同じだった。
「物理的な助けは私にもできますが、彼女の精神的な拠り所になれるのは、倉瀬さん、あなたしか居ないのです」
それだけに、弁護士のこの言葉には、うなづかざるを得なかった。
彼女との付き合いは六年になっていた。
そんな自分の目から見ても、彼女には「知り合い」は居ても、「友達」と言えるのは、確かに自分だけだった。
自分が高校を卒業して上京した後、彼女は苦手な列車に乗って、週末ごとに彼に会いに来た。雑魚寝な状態で泊まりもした。父親はそれを容認していた。倉瀬が彼女に「恋愛感情を持てない」と言ったことを完全に信じていたか―――そうでなくてもいい、と思っていたことになる。
「……それで俺にどうしろと?」
「氏はこう書き残しただけです。『これからも彼女の友達で居てくれ』」
ち、と彼は舌打ちをした。
「重荷でしょうか? 重荷でしょうね」
「あのねえ、弁護士先生」
彼はばん、と右手で畳を叩いた。途端、ほこりが大きく舞い上がる。弁護士は眼鏡越しの目を軽く細めた。
「別にそんなこと、言われなくたって、俺はするよ?」
「本当ですか?」
「今まで友達だった。これからも友達で居る。そんなことに、誰かからどうこう言われたくない。あんたもそう思わないかい?」
「まあ…… そうですね」
くす、と彼は笑った。
「確かに個人的にはそうでしょう。しかし父親としては…… じゃないですか? しかも自分以外に身寄りの無い娘に対する思いというものは、やや違うものですよ?」
「そういうもの?」
自分の、あの父親が、姉貴に対してもそう思うだろうか? 彼は首をひねった。
「ええ、そういうものです。私だってそうするでしょう」
「弁護士先生、娘さん居るの?」
「ええ、まだ小学生ですが」
ふっ、と彼は笑った。その笑みはそれまでの中で一番柔らかいものだった。
仕方ないな、と彼は苦笑した。
*
しかしそれとこれとは別ではないだろうか。
彼は空っぽの自分の部屋を見て思う。
確かに彼女に合い鍵は渡していた。あまりにも頻繁に、苦手な列車にすら乗ってまで来る、トモミを「留守だから」と外で待たす訳にはいかなかった。だからその時々の「カノジョ」にも渡さない合い鍵を、トモミには渡していたのだ。
そう、この時彼には「カノジョ」は別に居た。この場合の彼の中の「カノジョ」の定義は、「一番多くの時間とHを共有する女性」だった。実際、トモミが上京してくるまでは、その定義に変化は無かった。
しかしどうも、事態は変わりつつあった。
「……駄目かなあ、先輩」
そしてトモミは首を傾げ、彼に問いかけた。
正直、彼女のマンションは非常にいい環境だった。何度か引っ越しの後片付けを手伝いに行ったことがあったが、それまでの3DKの部屋にあった雑多なものがクローゼット部屋一つに納まってしまった位である。
トモミは日当たりの良い広いLDKが気に入り、そこで一日の生活の殆どを送っていた。家具と呼べるものは殆ど無かった。食事のテーブルは作りつけだし、クローゼット部屋は壁と一体化している。目につくのは部屋の真ん中にどん、と置かれた棚だけだった。
ただ。ふと彼は不安げな彼女の顔を見ながら考えた。
「……お前そういえば、あれから掃除とか洗濯とか、どうしてる?」
「……ファイル見て、やってる」
「物書き」な彼女の父親は、彼女に対しても膨大の「書き物」を残した。初めて相手を目にした時、倉瀬は思わず「何じゃこりゃあ!」と叫んだ。
それは生活全般に関する膨大な「マニュアル」だった。様々な場面における対処法が、一つ一つ、事細かに分類され整理され、まとめられていた。しかも出来うる限りの条件までつけて。
「マニュアル」は部屋の中に目立って陣取っている棚の中に、ぎっしりと詰め込まれていた。穏やかなナチュラルカラーでまとめられた部屋が、その部分だけ、どぎつい赤や青、オレンジといった色に浮いていた。明らかに、「そのファイルがそこにあることを忘れない様に」という父親の注意が反映されていた。
ただ時々疑問に思うことはあった。
一体こんなものを作る時間が、何処にあったのだろう?
吉衛氏は仕事だけでも驚異的に忙しかったはずだ。執筆だけではない。その資料収集、整理、その他もろもろに加え家事。
「だって父は眠ってなかったし」
トモミはそう答えた。そんな訳ないだろう、と彼の反論に、彼女は珍しく頑固に主張した。
「父が寝てるとこを見たことがない」
では睡眠時間が極端に少ないか、トモミが学校に行っているうちに眠っているのだろう、とその時は彼も思った。
だがこの大量のファイルとその中の情報量を見るにつけ、彼女の言うことが本当かもしれない、と思えてきた。
とは言え、現在となっては、真偽を確かめる術は無い。
そしてまた、トモミがそのファイル通りに「生活」しているかも、心配になりつつあった。そうなってみると、いっそ、彼女と住んで、生活をサポートしてやる方が安心できるかもしれない。彼は次第にそう思う自分に気付きつつあった。
確かにあの部屋は、一人では広いのだ。
「引っ越してしまったものは、仕方ないか」
「仕方ない?」
悪い意味に取ったのだろうか、彼女は目を細めた。
「お前今、この部屋の合い鍵持ってる?」
彼女は黙ってポケットから鍵を取り出した。彼はそれをそっと取り上げた。
「大家さんに返して来るから、ちょっと待ってろ」
「どういう意味?」
「一緒にお前のマンションに帰ろう、ってことだよ」
ああ、と彼女の表情が微妙に外向きに動いた。
このことで、この先、自分の人間関係に一悶着あるだろうことは予想できた。
それでも彼女を置いていくことはできなかった。彼女の父親の遺言は関係無い。彼女は大切な後輩で、友達で、妹みたいなものなのだ。
誰にもそれに、文句を言わせたくなかったのだ。
「要らないよ」
彼はぽん、と即座に答えていた。
「ええ、そう言うだろう、と言うのも氏の言葉でした。四年間、彼はあなたという人物をよく観察してらしたのですね」
本当に。四年。十代の若者には長い時間だ。
理解のある――― ありすぎる父親。
自分の家とはまるで違っていた。倉瀬は思う。都心へ出て来る時に彼は、自分の父親とは殴り合いのケンカを数回。口ゲンカはもう数知れず。妥協は無かった。お互いの意見を絶対譲り合わず、結局、物別れになって彼は家を出てきた。
まるで違う。違っていた。どちらがいいとは言えない。ただ確実に「違う」。
「ともかく」
弁護士は彼の思いには関係なく、自分の仕事を進めることにした。
「トモミさんにとって現在頼りにできるのは、あなたしかいないことは確かです」
「ねえ、あいつには、親戚とかいない訳?」
「残念ながら」
弁護士は苦笑した。
「吉衛氏は親戚一同から縁を切られた形となっておりまして」
はあ、と倉瀬はうなづいた。世界が違う、と彼は思った。予想ができない。親戚と言えば、盆暮れに訪ねる存在じゃあなかったのか。
あれ? ふと彼は何かを思い出しかけた。だがそれが何だったのか、思い出せない。
弁護士はともかく、と続ける。
「吉衛氏の資産はあくまで氏が一人で作り上げたものです。それだけに、彼は何があったとしても、全てが彼女に行く様に、名義を彼女にしておいたのでしょう…… しかしまあ、金銭的なことは、実はどうでもいいのです。私はそれ相当の正当な報酬とともに、彼女に彼女のしたいことに対する合理的な使い方を助言する様に頼まれました」
「合理的な使い方?」
「あなたは、彼女がものの値段を正当に評価できると思いますか?」
うう、と彼はうめいた。思わない。全くもって思えない。以前、ベースを買いに出かけた時も、彼女は店員の言葉を鵜呑みにして、高額のものを買わされそうになっていた。
「ちょっと待てまだお前には早い!」
とその時には、慌てて安くてそれなりのものに変えさせたが、彼女がセールストークに弱いことがよく判った一瞬だった。
その後、彼はトモミに訊ねた。
「お前家にセールスが来た時どうしてる?」
「父はワタシに出るなって言うけど」
それは正しいよ、と倉瀬は嘆息と共に、思わず正面向いた彼女の両肩を掴んだ。ぎゃん、という声とともに彼女は飛び跳ね、彼はしまった、と思った。その時点でもまだ、予告無しで触れることに彼女は抵抗があったのだ。父親ですら同じだった。
「物理的な助けは私にもできますが、彼女の精神的な拠り所になれるのは、倉瀬さん、あなたしか居ないのです」
それだけに、弁護士のこの言葉には、うなづかざるを得なかった。
彼女との付き合いは六年になっていた。
そんな自分の目から見ても、彼女には「知り合い」は居ても、「友達」と言えるのは、確かに自分だけだった。
自分が高校を卒業して上京した後、彼女は苦手な列車に乗って、週末ごとに彼に会いに来た。雑魚寝な状態で泊まりもした。父親はそれを容認していた。倉瀬が彼女に「恋愛感情を持てない」と言ったことを完全に信じていたか―――そうでなくてもいい、と思っていたことになる。
「……それで俺にどうしろと?」
「氏はこう書き残しただけです。『これからも彼女の友達で居てくれ』」
ち、と彼は舌打ちをした。
「重荷でしょうか? 重荷でしょうね」
「あのねえ、弁護士先生」
彼はばん、と右手で畳を叩いた。途端、ほこりが大きく舞い上がる。弁護士は眼鏡越しの目を軽く細めた。
「別にそんなこと、言われなくたって、俺はするよ?」
「本当ですか?」
「今まで友達だった。これからも友達で居る。そんなことに、誰かからどうこう言われたくない。あんたもそう思わないかい?」
「まあ…… そうですね」
くす、と彼は笑った。
「確かに個人的にはそうでしょう。しかし父親としては…… じゃないですか? しかも自分以外に身寄りの無い娘に対する思いというものは、やや違うものですよ?」
「そういうもの?」
自分の、あの父親が、姉貴に対してもそう思うだろうか? 彼は首をひねった。
「ええ、そういうものです。私だってそうするでしょう」
「弁護士先生、娘さん居るの?」
「ええ、まだ小学生ですが」
ふっ、と彼は笑った。その笑みはそれまでの中で一番柔らかいものだった。
仕方ないな、と彼は苦笑した。
*
しかしそれとこれとは別ではないだろうか。
彼は空っぽの自分の部屋を見て思う。
確かに彼女に合い鍵は渡していた。あまりにも頻繁に、苦手な列車にすら乗ってまで来る、トモミを「留守だから」と外で待たす訳にはいかなかった。だからその時々の「カノジョ」にも渡さない合い鍵を、トモミには渡していたのだ。
そう、この時彼には「カノジョ」は別に居た。この場合の彼の中の「カノジョ」の定義は、「一番多くの時間とHを共有する女性」だった。実際、トモミが上京してくるまでは、その定義に変化は無かった。
しかしどうも、事態は変わりつつあった。
「……駄目かなあ、先輩」
そしてトモミは首を傾げ、彼に問いかけた。
正直、彼女のマンションは非常にいい環境だった。何度か引っ越しの後片付けを手伝いに行ったことがあったが、それまでの3DKの部屋にあった雑多なものがクローゼット部屋一つに納まってしまった位である。
トモミは日当たりの良い広いLDKが気に入り、そこで一日の生活の殆どを送っていた。家具と呼べるものは殆ど無かった。食事のテーブルは作りつけだし、クローゼット部屋は壁と一体化している。目につくのは部屋の真ん中にどん、と置かれた棚だけだった。
ただ。ふと彼は不安げな彼女の顔を見ながら考えた。
「……お前そういえば、あれから掃除とか洗濯とか、どうしてる?」
「……ファイル見て、やってる」
「物書き」な彼女の父親は、彼女に対しても膨大の「書き物」を残した。初めて相手を目にした時、倉瀬は思わず「何じゃこりゃあ!」と叫んだ。
それは生活全般に関する膨大な「マニュアル」だった。様々な場面における対処法が、一つ一つ、事細かに分類され整理され、まとめられていた。しかも出来うる限りの条件までつけて。
「マニュアル」は部屋の中に目立って陣取っている棚の中に、ぎっしりと詰め込まれていた。穏やかなナチュラルカラーでまとめられた部屋が、その部分だけ、どぎつい赤や青、オレンジといった色に浮いていた。明らかに、「そのファイルがそこにあることを忘れない様に」という父親の注意が反映されていた。
ただ時々疑問に思うことはあった。
一体こんなものを作る時間が、何処にあったのだろう?
吉衛氏は仕事だけでも驚異的に忙しかったはずだ。執筆だけではない。その資料収集、整理、その他もろもろに加え家事。
「だって父は眠ってなかったし」
トモミはそう答えた。そんな訳ないだろう、と彼の反論に、彼女は珍しく頑固に主張した。
「父が寝てるとこを見たことがない」
では睡眠時間が極端に少ないか、トモミが学校に行っているうちに眠っているのだろう、とその時は彼も思った。
だがこの大量のファイルとその中の情報量を見るにつけ、彼女の言うことが本当かもしれない、と思えてきた。
とは言え、現在となっては、真偽を確かめる術は無い。
そしてまた、トモミがそのファイル通りに「生活」しているかも、心配になりつつあった。そうなってみると、いっそ、彼女と住んで、生活をサポートしてやる方が安心できるかもしれない。彼は次第にそう思う自分に気付きつつあった。
確かにあの部屋は、一人では広いのだ。
「引っ越してしまったものは、仕方ないか」
「仕方ない?」
悪い意味に取ったのだろうか、彼女は目を細めた。
「お前今、この部屋の合い鍵持ってる?」
彼女は黙ってポケットから鍵を取り出した。彼はそれをそっと取り上げた。
「大家さんに返して来るから、ちょっと待ってろ」
「どういう意味?」
「一緒にお前のマンションに帰ろう、ってことだよ」
ああ、と彼女の表情が微妙に外向きに動いた。
このことで、この先、自分の人間関係に一悶着あるだろうことは予想できた。
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