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第4話 「どうかあなたに全ての幸運を」
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「そのワンピース、良く似合ってます。かなり、可愛い」
「……」
「あなたは、頭のいい子でしたから、ある程度、気付いていたかも知れません」
過去形を使わないで。
「何を」
「俺が、あなたの見張り役だったということ」
彼女はうなづいた。
あの母様が、ただの気まぐれだったら、良かったのに。
彼女の悪い方の予感。もしくは推理。ただの、子どもを放り出している母親が、たまに何かしてやろうとする気まぐれ。そうだったら良かったのに。
でも予測はしていた。
母様は、何かしようとしていて、そのためにあたしが邪魔なんだ。
彼女は思う。
母様は、あたしを消去しようとしている。
普通の子は、そういう予測は、しない。
だが、普通の家庭なら、ともかく、彼女の母親は、この目の前にいる男の大切なものを何らかの形で握っているらしい。握れる立場にあるような人物であるということだ。
「何を、あのひとに、握られてるの?」
サカイは視線をゆっくりと彼女に向けた。
「家族です」
家族。彼女には縁が薄いもの。
「どんな人がいるの?」
彼女はふと聞いてみたくなった。
「普通の家族って? サカイが守りたいと思うほど大切なものって?」
「普通だと、思いますよ… 父親がいて母親がいて、弟が二人…… 猫が一匹…… ごくごくありふれた、家族だと、思ってました。今でも、思いたいです。思ってます」
「大切な、ものなの? それって」
「大切です。大切なんです。だれも、誰一人、欠けさせたくないんです。全部揃ってこそ、家族なんです」
そんなにまで大切なものなの? 彼女には判らなかった。
彼女は、父親の顔も知らない。ものごころついたときには、母親とハウスキーパーしかいなかった。母親には聞くことも、できない。母親に聞いたら、…想像停止。ハウスキーパーが知っている訳もない。だいたい彼女は、母親の本当の職すら知らないのだ。
家族どころではない。彼女は自分の名前に実感が無かった。母親はほとんど呼んだことがない。自分は彼女に声を掛けられたことが一体どれだけあっただろうか――― 無かったかもしれない。
そこまで考えが巡った時、ふと、一つの記憶がよみがえる。
あれは、まだ記憶に新しいから、一年以内だったと思う。母親が帰ってきたのも気付かずに、つい、いない時と同様に、そのひどく通る声で、歌っていたとき。大好きな、洋楽の、ロックバンドの。
その時始めて、母親が自分に感情を向けた気がする。
やめなさい。耳に響く。その声は聞きたくない。黙りなさい。
そして声を止めるために、彼女は始めて母親から殴られた。
でもその制止する声は、自分のものとひどくよく似ていた気がする。よく通る声。
ほとんどない記憶の断片は、自分に対する、怒り。それでもそれがある。それだけでも彼女は嬉しかった。
「そして、あたしを、消すの」
「……」
今度はサカイが黙った。彼は黙るしかなかった。
「親父は、あのひとのおかげで助かったんです。あのひとが上層部に掛け合ってくれなかったら、うちは全員、事故死して保険金を差し出さなくてはならなかった。そのくらいの失敗をした親父と、うちの家族を、あのひとは助けてくれた。そしてその代わり、俺を貸してくれ、と言った」
いつになく彼は雄弁になった。いつもの、年齢以上に思わせるような喋りではなく、年相応の、よく学びよく遊んでいる大学生のような。
「親父は嫌な予感がしたらしいけれど」
「サカイはいいと言った?」
彼女が続ける。サカイははい、と答えた。
「どちらにせよ、断る道はなかったんです」
「いつの話?」
「あなたのところへ来る少し前です」
ああ、そうか。
彼女は思考が加速して回転するのを感じていた。感情はもうとっくの昔にその顔から抜け落ちていた。ただ、ここに起こっていることを必死で理解しようとしている理性だけがあった。
「じゃあ、あの時から、もう、母様は、あたしを要らなかったのね」
あの時?
そう言えば、あの歌って、叱られた頃に彼はやってきた。じゃあその頃から。いや違う。要らなかったのは、始めから。
「母様は、最初の間違いを訂正したいの? そうなの?」
「……」
泣きもしない、わめきもしない。ただ淡々と受け答えする彼女を、サカイは本当に可哀そうだと思った。
だが、二人とも助かるという道は無かった。
これが自分一人の問題だったら。
サカイは思う。
この子を連れて逃げてもいい、と思ったこともある。だけど、自分の手には、家族の重みがかかっている。自分は、この家庭で、ずっと、幸せだったから。自分はともかく、幸せな家庭を幸せなままにさせてやりたかったから。自分が欠けて、幸せかどうか、という問いはとりあえず無視した。
自己満足かもしれない。
でもいい、と彼は思った。そんなことをいちいち考えているより、何かしなくては、少なくとも、誰かが幸せになるためには。
そして自分たちの幸せのために、この子は犠牲になるんだ。
サカイはずっと迷っていた。そしてその迷いを「あのひと」に指摘された。
時間はないぞ、とあのひとは言った。
「すみません」
出て、と彼は彼女を促した。何も言わず、彼女は言われるがままに車を降りる。そして手を引かれ、しばらく、雑草の繁る空き地を歩いた。海が見える。空き地もそこで行き止まりだった。切り立った崖。3、4メートル下に、底が見えない少し深い海が見える。大した高さではないが、のぞき込むと、やはり足が震える。
ふ、と風が吹いて、彼女のカーディガンを揺らした。
「逃げるなら今ですよ」
逃げる? その単語は彼女の中に無かった。
もちろん彼女とて死にたくはない。だが、だからと言って、生きて何かしたいというものも何もなかった。
いや違う、したいものは何か、あるのかもしれない。だが、まだ見つけていないのだ。
でもそのために逃げる?
サカイを置いて?
そしてサカイの家族はまためちゃくちゃになって?
事故死させられて?
考えが渦を巻く。ぐるぐるぐるぐる。答のない問いをずっとぐるぐるぐるぐる。
違う。
彼女は思う。
答はあるはずなのに!
「サカイ」
「はい」
「あたしのこと、好き?」
彼は判っていた。だけど。
サカイは、一瞬、彼女を力一杯抱きしめた。白づくめの、本当に、よく似合っているのに。
そして引き離すと、そのまま手を取って、大きめのカッターナイフでその手首を切りつけた。
彼女の目が大きく見開かれる。飛び散る血がワンピースとカーディガンにかかる。そしてもう片方も――― ふらふらと彼女は、痛みからか、ショックからか、判らぬままに、崖の縁へとバランスを崩し―――
コサージュが、飛んだ。
落ちて行く瞬間、一気に画像が頭の中を乱れ飛んだ。色鮮やかに、飛び散るその中で、彼女は、幸せな光景を、見た、と思った。でも、その中には。
これが幸せな光景?
母様母様母様母様母様母様母様母様―――
母親が始めて自分の方を向いた瞬間。母親はその時、この日を決意した。
こんなのは、違う。
よく似た声。あなたの子供だという証拠のように。
だから、居ては困るの?
あなたは、はじめから、子供なんて、欲しくはなかったんだ。
でも、少しでも、可能性があったなら。あたしの方を、見てくれさえすれば。あたしはあなたが邪魔だというなら、消えてもよかった。
でも。
なら、どうしてあなたの手で。
あなた自身が、あたしに、そう言ったなら。
それで、あたしは、充分、幸せに、消えていける、はず、だったのよ。
でも、それすらもしないのなら。
(これは始めて持つ感情なのよ)
あたしは。
あなたを、許せない。
そして、彼女は、その時、生まれて始めて、本当の、声をあげた。
*
サカイは、その時、耳から入るその音に、全身に冷水を浴びたような感触を覚えた。この声は。
足元に、淡い黄色のカーディガンだけが、残された。返り血を浴びて、所々に次第に赤から黒系の色へと変わっていく。
―――さん。
殆ど呼んだことのない彼女の名前をつぶやく。
―――どうかあなたに全ての幸運を!
「……」
「あなたは、頭のいい子でしたから、ある程度、気付いていたかも知れません」
過去形を使わないで。
「何を」
「俺が、あなたの見張り役だったということ」
彼女はうなづいた。
あの母様が、ただの気まぐれだったら、良かったのに。
彼女の悪い方の予感。もしくは推理。ただの、子どもを放り出している母親が、たまに何かしてやろうとする気まぐれ。そうだったら良かったのに。
でも予測はしていた。
母様は、何かしようとしていて、そのためにあたしが邪魔なんだ。
彼女は思う。
母様は、あたしを消去しようとしている。
普通の子は、そういう予測は、しない。
だが、普通の家庭なら、ともかく、彼女の母親は、この目の前にいる男の大切なものを何らかの形で握っているらしい。握れる立場にあるような人物であるということだ。
「何を、あのひとに、握られてるの?」
サカイは視線をゆっくりと彼女に向けた。
「家族です」
家族。彼女には縁が薄いもの。
「どんな人がいるの?」
彼女はふと聞いてみたくなった。
「普通の家族って? サカイが守りたいと思うほど大切なものって?」
「普通だと、思いますよ… 父親がいて母親がいて、弟が二人…… 猫が一匹…… ごくごくありふれた、家族だと、思ってました。今でも、思いたいです。思ってます」
「大切な、ものなの? それって」
「大切です。大切なんです。だれも、誰一人、欠けさせたくないんです。全部揃ってこそ、家族なんです」
そんなにまで大切なものなの? 彼女には判らなかった。
彼女は、父親の顔も知らない。ものごころついたときには、母親とハウスキーパーしかいなかった。母親には聞くことも、できない。母親に聞いたら、…想像停止。ハウスキーパーが知っている訳もない。だいたい彼女は、母親の本当の職すら知らないのだ。
家族どころではない。彼女は自分の名前に実感が無かった。母親はほとんど呼んだことがない。自分は彼女に声を掛けられたことが一体どれだけあっただろうか――― 無かったかもしれない。
そこまで考えが巡った時、ふと、一つの記憶がよみがえる。
あれは、まだ記憶に新しいから、一年以内だったと思う。母親が帰ってきたのも気付かずに、つい、いない時と同様に、そのひどく通る声で、歌っていたとき。大好きな、洋楽の、ロックバンドの。
その時始めて、母親が自分に感情を向けた気がする。
やめなさい。耳に響く。その声は聞きたくない。黙りなさい。
そして声を止めるために、彼女は始めて母親から殴られた。
でもその制止する声は、自分のものとひどくよく似ていた気がする。よく通る声。
ほとんどない記憶の断片は、自分に対する、怒り。それでもそれがある。それだけでも彼女は嬉しかった。
「そして、あたしを、消すの」
「……」
今度はサカイが黙った。彼は黙るしかなかった。
「親父は、あのひとのおかげで助かったんです。あのひとが上層部に掛け合ってくれなかったら、うちは全員、事故死して保険金を差し出さなくてはならなかった。そのくらいの失敗をした親父と、うちの家族を、あのひとは助けてくれた。そしてその代わり、俺を貸してくれ、と言った」
いつになく彼は雄弁になった。いつもの、年齢以上に思わせるような喋りではなく、年相応の、よく学びよく遊んでいる大学生のような。
「親父は嫌な予感がしたらしいけれど」
「サカイはいいと言った?」
彼女が続ける。サカイははい、と答えた。
「どちらにせよ、断る道はなかったんです」
「いつの話?」
「あなたのところへ来る少し前です」
ああ、そうか。
彼女は思考が加速して回転するのを感じていた。感情はもうとっくの昔にその顔から抜け落ちていた。ただ、ここに起こっていることを必死で理解しようとしている理性だけがあった。
「じゃあ、あの時から、もう、母様は、あたしを要らなかったのね」
あの時?
そう言えば、あの歌って、叱られた頃に彼はやってきた。じゃあその頃から。いや違う。要らなかったのは、始めから。
「母様は、最初の間違いを訂正したいの? そうなの?」
「……」
泣きもしない、わめきもしない。ただ淡々と受け答えする彼女を、サカイは本当に可哀そうだと思った。
だが、二人とも助かるという道は無かった。
これが自分一人の問題だったら。
サカイは思う。
この子を連れて逃げてもいい、と思ったこともある。だけど、自分の手には、家族の重みがかかっている。自分は、この家庭で、ずっと、幸せだったから。自分はともかく、幸せな家庭を幸せなままにさせてやりたかったから。自分が欠けて、幸せかどうか、という問いはとりあえず無視した。
自己満足かもしれない。
でもいい、と彼は思った。そんなことをいちいち考えているより、何かしなくては、少なくとも、誰かが幸せになるためには。
そして自分たちの幸せのために、この子は犠牲になるんだ。
サカイはずっと迷っていた。そしてその迷いを「あのひと」に指摘された。
時間はないぞ、とあのひとは言った。
「すみません」
出て、と彼は彼女を促した。何も言わず、彼女は言われるがままに車を降りる。そして手を引かれ、しばらく、雑草の繁る空き地を歩いた。海が見える。空き地もそこで行き止まりだった。切り立った崖。3、4メートル下に、底が見えない少し深い海が見える。大した高さではないが、のぞき込むと、やはり足が震える。
ふ、と風が吹いて、彼女のカーディガンを揺らした。
「逃げるなら今ですよ」
逃げる? その単語は彼女の中に無かった。
もちろん彼女とて死にたくはない。だが、だからと言って、生きて何かしたいというものも何もなかった。
いや違う、したいものは何か、あるのかもしれない。だが、まだ見つけていないのだ。
でもそのために逃げる?
サカイを置いて?
そしてサカイの家族はまためちゃくちゃになって?
事故死させられて?
考えが渦を巻く。ぐるぐるぐるぐる。答のない問いをずっとぐるぐるぐるぐる。
違う。
彼女は思う。
答はあるはずなのに!
「サカイ」
「はい」
「あたしのこと、好き?」
彼は判っていた。だけど。
サカイは、一瞬、彼女を力一杯抱きしめた。白づくめの、本当に、よく似合っているのに。
そして引き離すと、そのまま手を取って、大きめのカッターナイフでその手首を切りつけた。
彼女の目が大きく見開かれる。飛び散る血がワンピースとカーディガンにかかる。そしてもう片方も――― ふらふらと彼女は、痛みからか、ショックからか、判らぬままに、崖の縁へとバランスを崩し―――
コサージュが、飛んだ。
落ちて行く瞬間、一気に画像が頭の中を乱れ飛んだ。色鮮やかに、飛び散るその中で、彼女は、幸せな光景を、見た、と思った。でも、その中には。
これが幸せな光景?
母様母様母様母様母様母様母様母様―――
母親が始めて自分の方を向いた瞬間。母親はその時、この日を決意した。
こんなのは、違う。
よく似た声。あなたの子供だという証拠のように。
だから、居ては困るの?
あなたは、はじめから、子供なんて、欲しくはなかったんだ。
でも、少しでも、可能性があったなら。あたしの方を、見てくれさえすれば。あたしはあなたが邪魔だというなら、消えてもよかった。
でも。
なら、どうしてあなたの手で。
あなた自身が、あたしに、そう言ったなら。
それで、あたしは、充分、幸せに、消えていける、はず、だったのよ。
でも、それすらもしないのなら。
(これは始めて持つ感情なのよ)
あたしは。
あなたを、許せない。
そして、彼女は、その時、生まれて始めて、本当の、声をあげた。
*
サカイは、その時、耳から入るその音に、全身に冷水を浴びたような感触を覚えた。この声は。
足元に、淡い黄色のカーディガンだけが、残された。返り血を浴びて、所々に次第に赤から黒系の色へと変わっていく。
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