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二章
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翌日、朝比奈は約束通り午前9時に北区にある『公立がんセンター』にベージュのカッターシャツに革ジャンにジーパン姿で現れた。
「お待ちしていました」
事前に糸川所長から送られてきていたデータにより朝比奈の姿を発見した如月碧がモスグリーンのセーターにベージュのロングスカートに白衣をまとって出迎えた。
「初めまして朝比奈優作です。今日はお世話になります」
朝比奈は女性の胸に『如月碧』のプレートを確認して頭を下げた。
「こちらこそ、無理を聞いていただきありがとうございます」
如月はお辞儀をすると、フロントへと招き入れた。
「あっ、これ、『イーヨン』といってコーヒーと紅茶をブレンドしてゼラチンで固めたデザートです。よろしければ皆さんで食べて下さい」
大きな紙袋を差し出した。
「気を使っていただきすみません」
朝比奈から受け取った紙袋は随分買い込んだのかずっしりと重かった。
「糸川所長が特別授業を行う予定でしたが、急用で来れなくなってしまい代役になってしまいました。期待されていたのでしょうが、本当に申し訳ないです。それは、お詫びの印です。それと、所長から預かった薬も入れておきますね」
朝比奈はポケットから小袋を取り出して紙袋に入れた。
「ありがとうございます。それでは早速会場にご案内します」
如月は、歩きながらもこれから授業をするというのに、土産の紙袋以外に何も手にしていない朝比奈に違和感を感じていた。
「あの、まず先に言っておきますが、先程代役と言いましたが糸川所長は、どうも人選を間違えたようで、まともな授業ができるとは思えません。あらかじめ覚悟はしておいてください」
如月の横を歩きながら朝比奈が、自分にも言い聞かせるように言葉を発した。
「えっ、覚悟ですか・・・・・」
何を突然言い出すのか、そして何を意味するのか、混乱してどう答えていいのか言葉を失ったその時、朝比奈は大きな欠伸をして慌てて口を塞いだ。
「糸川所長のデータの中には無かったのですが、朝比奈さんはどんな仕事をされているのですか」
話を変えて尋ねた。
「仕事ですか、色々ですね」
これというメインの仕事がない為、何を答えていいのか迷っていた。
「大変なんですね」
貴重な時間を割いて来てもらったと思い緊張が増してきた。
「たまたま空いていましたので、気になさらないでください」
如月の言葉にかえって緊張してきた。
「あの、授業に際しての資料はどうしましょう」
気になっていたことをストレートに聞いてみた。
「今日の特別授業を頼まれたのは昨日でしたので、仕事もあり夜勤明けで準備する時間も無かったし、今日は一般的な事を話すだけですので何とか一時間半は持つと思います」
コンビニの夜勤勤務とは言えず言葉を濁した。
「そっ、そうですか」
如月は、まだ患者の子供たちが来ていない、学校の教室のように机と椅子が並べられ、簡易の黒板が設置された部屋に案内した。
「結構広い部屋なんですね。益々緊張してきました」
言葉とは裏腹、朝比奈にはそんな素振りもなく、初めての経験にドキドキしてどう見ても楽しそうだった。
「もうすぐ子供たちが来ますので、それまでに準備の方をよろしくお願いします。私は早速お土産と糸川所長からいただいた薬を持っていきますので、分からないことがあれば事務の加藤さんに聞いてください」
マイクテストなど会場の準備をしていた女性を呼び寄せて紹介した。
「朝比奈です。よろしくお願いします」
挨拶を済ますと、用意された椅子に腰を下ろして待っていると、扉が開いて子供たちが次々と会場内にノートと筆記用具を持って入ってきた。
ノートに記入してもらえるような授業になればいいけどと、子供達を見ながら朝比奈は呟いていた。
「それでは時間になりましたので、只今から特別授業を始めさせていただきます。教えていただくのは朝比奈優作先生です」
全員揃った時点で、事務の加藤さんがマイクを使って紹介するとパチパチと少しの拍手が返ってきた。
「初めまして、今日はよろしくお願いします」
マイクを使わない朝比奈の言葉に今度は拍手が起こらなかった。
「それでは、まず始めに今回のテーマとして言っておきたいのは、何事にも驚きや疑問を持つということです。簡単に人を信じることなく自分で確かめるということです。僕は、反対に言えば信じるという言葉は、とても重い言葉だと思っているからです。誰かに裏切られた時、人は信じていたのにとよく言葉にしますが、それは自分が考えていない行動をとったからなんです。皆さんが現在受けている教育はとても大切なものだと思います。でもそれが本当に正しいのか自分の目や耳、そして頭を使ってもう一度確認して欲しいのです。何事にも理由があるのだと考えて欲しいのです」
子供たちの顔を見渡しながら語り始めた。
「あの、具体的にいうと、どういうことなのでしょう」
朝比奈の言葉について行けなくて、1人の男の子が手を挙げて発言した。
「そうですね、例えばこの部屋もそうですが、学校の教室も皆さんが座っている左側には窓が、右手側が廊下になっていますよね。小学校からずっとですから、当たり前のように思っていますよね」
手を挙げた男の子に尋ね返した。
「別に違和感は感じないし、そういう設計になっているんじゃないですか」
周りを気にしながら答えた。
「日本人の左利きの割合は約11%で圧倒的に右利きが多いのです。ですから、左側から光が差してくると左利きの人は手による影ができてしまいノートが取りづらくなってしまう。その為、9割の右利きの生徒のことを考慮して、左側が窓で右側が廊下という設計になっているのです」
朝比奈の言葉に自然と感嘆の声が上がった。
「あの、他の国の左利きの割合はどうなっているのでしょう」
興味を持った別の女の子が手を挙げて尋ねた。
「左利きの多い国はオランダ、ニュージーランド、ノルウェーで、それでも15%くらいです。反対に最も少ない国はどこだと思いますか」
手を挙げた女の子に尋ねた。
「わ、分かりません」
ノートに書き込んでいた手を止めて慌てて答えた。
「なんとアメリカで、2%だと言われています」
左の顳かみを叩いて答えた。
「えっ、そんなに違うのですか」
女の子は驚き慌てて、アメリカ、2%と書き込んだ。
「日本も昔は左利きを無理やり右利きに矯正することがあったのですが、アメリカでは子供の成長においてはその行為は心理的ストレスなどの悪影響を及ぼすと考えて、動作によって利き手と分ける『クロスドミナンス』という考え方で、両手利きが多く30%もいるそうです」
時々目にする政治家との答弁とは違い、何も手にしないでスラスラと話す朝比奈に感心しながら色々と熱心にノートに書き込んだ。
「左利きについて付け加えれば、発明家のトーマス・エジソン、アイザック・ニュートン、ビル・ゲイツなどがいて、実際に左利きの人の脳の調査によると、右脳がより発達していることが解り、右脳は空間把握や情報処理をつかさどる機能を持っているから、ある数学の問題を解く実験では易しい問題については右利きと左利きに差は出なかったけれど、難問では明らかに左利きの方が高得点を出したそうです」
その言葉を聞いて子供たちはノートに書き込む他人の利き手を確認した。
「理論的には正しいと思いますが、あくまでも統計上のことです。それよりも、努力すること、特に興味を持つことが重要だと思います。まぁ、余り色々と興味を持つのもどうかとは思いますが、今は基礎の勉強を大切にしてください」
今度は左の顳かみを掻いた。
「先生は他にどんなことに興味を持ったのですか」
今度は前列の女の子が手を挙げた。
「そうですね。例えば、太陽系の惑星をすべて答える人はいますか」
朝比奈の問いに先程手を挙げていた女の子がもう一度勢いよく手を挙げた。
「水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星です」
指を折りながら、自信を持って答えた。
「素晴らしいですね大正解です。でも、僕が子供の頃は、海王星の外に冥王星があると言われていました。その後、公転の周期によっては海王星の内側に来ることもあることが解りましたが、2003年にその冥王星の直径が2300キロで地球の約5分の1で、月の約3500キロよりも小さいと判明し、国際天文学連合は惑星の定義を修正して惑星から外されてしまったという経緯があるのです。時代、時代で定義も考え方も変わってしまうのです」
また左の顳かみを叩いた。
「えっ、そうだったのですか。驚きました」
女の子は感心していた。
「それでは、宇宙に関してもう1つ。夜空に大きく輝く満月なのですが、時期によって大きさが違うように見えます。これは、目の錯覚ではなく、ちゃんと理由があるのです。では、まず地球と月の距離はどれくらいなのか知っている人はいますか」
朝比奈の問いに『38万キロ』という答えが数人から返ってきた。
「僕もそう教わりました。でも、厳密には、月が地球を回る公転の機動は楕円形で、地球に最も近い時は36万キロで、最も離れた時が40万キロなんです。ですから、地球から見る月はその距離によって変わってくるのです」
扉を開けて入ってきた如月はじっと朝比奈の方を見詰める子供たちの異様な雰囲気に驚いた。
「もっと他にないですか」
別の女の子が手を挙げた。
「そうですね。お嬢さんにお尋ねしますが、北極と南極はどちらが寒いと思いますか」
質問をした女の子に尋ね返した。
「ほっ、北極です」
少し考えてから答えた。
「見事な回答で、内心ほっとしました。日本人を含め、北半球で暮らす人にはあなたのように北極と答える人が多いと思います。日本で言えば北海道のイメージがありますし、北半球では北の方が寒いことが常識になっているからです。しかし、正しい回答は南極なんです。平均気温を見ると、北極がマイナス25℃前後であるのに比べて、南極はマイナス50℃にもなるのです。南極の方がはるかに寒いのは、北極近辺には陸地が存在しないけれど、南極周辺には南極大陸という大陸があるからです。そもそも、海水は比熱が大きく月光で温まりにくい代わりに冷めにくい。北極ではその冷めにくい海水が氷の下を流れているうえ、南から暖かいメキシコ湾流が流れ込んでいる為、冬になっても海水温度がそれほど下がらない。それに比べて、陸地は月光によって温まりやすいけれど冷めやすい。そこで、南極大陸は太陽が全く顔を見せない冬を迎えるとどんどん気温が下がって行く。おまけに、ブリザードが吹き荒れるので、体感気温も益々下がっていくのです」
左の顳かみを激しく叩いた。
「すみません。ちなみに、南極大陸以外ではどこの地区が一番寒いのですか」
同じ女の子がそこまでは分からないだろうと手を挙げ尋ねた。
「そうですね。シベリアのオイミヤンコンという村は北極圏の外に位置していますが、マイナス71.2℃という低温を記録したことがあり、人が住む地域としては最も寒い場所とされています。僕は寒いのが苦手ですので、絶対にそんなところには住めませんね」
身を震わせる大袈裟なジェスチャーで答えた。
「もっと、他のことも教えて下さい」
女の子の言葉に皆が頷いた。
「それでは、今度は皆がよく耳にする単位について話したいと思います。テレビの天気予報でよく使われる、ヘクトパスカルという単位なのですが、何を表しているのかその意味を知っていますか」
朝比奈の問いに全員が顔を左右に振った。
「ヘクトパスカルのヘクトは100倍と言う意味で、パスカルはフランスの哲学者パスカルに由来していて、1パスカルは1平方メートルの面積につき、1ニュートンの力が作用する圧力または応力と定義されています。皆さんに分かるように解説すれば、1グラムの物を1センチ動かすことができる力が働くということです」
如月へ視線を向けたが、いとも簡単に避けられた。
「単位のことはよく分かりましたが、先生は何を伝えたいのですか」
興味は湧いたが続きが聞きたかった。
「いい質問ですね。そういう疑問をいつも持ってもらいたいですね。皆さんの机の上に置かれたジュースなのですが、ストローが付いていて飲む時はそのジュースを吸い上げているのだと思っていませんか」
前列の女の子のジュースを指差した。
「そうじゃないんですか」
当たり前の質問に困惑して鼻の上に皺を寄せた。
「でも、それは正確に言えば、ジュースを吸い上げているのではないのです」
そのジュースの器を手に取り目の前にかざした。
「訳がわかりません。ジュースでなければ私たちは何を吸っているのですか」
他の仲間に同意を求めた。
「私たちが吸っているのは、ストローの中に入っている空気なのですよ。その空気を吸うことでストローの中身が真空状態になることで、ジュースが口の中へと入ってくるのです。コップの中ではジュースの表面が常に空気に押されています。まぁ、空気のみならず、地上の全てのものは空気の重さ、つまり気圧を受けているのです。通常、ストローの中にも空気があればコップの中でも、両方の気圧が均衡を保ってジュースが動くことはありません。しかし、ストロー内の空気が無くなると、この均衡が破られコップ内のジュースが空気に押されてストローを通って口の中へと上がってくるのです」
右の人差し指をストローに当てて上へと動かした。
「先程も話しましたが、1ヘクトパスカルは1グラムの物を1センチ動かせるのですから、地表近くの気圧は約1000ヘクトパスカルですので、1000センチつまり10メートルまでは理論上では飲めることになるのです。ただし、ストロー内の空気を全て吸い込むことができればの話ですけど」
持っていたジュースの器をそっと机に戻した。
「そんなことができる人はいないと思いますけど、理論上は可能なんですね、とっても興味が湧きました。もっと、もっと、面白いこと教えてください」
その声に皆が頷いた。
「それではもう1つ、この分子記号は知っていますか」
朝比奈は仮設の黒板にH2Oとチョークで書き込むと前列の男の子が手を挙げて『水』と答えた。
「そう、水の分子構造です。では、水は何度で凍るのでしょう」
その問いに全員が手を挙げ、朝比奈は前列の右端の女の子を指差した。
「0℃です」
彼女は自信を持って答えた。
「確かに、氷は0℃で解けて水になりますが、その逆に全くの不純物の混じらない水は振動を与えないように温度を下げていくと、マイナス15℃くらいまで液体の状態を保ちます。その0℃以下の水を過冷却水と言いますが、ちょっとでも揺らしたり細かなチリのようなものが入るとたちまち凍ってしまいます。僕も子供の頃から水は0℃で凍るものだと信じていましたので、その話を聞いた時には驚きました」
大袈裟に驚いて見せた。
「先生が最初に言った、人に教えてもらったことが必ずしも正しいとは限らない、自分の目や耳そして頭を使って確認することが重要ということですね」
聞きながら女の子が頷いた。
「勿論、先生の教えてくださることが全て間違っている訳ではありません。信じるか信じないかはあなた次第です。もう1つ、今日あなたたちにどうしても伝えたいことがあります。皆さんの中で『笑う門には福来たる』と言う言葉を知っていますか」
今度の問いには誰も反応しなかったので、朝比奈は如月の顔を見た。
「あっ、はい。いつも笑顔が絶えないところには幸せが訪れるということです」
突然の指名に驚きながらも、よく考えて答えた。
「僕もそう教えられてきましたが、これを科学的に説明した人物がいるのです。フランスのルーヴインスタイン博士は辞書の『笑いの心身医学』に笑いはモルヒネに似た鎮痛作用を持つエンドルフィンの分泌を促進し、呼吸による酸素と二酸化炭素の交感を4倍にすると記しています。また、消化管を攪拌して便秘に効果があると同時に、韓機能不全を補う作用も果たすことも確認されています。病気になるとただでさえ塞ぎ込みがちになりますが、明るく笑ってみることが回復への近道になるかもしれません。今のような笑顔で過ごせる毎日が続きますように心からお祈りします。それと最後に皆さんに、1つの言葉を送りたいと思います」
朝比奈は黒板に「What goes around、comes around」と書き込んだ。
「誰か解る人はいますか」
この問いにも誰も手を挙げなかった。
「因果応報ですか」
今度は積極的に如月が答えた。
「そうです。過去の善悪に応じて幸不幸の果報が訪れる。現在の行為に応じて未来の果報が生じるというものです。今は、悪事を働くその報いが必ずやってくると悪い方に使われることが多いのですが、僕は今頑張って正しいことをすれば、素晴らしい未来が待ち受けていると、教えている言葉だと思います。今は苦しいことが多いと思いますが、くじけずに頑張ってください。皆さんには素晴らしい未来が待っていると信じています。今日は付き合ってくれて本当にありがとうごさいました」
朝比奈は深く頭を下げると大きな拍手と共に、子供たちは立ち上がって朝比奈に駆け寄ってきた。
「先生、また来てください」
多くの子供たちが握手を求めてきた。
「お待ちしていました」
事前に糸川所長から送られてきていたデータにより朝比奈の姿を発見した如月碧がモスグリーンのセーターにベージュのロングスカートに白衣をまとって出迎えた。
「初めまして朝比奈優作です。今日はお世話になります」
朝比奈は女性の胸に『如月碧』のプレートを確認して頭を下げた。
「こちらこそ、無理を聞いていただきありがとうございます」
如月はお辞儀をすると、フロントへと招き入れた。
「あっ、これ、『イーヨン』といってコーヒーと紅茶をブレンドしてゼラチンで固めたデザートです。よろしければ皆さんで食べて下さい」
大きな紙袋を差し出した。
「気を使っていただきすみません」
朝比奈から受け取った紙袋は随分買い込んだのかずっしりと重かった。
「糸川所長が特別授業を行う予定でしたが、急用で来れなくなってしまい代役になってしまいました。期待されていたのでしょうが、本当に申し訳ないです。それは、お詫びの印です。それと、所長から預かった薬も入れておきますね」
朝比奈はポケットから小袋を取り出して紙袋に入れた。
「ありがとうございます。それでは早速会場にご案内します」
如月は、歩きながらもこれから授業をするというのに、土産の紙袋以外に何も手にしていない朝比奈に違和感を感じていた。
「あの、まず先に言っておきますが、先程代役と言いましたが糸川所長は、どうも人選を間違えたようで、まともな授業ができるとは思えません。あらかじめ覚悟はしておいてください」
如月の横を歩きながら朝比奈が、自分にも言い聞かせるように言葉を発した。
「えっ、覚悟ですか・・・・・」
何を突然言い出すのか、そして何を意味するのか、混乱してどう答えていいのか言葉を失ったその時、朝比奈は大きな欠伸をして慌てて口を塞いだ。
「糸川所長のデータの中には無かったのですが、朝比奈さんはどんな仕事をされているのですか」
話を変えて尋ねた。
「仕事ですか、色々ですね」
これというメインの仕事がない為、何を答えていいのか迷っていた。
「大変なんですね」
貴重な時間を割いて来てもらったと思い緊張が増してきた。
「たまたま空いていましたので、気になさらないでください」
如月の言葉にかえって緊張してきた。
「あの、授業に際しての資料はどうしましょう」
気になっていたことをストレートに聞いてみた。
「今日の特別授業を頼まれたのは昨日でしたので、仕事もあり夜勤明けで準備する時間も無かったし、今日は一般的な事を話すだけですので何とか一時間半は持つと思います」
コンビニの夜勤勤務とは言えず言葉を濁した。
「そっ、そうですか」
如月は、まだ患者の子供たちが来ていない、学校の教室のように机と椅子が並べられ、簡易の黒板が設置された部屋に案内した。
「結構広い部屋なんですね。益々緊張してきました」
言葉とは裏腹、朝比奈にはそんな素振りもなく、初めての経験にドキドキしてどう見ても楽しそうだった。
「もうすぐ子供たちが来ますので、それまでに準備の方をよろしくお願いします。私は早速お土産と糸川所長からいただいた薬を持っていきますので、分からないことがあれば事務の加藤さんに聞いてください」
マイクテストなど会場の準備をしていた女性を呼び寄せて紹介した。
「朝比奈です。よろしくお願いします」
挨拶を済ますと、用意された椅子に腰を下ろして待っていると、扉が開いて子供たちが次々と会場内にノートと筆記用具を持って入ってきた。
ノートに記入してもらえるような授業になればいいけどと、子供達を見ながら朝比奈は呟いていた。
「それでは時間になりましたので、只今から特別授業を始めさせていただきます。教えていただくのは朝比奈優作先生です」
全員揃った時点で、事務の加藤さんがマイクを使って紹介するとパチパチと少しの拍手が返ってきた。
「初めまして、今日はよろしくお願いします」
マイクを使わない朝比奈の言葉に今度は拍手が起こらなかった。
「それでは、まず始めに今回のテーマとして言っておきたいのは、何事にも驚きや疑問を持つということです。簡単に人を信じることなく自分で確かめるということです。僕は、反対に言えば信じるという言葉は、とても重い言葉だと思っているからです。誰かに裏切られた時、人は信じていたのにとよく言葉にしますが、それは自分が考えていない行動をとったからなんです。皆さんが現在受けている教育はとても大切なものだと思います。でもそれが本当に正しいのか自分の目や耳、そして頭を使ってもう一度確認して欲しいのです。何事にも理由があるのだと考えて欲しいのです」
子供たちの顔を見渡しながら語り始めた。
「あの、具体的にいうと、どういうことなのでしょう」
朝比奈の言葉について行けなくて、1人の男の子が手を挙げて発言した。
「そうですね、例えばこの部屋もそうですが、学校の教室も皆さんが座っている左側には窓が、右手側が廊下になっていますよね。小学校からずっとですから、当たり前のように思っていますよね」
手を挙げた男の子に尋ね返した。
「別に違和感は感じないし、そういう設計になっているんじゃないですか」
周りを気にしながら答えた。
「日本人の左利きの割合は約11%で圧倒的に右利きが多いのです。ですから、左側から光が差してくると左利きの人は手による影ができてしまいノートが取りづらくなってしまう。その為、9割の右利きの生徒のことを考慮して、左側が窓で右側が廊下という設計になっているのです」
朝比奈の言葉に自然と感嘆の声が上がった。
「あの、他の国の左利きの割合はどうなっているのでしょう」
興味を持った別の女の子が手を挙げて尋ねた。
「左利きの多い国はオランダ、ニュージーランド、ノルウェーで、それでも15%くらいです。反対に最も少ない国はどこだと思いますか」
手を挙げた女の子に尋ねた。
「わ、分かりません」
ノートに書き込んでいた手を止めて慌てて答えた。
「なんとアメリカで、2%だと言われています」
左の顳かみを叩いて答えた。
「えっ、そんなに違うのですか」
女の子は驚き慌てて、アメリカ、2%と書き込んだ。
「日本も昔は左利きを無理やり右利きに矯正することがあったのですが、アメリカでは子供の成長においてはその行為は心理的ストレスなどの悪影響を及ぼすと考えて、動作によって利き手と分ける『クロスドミナンス』という考え方で、両手利きが多く30%もいるそうです」
時々目にする政治家との答弁とは違い、何も手にしないでスラスラと話す朝比奈に感心しながら色々と熱心にノートに書き込んだ。
「左利きについて付け加えれば、発明家のトーマス・エジソン、アイザック・ニュートン、ビル・ゲイツなどがいて、実際に左利きの人の脳の調査によると、右脳がより発達していることが解り、右脳は空間把握や情報処理をつかさどる機能を持っているから、ある数学の問題を解く実験では易しい問題については右利きと左利きに差は出なかったけれど、難問では明らかに左利きの方が高得点を出したそうです」
その言葉を聞いて子供たちはノートに書き込む他人の利き手を確認した。
「理論的には正しいと思いますが、あくまでも統計上のことです。それよりも、努力すること、特に興味を持つことが重要だと思います。まぁ、余り色々と興味を持つのもどうかとは思いますが、今は基礎の勉強を大切にしてください」
今度は左の顳かみを掻いた。
「先生は他にどんなことに興味を持ったのですか」
今度は前列の女の子が手を挙げた。
「そうですね。例えば、太陽系の惑星をすべて答える人はいますか」
朝比奈の問いに先程手を挙げていた女の子がもう一度勢いよく手を挙げた。
「水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星です」
指を折りながら、自信を持って答えた。
「素晴らしいですね大正解です。でも、僕が子供の頃は、海王星の外に冥王星があると言われていました。その後、公転の周期によっては海王星の内側に来ることもあることが解りましたが、2003年にその冥王星の直径が2300キロで地球の約5分の1で、月の約3500キロよりも小さいと判明し、国際天文学連合は惑星の定義を修正して惑星から外されてしまったという経緯があるのです。時代、時代で定義も考え方も変わってしまうのです」
また左の顳かみを叩いた。
「えっ、そうだったのですか。驚きました」
女の子は感心していた。
「それでは、宇宙に関してもう1つ。夜空に大きく輝く満月なのですが、時期によって大きさが違うように見えます。これは、目の錯覚ではなく、ちゃんと理由があるのです。では、まず地球と月の距離はどれくらいなのか知っている人はいますか」
朝比奈の問いに『38万キロ』という答えが数人から返ってきた。
「僕もそう教わりました。でも、厳密には、月が地球を回る公転の機動は楕円形で、地球に最も近い時は36万キロで、最も離れた時が40万キロなんです。ですから、地球から見る月はその距離によって変わってくるのです」
扉を開けて入ってきた如月はじっと朝比奈の方を見詰める子供たちの異様な雰囲気に驚いた。
「もっと他にないですか」
別の女の子が手を挙げた。
「そうですね。お嬢さんにお尋ねしますが、北極と南極はどちらが寒いと思いますか」
質問をした女の子に尋ね返した。
「ほっ、北極です」
少し考えてから答えた。
「見事な回答で、内心ほっとしました。日本人を含め、北半球で暮らす人にはあなたのように北極と答える人が多いと思います。日本で言えば北海道のイメージがありますし、北半球では北の方が寒いことが常識になっているからです。しかし、正しい回答は南極なんです。平均気温を見ると、北極がマイナス25℃前後であるのに比べて、南極はマイナス50℃にもなるのです。南極の方がはるかに寒いのは、北極近辺には陸地が存在しないけれど、南極周辺には南極大陸という大陸があるからです。そもそも、海水は比熱が大きく月光で温まりにくい代わりに冷めにくい。北極ではその冷めにくい海水が氷の下を流れているうえ、南から暖かいメキシコ湾流が流れ込んでいる為、冬になっても海水温度がそれほど下がらない。それに比べて、陸地は月光によって温まりやすいけれど冷めやすい。そこで、南極大陸は太陽が全く顔を見せない冬を迎えるとどんどん気温が下がって行く。おまけに、ブリザードが吹き荒れるので、体感気温も益々下がっていくのです」
左の顳かみを激しく叩いた。
「すみません。ちなみに、南極大陸以外ではどこの地区が一番寒いのですか」
同じ女の子がそこまでは分からないだろうと手を挙げ尋ねた。
「そうですね。シベリアのオイミヤンコンという村は北極圏の外に位置していますが、マイナス71.2℃という低温を記録したことがあり、人が住む地域としては最も寒い場所とされています。僕は寒いのが苦手ですので、絶対にそんなところには住めませんね」
身を震わせる大袈裟なジェスチャーで答えた。
「もっと、他のことも教えて下さい」
女の子の言葉に皆が頷いた。
「それでは、今度は皆がよく耳にする単位について話したいと思います。テレビの天気予報でよく使われる、ヘクトパスカルという単位なのですが、何を表しているのかその意味を知っていますか」
朝比奈の問いに全員が顔を左右に振った。
「ヘクトパスカルのヘクトは100倍と言う意味で、パスカルはフランスの哲学者パスカルに由来していて、1パスカルは1平方メートルの面積につき、1ニュートンの力が作用する圧力または応力と定義されています。皆さんに分かるように解説すれば、1グラムの物を1センチ動かすことができる力が働くということです」
如月へ視線を向けたが、いとも簡単に避けられた。
「単位のことはよく分かりましたが、先生は何を伝えたいのですか」
興味は湧いたが続きが聞きたかった。
「いい質問ですね。そういう疑問をいつも持ってもらいたいですね。皆さんの机の上に置かれたジュースなのですが、ストローが付いていて飲む時はそのジュースを吸い上げているのだと思っていませんか」
前列の女の子のジュースを指差した。
「そうじゃないんですか」
当たり前の質問に困惑して鼻の上に皺を寄せた。
「でも、それは正確に言えば、ジュースを吸い上げているのではないのです」
そのジュースの器を手に取り目の前にかざした。
「訳がわかりません。ジュースでなければ私たちは何を吸っているのですか」
他の仲間に同意を求めた。
「私たちが吸っているのは、ストローの中に入っている空気なのですよ。その空気を吸うことでストローの中身が真空状態になることで、ジュースが口の中へと入ってくるのです。コップの中ではジュースの表面が常に空気に押されています。まぁ、空気のみならず、地上の全てのものは空気の重さ、つまり気圧を受けているのです。通常、ストローの中にも空気があればコップの中でも、両方の気圧が均衡を保ってジュースが動くことはありません。しかし、ストロー内の空気が無くなると、この均衡が破られコップ内のジュースが空気に押されてストローを通って口の中へと上がってくるのです」
右の人差し指をストローに当てて上へと動かした。
「先程も話しましたが、1ヘクトパスカルは1グラムの物を1センチ動かせるのですから、地表近くの気圧は約1000ヘクトパスカルですので、1000センチつまり10メートルまでは理論上では飲めることになるのです。ただし、ストロー内の空気を全て吸い込むことができればの話ですけど」
持っていたジュースの器をそっと机に戻した。
「そんなことができる人はいないと思いますけど、理論上は可能なんですね、とっても興味が湧きました。もっと、もっと、面白いこと教えてください」
その声に皆が頷いた。
「それではもう1つ、この分子記号は知っていますか」
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「そう、水の分子構造です。では、水は何度で凍るのでしょう」
その問いに全員が手を挙げ、朝比奈は前列の右端の女の子を指差した。
「0℃です」
彼女は自信を持って答えた。
「確かに、氷は0℃で解けて水になりますが、その逆に全くの不純物の混じらない水は振動を与えないように温度を下げていくと、マイナス15℃くらいまで液体の状態を保ちます。その0℃以下の水を過冷却水と言いますが、ちょっとでも揺らしたり細かなチリのようなものが入るとたちまち凍ってしまいます。僕も子供の頃から水は0℃で凍るものだと信じていましたので、その話を聞いた時には驚きました」
大袈裟に驚いて見せた。
「先生が最初に言った、人に教えてもらったことが必ずしも正しいとは限らない、自分の目や耳そして頭を使って確認することが重要ということですね」
聞きながら女の子が頷いた。
「勿論、先生の教えてくださることが全て間違っている訳ではありません。信じるか信じないかはあなた次第です。もう1つ、今日あなたたちにどうしても伝えたいことがあります。皆さんの中で『笑う門には福来たる』と言う言葉を知っていますか」
今度の問いには誰も反応しなかったので、朝比奈は如月の顔を見た。
「あっ、はい。いつも笑顔が絶えないところには幸せが訪れるということです」
突然の指名に驚きながらも、よく考えて答えた。
「僕もそう教えられてきましたが、これを科学的に説明した人物がいるのです。フランスのルーヴインスタイン博士は辞書の『笑いの心身医学』に笑いはモルヒネに似た鎮痛作用を持つエンドルフィンの分泌を促進し、呼吸による酸素と二酸化炭素の交感を4倍にすると記しています。また、消化管を攪拌して便秘に効果があると同時に、韓機能不全を補う作用も果たすことも確認されています。病気になるとただでさえ塞ぎ込みがちになりますが、明るく笑ってみることが回復への近道になるかもしれません。今のような笑顔で過ごせる毎日が続きますように心からお祈りします。それと最後に皆さんに、1つの言葉を送りたいと思います」
朝比奈は黒板に「What goes around、comes around」と書き込んだ。
「誰か解る人はいますか」
この問いにも誰も手を挙げなかった。
「因果応報ですか」
今度は積極的に如月が答えた。
「そうです。過去の善悪に応じて幸不幸の果報が訪れる。現在の行為に応じて未来の果報が生じるというものです。今は、悪事を働くその報いが必ずやってくると悪い方に使われることが多いのですが、僕は今頑張って正しいことをすれば、素晴らしい未来が待ち受けていると、教えている言葉だと思います。今は苦しいことが多いと思いますが、くじけずに頑張ってください。皆さんには素晴らしい未来が待っていると信じています。今日は付き合ってくれて本当にありがとうごさいました」
朝比奈は深く頭を下げると大きな拍手と共に、子供たちは立ち上がって朝比奈に駆け寄ってきた。
「先生、また来てください」
多くの子供たちが握手を求めてきた。
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