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夜会準備
しおりを挟む謁見室を出たあとの回廊はひどく静かだった。
並んで歩いているはずなのに足音が重ならないのは、私が無意識に歩調を合わせているからだろうか。
「終わったな」
先に口を開いたのは、リヒトだった。
「はい」
それだけで会話は途切れる。不思議と気まずさはない。むしろ余韻がまだ空気に残っている。
「父は」
少し間を置いて、リヒトが続ける。
「気に入った相手には、妙に距離が近い」
「そ、れは喜んでいいのかどうか……」
あの質問を思い出して、思わず視線を逸らす。
「慣れておけ」
淡々とした声。
「これからも、ああいう場は増える」
“これからも”。
その言葉が、胸にすとんと落ちた。
それからだ。
王宮の中で確かに空気が変わったのは。
まず外廷に行くことが許された。
そして婚約者として認められたからか、初めて会うにもかかわらず、外廷の侍女たちの対応は内廷の侍女たち並に丁寧であり、一礼もほんの少し深い。
通り過ぎる騎士たちの視線は、値踏みではなく確認に変わった。
ーーあの子が殿下の隣に立つ人間か。
そう見られているのがはっきり分かる。
気づけば、私はもう“客人”として扱われてはいなかった。
「お疲れではありませんか、リズ様」
「何かご不便があれば、すぐに」
その一つ一つが、この国に迎え入れられたという証のようで。
「すごいな」
「何がだ」
「世界が変わるのって」
たまたま用事が重なったリヒトと一緒に、外廷を歩きながらそう呟く。そして少し考えてから、言葉を続けた。
「こんなに静かなんですね」
リヒトは一瞬だけ考えるような間を置いてから、答えた。
「変わったのは世界じゃない」
「?」
「お前の立つ場所だ」
そう言われて何も返せなくなる。
確かにそこに居ていいという証だった。
そんなある日の午後。
正式な招待状が、私の部屋に届いた。
王宮主催の夜会。開催は一ヶ月後。
出席者の欄にははっきりと書かれている。
――第一王子婚約者同伴。
「これって」
思わず声に出すと、いつの間にか部屋に来ていたリヒトが答えた。
「誕生日のときに話していただろう」
「王宮の、パーティー……」
「お披露目も兼ねている」
淡々とした説明。
「嫌なら断る。だが、婚約者として最初に出る場としては悪くない」
胸が少しだけ高鳴った。
逃げるための夜会じゃない。示すための場所だ。
ここにいること。ここに立つこと。
「出ます」
そう答えるとリヒトは小さく頷いた。
「なら、準備が必要だな」
「はい」
その一言で、すべてが決まった。
数日前まで、帰るかどうかを悩んでいた私が、今は“隣に立つ”ことを前提に、未来を考えている。
静かに、確実に。
私の居場所は、もうここになっていた。
夜会までは本当に一瞬だった。
朝から晩まで、予定は隙間なく詰め込まれる。
ダンスの練習。
基本のステップ、立ち位置、間合い。
「覚えが早いな」
リヒトにそう言われて、少しだけ誇らしくなるけれど、細かい部分はすべて本番までのお楽しみだ。
テーブルマナーの再確認。
器の扱い、視線の置き方、会話の切り上げ方。
今まで曖昧だった部分が、「王宮仕様」として整理されていく。
ドレスの最終調整。誕生日のときに贈られた、私の瞳と同じサファイアブルーのドレス。
可愛らしすぎず、けれど子どもらしさは失わない。
夜会の灯りに映えるよう細部が丁寧に整えられた。
「これなら大丈夫です」
エマの一言に、ようやく息をつく。
同時に、貴族社会の重要人物の確認。
この人は味方。
この人は中立。
この人は――注意。
名前と顔、立場と関係性が頭の中で静かに整理されていく。
気づけば、「夜会に出る準備」ではなく、「婚約者として立つ準備」をしていた。
そして迎えた当日。
鏡に映る私は、誕生日のときよりもほんの少しだけ背筋が伸びて見えた。
鏡の前に立つ自分はまだ小さい。
背丈は殿下の隣に立てば、ちょうど腰あたりまでしかない。
それでも。
その事実を、今は不思議と感じさせない装いだった。
栗色の髪は両側をゆるく編み込み、後ろでひとつにまとめられている。きっちりではなく、あくまで柔らかく。いくつか残された房が、首元や肩先にかかる。
動くたび、仕上げに塗られたワックスが光を含み、きらきらと淡く反射して髪全体をやわらかく輝かせた。
「……」
思わず、指先でそっと触れる。
いつもの自分の髪なのに、少しだけ違う。
顔を上げると、サファイアブルーの瞳が鏡越しにこちらを見る。視線は自然とドレスへ落ちた。
誕生日のときに贈られた、瞳の色と同じサファイアブルーのドレス。
深すぎず、淡すぎない色合いは、灯りの下で静かに映えるよう計算されている。
胸元は控えめで、刺繍も最小限。けれど近くで見れば、繊細な糸が丁寧に施されているのが分かる。
ウエストから広がるスカートは軽やかで、歩けば空気を含むように揺れるだろう。
裾は少しだけ短めに調整されていて、子どもであることを無理に隠さない。
夜会用に整えられたことで、幼さは残したまま、でも子どもすぎない印象になっていた。
「……」
ドレスに袖を通した自分を見て、胸の奥が静かに高鳴る。これは、飾り立てるための服じゃない。
“隣に立つ”ための装いだ。
「とても、お似合いです」
エマの声に、はっとして視線を上げる。
「ありがとう」
小さく息を吐く。
背は伸びたわけじゃない。
体も、急に大人になったわけじゃない。
それでも。
今の私は、この装いと一緒に前に進もうとしている。
しばらくすると扉が静かに開く。
そこに立っていたのは、リヒト殿下だった。
白銀の髪は、夜会用に整えられている。
襟足はやや長めのまま残され、全体をふわりと流すようにまとめられていた。
きっちりしすぎていない。けれど無造作とも違う。
動くたび、銀が柔らかく光を含み視線を引き寄せる。
淡い琥珀の瞳が、こちらを見る。
夜会用の正装は、深い夜色を基調にしたもの。
黒に近い色合いだが、完全な黒ではなく、灯りの下でわずかに表情を変える布地。
襟元と肩口には、細い銀糸の刺繍。主張は控えめなのに、近くで見ると一目で“格”が分かる。
そして、耳元。
左耳に添えられたのは、琥珀をあしらったイヤーカフ。小ぶりで装飾も少ない。それなのに、妙に目を引く。宝石の色は、殿下の瞳と同じ琥珀色だった。
……かっこいい。
そんな言葉が、心の中で浮かぶ。
普段は「氷の王子」と呼ばれる人なのに、今は冷たさよりも静かで大人びた雰囲気が際立っている。
「……」
私が言葉を失っている間、リヒトもまたこちらを見たまま一瞬動きを止めていた。
視線が髪へ。ドレスへ。そして私の顔へ。
ほんの一瞬。けれど確かに呼吸がわずかに遅れた。
「似合っているな」
低く、落ち着いた声。
「ありがとうございます」
そう答えながらも、胸が静かに騒ぐ。
「殿下も……」
言葉を選んでから、続ける。
「とても、お似合いです」
琥珀色の瞳が、ほんのわずかに細められた。
「そうか」
短い返事。
けれど、その声音には確かな満足が滲んでいた。
「行くぞ」
差し出された腕。
私は一瞬だけ迷ってから、その腕にそっと手を添えた。体格差は埋まらない。それでも。
今夜はそれを理由に、引かれる側ではない。
並んで、歩く。
王宮の灯りの向こうに、二人で立つ場所が待っている
。夜会はもう始まっていた。
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