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【漆】
しおりを挟む「…おい、起きろ」
そんな低く野太い声と、頬をぴしぴし張られている感触とに、促がされるようにして私は目を開いた。
ぼんやりとした視界の中、いやに地面が近く映る。
それで気付けば、どうやら私は、何の敷物も無い地べたに寝かされているようだった。頬の片側に、砂利らしき硬い石の感触と冷たさが、じわりじわりと広がってくる。
なぜ自分がこのようなことになっているのかワケが分からないまま身体を起こそうとするも、ほんの少しの身動ぎで全身が軋むように鈍く痛み、思わず「う…」と呻き声が口から洩れる。
それで私が目を覚ましたことに気付いたのだろう、「お、起きたか」と、先ほどの野太い声が再び聞こえた。
「手間とらせやがって。これだからお邸勤めの女房サマは。軟弱でならねえな」
「だ、れ……?」
訊いた途端、ぐいと襟首を掴み上げられた。
そうやって無理矢理に身体を起こされた目の前には、下卑た笑いを湛える髭面の男。
泥と垢に塗れた風体を目の当たりにし、ぞっとして即座に鳥肌が全身を伝った。
怖かった。ただ怖いとしか思えなかった。
自分と同じ人間であることは分かるものの……それは初めて見る人間だったから。
――地下の平民。
そういう者が居ることは知っている。今日も市を巡った時に沢山そういった者を目にしたもの。
だが、宮中の、特に最奥部である後宮なんかに籠もって暮らしている以上、出会うことなど決して無い者たちだ。
それが、いま私の前に居る。あろうことか私の胸ぐらを掴み上げて。
初めて見るものに対する恐れ、そんなものとは比べ物にならないほどの確固とした恐怖が、今の私を満たしていた。
なぜなら、この目の前にいる者は明らかに、“ただの平民”なんかじゃ持ち得るはずもない、粗暴で剣呑な雰囲気を宿していたのだから―――!
「大声を立てるんじゃねえぞ」
言いながら目の前の男は、おもむろに私の首筋に冷たい何かを押し当てた。
――それは、鈍く光る懐刀の刃。
「喉、カッ捌かれたくなけりゃあな」
そうしている間も、その口許には終始薄ら笑いが浮かんでいる。まるで怯える私の様子を見て楽しんでいるかのように。
「大人しく訊かれたことにだけ答えろ、いいな?」
恐怖で強張る身体を何とか動かし、首を縦に振ってみせる。
頷くには少々小刻みに過ぎてはいたが、それでも肯定の意は相手に伝わってくれたようだった。
途端、掴まれていた襟元を振り払われる。
驚いて叫ぶ間も無く、投げ飛ばされた私は、そのまま地面へと叩き付けられた。
そして気付く。――この場所が、元いた河原ではないことに。
目の前に川の流れが見えることから、同じ鴨川の河原であることには違いはないだろうけれど……しかし、良政と共に居た場所じゃない。
陽の光が届かない、暗い場所にいる。
ここは、おそらく―――。
浮かんだ考えを裏付けるかのように、頭の上をガタガタとした音が通り過ぎていった。
視線を上げれば、まるで屋根のように天を遮るものがある。――橋だ。
今のは、おそらく牛車か荷車が渡っていく音だろう。それに紛れて、歩く人の足音も聞こえてくる。そして、地面に投げ出された私の背に当たるのは、橋脚の木材。
ここは、鴨川に架けられたどこかの橋のたもと、なのだろう。
そして私は思い出した。自分がどうしてここに居るのか。
――車を手配しに良政が去って一人になったところを襲われ、連れ去られたのだ。
おそらく背後から忍び寄ってきた者に、頭から袋のようなものでも被せられたのだろう。
ふいに暗く閉ざされた視界に驚き、何とかして被せられたものを除こうと暴れる私の腹に、突然どすっとした重く鈍い痛みが走り、息が詰まった。
次第に薄れゆく意識の向こう、まるで荷物の如く乱暴なまでに自分の身体が何者かに担ぎ上げられた感触を覚えた……ような記憶が、ウッスラと頭のスミに残っている。
つまり……そうやって気絶した私をここまで連れてきたのが、目の前にいるこの男、ということになるのだろう。
地面に転がった私の傍らに膝を突き、改めて再び懐刀の刃を押し付けると。
「さあ、答えてもらおうか」
相変わらずの薄ら笑いを絶やさずに、男は言った。
「おまえが仕えている邸はどこだ?」
「仕えている……? 邸……?」
「ああ、そうだ。誰の邸に仕えているんだ?」
「別に誰にも仕えてなんか……」
「おっと、シラを切っても無駄だぜ。おまえ、女房だろう? 見たとこ、まださほど年齢もいってねえだろうに、その上等な身なりだ。さぞや名のある貴族にでも仕えてるんだろうなあ?」
ぴたぴたと、乾いた音を立てて白刃が頬を叩く。
「サッサと言えよ。若い身空で、まだ死にたかねえだろう?」
「私、は……!」
震える唇が、我知らず言葉を紡ごうとする。
「私は、宮中の……!」
「――宮中だとォ!?」
しかし、男は私の言葉を皆まで聞かなかった。チッと舌打するや否や、「使えねえ」と吐き捨てる。
「あそこはダメだ」
まさに興を殺がれたとばかりに突き付けていた刃を引っ込め、肩を竦めた。
「いくらなんでも、あんな警備がウジャウジャいるトコにゃ手は出せねえな」
「『手は…』、って……?」
――じゃあ、宮中じゃなかったら…どこかの貴族の邸だったら、『手を出す』つもりだった、ってことなの……?
よぎったその不穏な思考を読み取ったかのように、男はニヤリと笑って、それを告げる。
「貴族の邸に忍び込むには、そこに仕えてるヤツに手引きさせるっつー方法が一番ラクなんだよ」
やっぱり……! ――この男、強盗だったんだ……!
途端、一気にザーッと全身の血の気が引いた。
そういえば今、貴族の邸宅を狙った強盗が京で横行している、という話を、噂か何かで聞いたことがあったっけ。
確かに、警備の私兵を多数雇っている上流貴族の邸には、押し入ることはおろか、忍び込むことすら容易ではないだろうが。しかし、内部を知っている者にさえ手引きをさせれば、それはいとも容易く成し得るに違いない。
私は、そのために攫われたんだ。
しかし、この男は私が宮中で仕える女房だと思っている。宮中なんていう、警備が過剰なまでに万全な場所へ押し入れる強盗など、確かにいやしないだろう。
そのうえ、私が宮中の女房である以上、他のどこの邸へも手引きなんて出来ない、ということになると……、
――つまり私は、この男にとって何の役にも立たない存在、でしかない。
「とんだ骨折り損だぜ」
男のその呟きに、いよいよ血の気も引いてくる。
利用価値が無い私は、一体どうなるというのか……考えるまでもない、先ほど脅された言葉の通り、その懐刀で喉をカッ捌かれることになる可能性大。
いや増す恐怖に、このまま再び気絶してしまいそうだ。
「――いや、そうでもねえよ」
そこで聞こえてきた、知らない声。
やはり低くて野太くて、だけど目の前にいる男とは明らかに別人の声、だった。
ハッとして、反射的に声が聞こえてきた方へと視線が向く。
すると、もうひとり別の男が、この場にいた。
目の前の男の身体に隠れていた所為で、声が発されるまで気付かなかったのだ。
人相は違えど、しかしその二人の風体は似通っていた。
間違いなく強盗仲間だろう。
いきなり姿を現したもう一人の男を、目の前の男は振り返って「兄者」と呼んだ。――てことは、兄弟? なの……?
その『兄者』と呼ばれた男は、そのまま転がった私のもとへと歩み寄ってくると、じろじろと不躾なまでの視線で、穴が開くほど私を眺め回した。
そして言う。
「見れば見るほど……こいつは稀に見る上玉だぜ。さぞかし高く売れるだろうさ」
――『売れる』……? って、それ一体どういうこと……?
意味が分からずキョトンとした私を他所に、「なるほど!」と、弟らしき男の方も立ち上がり、意を得たとばかりに手を打った。
「さすが、兄者の考えることは違うぜ! そうだよな、コイツも使い道あるじゃねえか!」
「ああ、宮中勤めの女房なんて、そうそう転がってるモンじゃねえ。ましてや、これほどの別嬪なら尚更だ。誰だって喉から手が出るホド欲しがるに違いねえぜ」
そして今度は、二人そろって私を見下ろす。
とりあえず、自分がこの場で殺されるようなことはなさそうだ、ということだけは察したものの……だが、その代わりに何をされるのかが、全くもって分からない。
「安心しろよ」
戸惑う私をからかうかのように、『兄者』の方が言葉を投げる。
「俺らは、そこまで人でなしじゃねえからな。出来るだけ優しいご主人様を探してやるよ。――とはいっても、囲われの慰み者にゃ変わらねえだろうが」
――『囲われ』……? で、『慰み者』……?
その言葉を聞いて、ようやく何かに思い当たる。
「ちょっと田舎に行きゃあ、雅な女に飢えた金持ちがワンサカいるからな。せいぜい可愛がってもらいな」
「京の華やかさは恋しいだろうが、すぐに慣れるだろ。〈住めば都〉って言うじゃねえか」
――ちょっと待て……?
二人の会話を聞けば聞くほど……思い当たった何かがハッキリと形を持ってくる。
ひょっとして、私……このままだと、『ちょっと田舎』の『雅な女に飢えた金持ち』に『囲われの慰み者』にされるハメになる、――ってこと……?
―――いやーーーーッッ!! そんなの絶対ヤダーーーーッッ!!
内心では大絶叫してるのに、唇は戦慄いているだけで、言葉なんて一つも出てきてくれない。
出てこない言葉の代わり、ふいに涙が溢れてきた。
ぶるぶる首を横に振って“いやだ”という意志表示をするも、男たちは二人とも揃って、ただただ薄ら笑いを浮かべながら私を見下ろすだけ。
――助けて、お願い……!!
必死で目で訴えているのに、それさえも面白がっているような雰囲気。
「…驚いたな、俺たちは運がいい」
やおら『兄者』の方が、感心したような呟きを洩らした。
「とんだ拾い物をしたもんだ。――見れば見るほど……こりゃあ堪らねえ」
その場で膝を突くや、私の髪を掴んで乱暴に上を向かせる。
「こんな泥で薄汚れたグチャグチャの泣き顔にまでゾクゾクくらあ」
その太く硬い指が、涙に濡れた頬をザラリと撫でた。
「まだ年端もいってねえガキのクセに……泣き顔だけで男を誘ってくるなんざ、こいつは天性の淫売だ」
言いながら、やおら乱暴に私の襟首を掴む。
掴んだや否や、そのまま私の身体を軽く突き飛ばすと、肩を掴んで背後の橋脚へと押し付けた。
仰向かされた視界を塞ぐように、私を見下ろして男が覆い被さってくる。
――助けて……!! お願いだから、助けて……!!
どんなに心で助けを求めても……私を押さえ付けているその力は緩まない。
私の言葉は、ここにいる男たちには何一つ届かない。
あまりの恐怖に強張る全身は、されるがままで、何一つ抵抗らしい抵抗さえ出来ない。
――助けて……!! 誰でもいいから、お願い、助けて……!!
お願い、神様、仏様。神仏に続くのは、父、母、姉、弟、奈津に乳母に義兄に祖父……身近な親しい者の顔が順番に脳裏に浮かんできては消えてゆく。
そして最後に浮かんできたのは……私が最も信頼を寄せる殿方の姿。
私のことを『好き』だと言ってくれた、ついさっきまで一緒にいた彼の優しい微笑みが浮かんできて……痛いくらいに私の胸を締め付ける。
――誰よりも今いちばん、あなたに、会いたい。
結ばれることは叶わなくても、私が右大臣家に降嫁しさえすれば、またいつでも会えるだろうと思っていたのに……それが、結ばれることもなく、会うことすらもできなくなる、なんて。
――そんな別れ方なんて嫌よ! 絶対に嫌!
私はまだ何も、あのひとのことを知らないの。もっと彼を知りたいの。
――お願い、助けて……!! もう一度だけでいい、あのひとに会わせて……!!
「この先どれほどの手練手管に長けた女に成長するものか、末恐ろしいったらないぜ。しかも見たとこ、まだ生娘だろうにな」
舌なめずりをしながら私に視線を落としたままで、「なあ兄弟?」と、背後に立つ弟へ、おもむろに男は声を投げた。
「こりゃあ味見も楽しみってもんだ。売っ払う前に俺たちも、いい思いさせてもらうとしようぜ」
――しかし、それに応える声は聞こえてこず。
代わりに「うぐッ」という短い呻き声と、ドサリと重い何かが砂利の上に倒れる音が、順番に聞こえてきた。
「どうした兄弟―――」
訝しげに振り返った兄の声が、不自然に途中で途切れた。
目の前を塞ぐ男の身体の向こう、弟である者の身体が、私からも見えた。――倒れ伏し横たわっている姿で。
その背には、大きく赤い筋が光っている。
溢れ出し弧を描いてひたひたと流れ滴る赤い液体……もしかして、あれは、血……?
「野郎ッ……! よくも……!」
その声にハッとして前に視線を戻すと、――まさにその瞬間だった。
突如として私の目の前に突き出された、緋に濡れる鋭い刃の切っ先―――!
それは、私の目の前を塞いでいた男の身体から、ズブリと突き出ていた。
そう、文字通り“身体から突き出ていた”のだ。
血に染まり鈍色に光を湛える太刀の刀身が、男の身体を腹から背に貫いていた。
私の目と鼻の先に突き出された、それの切っ先……そこからポタリと、緋の雫が落ちる。
「――汚らわしい手で姫に触れるな」
そして聞こえてきたのは、覚えのある声。――私が切に求めていた人の声。
「ひ、め……だとォ……?」
目の前の男が、その言葉に、緩慢な動きで私を振り返ろうとする。
注がれた驚愕に見開かれた瞳が、再び私へと焦点を結ぶ。――と同時。
「姫を攫った罪、のみならず、陵辱せしめんと企てた罪。それら己が死をもってさえ償えぬものと心得よ」
途端、男を貫いていた刃が引き抜かれ、と共に、ざくっという重く鈍い音が、耳に響いた。
パッと、一瞬のうちに目の前を鮮やかなまでの緋に染める、大量の血飛沫が迸る。
「地獄で閻魔に赦しを請え」
そんな声と共に、ゆっくりと男の身体が傾いでゆき……やがて砂利の上へと音を立てて斃れ伏した。そのままピクリとも動かない。
一連の光景を追っていた私の目が、それを認めてようやく、どこまでものろのろとした動きでもって元の位置へと視線を戻していく。
「――ご無事ですか、雪姫?」
眼前を遮っていた障害物がなくなって、私の目は、目の前に広がる景色を映し出した。
そこで初めて、天を遮られたこの場にも、僅かながらだが朱色の光が差し込んでいることに気が付く。
橋の下から見通した向こうに、夕日が沈んだばかりらしき西の空が見えた。夕焼けの名残とばかり、鮮やかな朱色で山際の雲が染められている。
その朱光の残滓を背負って、そこに何者かが立っていた。
「お怪我などされてはおりませんか?」
気遣わしげにそれを尋ねた、刀身を染める血を払い落とすかのような仕草で無造作に太刀を振り下ろす一人の男が、そこに、居た。
全身に返り血を浴びて赤く染め上げられた、私が最も会いたいと願っていた、切に待ち望んでいた、恋しい殿方の姿があった。
私を『雪姫』と呼んでくれる男性など、たった一人。
まぎれもない、良政だった。
その彼の姿、が、いま、そこ、に―――。
――これは、なに……? 一体、何が起こっているの……?
認めたなり、瞬時にして一切の音が消えた。
何も聞こえなくなった。
川の流れのせせらぎも、その向こうで微かに聞こえていた雑踏も、橋の木材が軋む音も。――ましてや、目の前に立つ者の言葉さえも。
緋に染まった良政が、何か言葉を掛けているのだけが分かった。
私に向かい、唇が『姫』という言葉の形に動く。――その、瞬間。
その唇は、まさに出そうとした言葉を息と共に飲み込んでしまったかのように、引き結ばれて閉ざされた。
と同時、ビクッと小さく一つ肩を震わせ、こちらへ歩み寄るべく踏み出そうとしていた足が止まり、その場に縫い止められたかのように動かなくなった。
彼のその二つの瞳は一杯に見開かれ、まるで表情ごと凍り付いてしまったかのごとく、ただただ私の上に注がれるばかり。
――どうしたの……? 一体、何に驚いているの……?
問いかけようとして、言葉を発せられない自分に気付く。
フと我に返れば、音の無い世界の中、どこか遠くの方から女人のものらしき甲高い絶叫が聞こえてきたような気がした。
それが、今まさに自分が発している声なのだ、と……気付いた途端、意識が飛んだ。
暗闇に覆われゆきつつある視界の向こう、呆然としたようにこちらを見下ろしていた良政の、血に全身を染めて屹立する、その姿に。
殺されるかもしれない以上の恐怖を、なぜか私は、感じていた。
――ああ、これは夜叉か羅刹か……たとえようもなく美しい鬼がいる。ここに。
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