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【捌】
しおりを挟むビクッと全身が弾ね上げられたような衝撃で、反射的にパッと両目が見開かれた。
見開いた両目が映したのは、見慣れた天井の木目。――ってことは、ここは麗景殿ね。もはや住み慣れた住まいの、そして寝所、それに、やはり使い慣れた帳台と夜具。
「――ああ、夢を見ていたのね私……」
寝覚めたてでボンヤリとしたままながら、安堵の呟きが洩れる。
そう……今の今まで、きっと恐ろしい夢を見ていた。それで驚いて目が覚めたんだ。
だって心臓が、こんなにもどくどくと大きく早鐘を打っている。
でも、全ては夢だったのだ。こうやって私が夜具に包まれて帳台に横たわっているのが、その証拠。
なら何も怖いことなんて無いわ、このままもう一眠りして、さっさと忘れてしまおう―――。
そして私が再び目を閉ざそうとした、――まさにその時。
「――まあ、雪さま! お目覚めになられたんですね!」
そんな言葉が聞こえてきた方を振り返ると、水を張った桶を手に奈津が、珍しく今にも泣き出さんばかりの喜色満面な笑みを湛え、そこに立っていた。
女房たる者、主人に気を遣わせてしまうようなことがあってはお終い、とばかりに、普段から私に気を遣って二人きりの時でさえ感情を表に出すまいと心がけている有能な彼女なのに。こんなにも嬉しさを顕わにしているなんて、本当に珍しい。
のみならず、常にしずしずと足音を忍ばせて歩く彼女が、桶の水を溢さんばかりの勢いで走り寄ってくるとは。
…まだ夢でも見てるのかしら私?
「良かったですわ。もうこの二日ばかり、わたくしまで生きた心地がしませんでしたもの」
「え……?」
――『この二日ばかり』……? それって一体、どういうこと……?
「ご気分はいかがですか? どこか痛むところなどございましたら、すぐにおっしゃってくださいね」
枕元に跪いた彼女に尋ねようとしたが、たたみかけるように繋がれた言葉に、機を失して黙り込んだ。
「ああ、そういえばお腹も空いてますでしょう? 今、粥など用意させますわ。一昨日から何も食べていらっしゃらなかったのですから、嫌でも少しは食べて、栄養を摂らなければなりませんよ」
――ひょっとして……私、まさか二日も眠っていたの……?
何が何やら分からず、聞くだに頭が混乱してくる。
一体、私に何があったというのだろう?
とりあえず身体を起こしてみる。――なるほど、確かに少々身体が重いかもしれない。気だるい感じもする。
これは、二日も眠ってた、ってのも嘘じゃないかもしれない。
「ね…ねえ、奈津? 私、一体どうして―――」
とりあえず、まだ寝ぼけた頭をムリヤリ回転させて、状況を把握するべく、立ち上がりかけた彼女を引き止めつつ尋ねんとした。
――まさにそれと同時だった。
おもむろに、何かどたどたと荒々しい足音がコッチへ近付いてくるなあ? と思った矢先。
ふいにバタンと、寝所の妻戸が大きく音を立てて開かれる。
そこに息せき切らせて立っていたのは……今や承香殿に御座します中宮たる母上の姿―――。
――だから一体、これってどういうことなのよ……?
「ま…まあ、母上! 麗景殿にお渡りでいらっしゃったなんて……それに、そんなにまでお急ぎになられて……一体、どうなさいました、の?」
ワケも分からないまま、とりあえずお愛想程度には笑みを浮かべて、そう躊躇いがちに呼びかけてみたところ。
途端、キッと眉をつり上げたと思ったら母上は、そのまま不調法なまでにズカズカ足音も荒くこちらへと歩み寄って来、そのまま起き上がった私の前で立ち止まると凄まじい形相でコチラを見下ろしての仁王立ち。
――な…、なんかイヤな予感……?
覚ったや否や、案の定、額に青筋が浮かぶホドに怒り心頭に達したらしい母上が大音声で一喝する。
「こンの…、―――大馬鹿娘ーーーーッッッ!!」
そして脳天に振り下ろされた容赦のカケラもないゲンコツにより、私は再び夜具の中へと突っ伏すハメとなったのでアル―――。
*
「まったく今度という今度は、つくっづく! そなたには呆れ返りました!」
一段高い場所で小さくなって畏まった私を、なのに見下すように一瞥すると母上は。
手にした檜扇をぱしぱし音が立つホド乱暴に弄びながら、表情に浮かぶお怒りを隠そうともせず、明らかに苛立たしげな口調でもって、それを言った。
「着裳も済んで、ようやく大人らしゅう淑やかになってきたと思っていたら……」
そして、おもむろにフーッと、深々としたタメ息。に加え、指でこめかみを押さえてまでいらっしゃる。
――やばい、これ相ー当ー怒ってるよー……!
この上なく高貴な女人たる“中宮”などというお立場からは全く想像もつかないホド強烈きわまりない母上のゲンコツにより、なかば強制的に夢うつつの状態から現実にキッパリ引き戻されてきた私は。
とりあえず床から起き上がらされるや否や、まず『そこに直らっしゃい!』と帳台の上で居ずまいのみ正され、そのまま正面に座した母上により、懇々とお説教を食らうハメとなっている。
しかも、そんな母上のすぐ背後には、母上腹心の女房であり私の乳母でもある奈津の母君――頭命婦も、まさに隙なく、控えている。
二人とも、臥せっていた私を案じてくれたゆえに、昨晩のうちより麗景殿へお渡りくださっていたのだそうだ。
私が一向に目を覚ます気配が無いので、寝所から隣の居室に移られお待ちいただいていたところに、奈津の喜びに溢れた『お目覚めになられたんですね!』が聞こえてき、それで即座に引き返してきてくれたらしい。
そうやって慌てて引き返してきてみれば、心配かけられた当の娘にケロッとしたカオで『なんでココにいるの?』なんてことを訊かれた日には……そりゃー怒るに決まってるわよ。ゲンコツだって出すわよ、うん。
しかし、仮にも中宮たる母上が、あんなにも殿舎中に響き渡るくらいな大声で一喝されたというのに、誰一人として麗景殿の女房が飛んで来なかったところからして……あらかじめ命婦の采配でガッツリ人払い済みだったようだ。――そりゃ付き合いの長いことだものね、母上のご気性なんて疾うにお見通しだろうから?
それに加えて奈津も奈津で、この場を命婦に委ねたものか、『姫さまのお支度の準備をしてまいります』とだけ言い残し、サッサとどこかへ消えてしまった。そのまま、いつまでたっても戻ってこない。
やはり“支度の準備”なんてのは口実だろう。あの奈津が、“準備”ごときにこんなに手間取るハズがないんだから。
大方のとこ、この件について他の女房たちの不審を招くことの無いよう後始末でも付けに行ったのだろう。いや、絶対そうに違いない。
だって、中宮と頭命婦、なんていう、畏れ多くも承香殿の要たるお二人が、どちらか片方だけならともかく、共に揃って他所へお渡りになる、なんてことは、今や滅多にあっていいことじゃないのだもの。
それを不審がられた所為で、私が臥せっていたことが“それほどまでの重病”だからだ、なんて風評が立ってしまったら困るし、ヘタしたら帝たる父上までが動くハメになって更に大事になっちゃうし。
まったく、親子そろってホント抜かりない有能な女房だったらないわ。嬉しくて涙が出ちゃうわよ。
おかげで私は、何一つとして邪魔の入らない、まさに〈親子水入らず〉って状態で、――こういう事態に陥っているんだから。
「ほんに……昔から、そなたの男子顔負けの御転婆ぶりには、サンザン手を焼かされてきたものでしたけれど……」
タメ息混じりに母上が頭を抱えつつ呟けば。
実際、まさに“その通り!”としか言いようがなく何も返せる言葉の無い私は、ただただ身体を小さく縮こませて畏まるしか出来やしない。
だが、そうして縮こまりながら母上のお説教を聞いているうちに、今の私にも、だんだんとこの状況が把握できつつあった。
――つまり、夢なんかじゃなかったんだ。
「まさか、ここまで馬鹿げた振る舞いをするなんて……! あろうことか、この御所から一人抜け出そうなどと……!」
――そう、すべて現実のこと、だったんだ……。
順を追って思い出す。
奈津が熱を出して臥せってしまったこと、私が麗景殿から抜け出したこと、良政に出会ったこと、そして二人で共に京へ出たこと―――。
どうやら今は、その当日から翌々日の、ちょうど二日目を迎えた朝、であるらしかった。
その日の夜のうちに人目を憚りヒッソリと麗景殿へ連れ戻されてきた私は、そのまま丸々一昼夜、昏々と眠り続けていたらしい。
「聞いた時は、驚くより先に肝を冷やしましたよ! 一体、そなたは何を考えてるんです! なんて危険きわまりない真似を……!」
「まったくですわ。姫さまは、京の治安がどれほどのものかご存知ないがゆえに、そのようなお振る舞いをなされたのでしょうけれど。とはいえ本来ならば、世間知らずの姫君が一人でノコノコ出かけて無事に済む道理など、全くございませんのですよ? ただでさえ、立て続く盗賊騒ぎで混乱している最中だというのに……」
「その通りです! まさに盗賊騒ぎの対応に追われてご心痛を重ねていらっしゃる帝のご懸念の種を、なのにその娘が率先して増やして如何しますの!」
――ハイ…それはもう、身に沁みて実感いたしましたわよ、スッゴク……。
盗賊野党の横行する昨今の京の現状に、どれだけ私の身を案じていてくれたのか……それがヒシヒシと伝わってくる二人の母のお説教には、ますます返せる言葉も無い。
それくらい、これはものすごく幸運なことなのだ。
私は、その幸運に与ることが出来たからこそ、今こうして、ここに居る。麗景殿で目覚め、こうして二人の母に囲まれ、お説教を聞いてもいられる。
この幸運をもたらしてくれたのは、ひとえに良政と出会えたこと。それに尽きるだろう。
実際、一人になったところを攫われたワケだし。――と考えると、人の溢れた京を歩いている間ずっと供に付き従ってくれていた彼が、いかに私から目を離さず影から護り続けてくれていたのか……それが分かる。分かってしまう。痛いくらいに。
血を流して人が殺されゆくところを、初めて目の当たりにした―――。
思い出されるたび、背筋が凍り、震えが走る。
きっと、あれが今の京の現状なのだ。――簡単に人が死に、また殺されるのも当然、という日常。
世間には、貧しさを厭わず、飢えにも嘆かず、生きてゆくために身を粉にして働く日々を受け入れる善良な者も、もちろん大勢いることだろう。
だが、それを良しとせず、生き馬の目を抜くように生き、他人から搾取することを糧とする者も、当然のことながら大勢いるのだ。
おそらく今の京は、後者である者どもが我がもの顔で闊歩する、まさに地獄にも似た無法の地となっているに違いない。
そのような場所にあって、彼がいなかったら、今の私は無かった。
それに、私を麗景殿まで連れ戻してくれたことだって……、
「本当に……! 運良く三位中将に保護していただけなかったら、今頃そなたは、一体どんな目に遭っていることか……!」
母上と命婦の言によると、気を失った私を保護し宮中まで連れ帰ってきてくれたのは、三位中将――私の結婚相手として内々に決まっている相手、その当人、なのだという。
中将が密かに、麗景殿の奈津と承香殿の命婦、それぞれに使いを寄越し、私が抜け出したことを余人に覚られぬよう便宜を図った上で、ここまで私を運び入れてくれたのだそうだ。
だが、それを聞いても、当の私は何も覚えがない。中将と会った覚えすらカケラも無い。
ならば全ての事は、私が気を失っている間に進んでいたのだろう。
だとしたら、つまり……良政が三位中将へ事情を話して私の保護を頼んでくれた、ということに、なるのではないだろうか―――。
やっぱり彼は右大臣家の家人だったのだ。
しかも若君たる中将とは、たとえば乳兄弟であるとか、そういうよっぽど近しい間柄であるに違いない。
でなければ、その日の夜のうち、なんて早々に私が宮中まで帰ってこれてるハズもないじゃない。
だって考えてもみてよ? どこの世界に、“当今の皇女が京で賊に襲われていたところを助けたから保護してあげてくれ”などと言われて、そのまま鵜呑みに信じる者が居るだろうか。
…しかし、それを信じてくれる人物がいたからこそ、今ここに私が居られるワケであり。
…それを信じてくれた人物こそ、三位中将、なワケであって。
…だから良政は、それほどに中将の信頼を得ている人物である、ということに、なるワケよね?
また中将は、私を『助けた』のではなく、あくまで『見つけた』のだと、母上たちに告げたらしい。『一人京で彷徨っておられたところに行き会い、保護した』のだと。
母上たちの心痛を慮ってくれてのことなのだろう。良政から聞いていないはずはないだろうに、私が賊に攫われかけたことは一切、明かしてもいないようだった。
のみならず、私自身に対してまで何やら気遣いを回してくれたらしく、『何事か思い詰めた余り出家など発念されたのやもしれませぬ。どうかあまりお叱りにならずに、まず姫宮さまのお話など聞いてさしあげてください』とまで、言ってくれたのだそうな。
――さすが当代一のプレイボーイ、言うことにもソツが無いったら。
噂に聞こえる『人妻転ばし』の二つ名も、これは確かに伊達じゃあないわね。
だって、この優しさと気遣いに満ち溢れた彼のお言葉で、一気に母上たちの心証はグッと急上昇してくれちゃったらしく。
それからしばらくの間、やれ礼儀正しいだの真面目だの誠実だの何だかんだと、三位中将がどれほど素晴らしい若公達であったのかを延々と…まさに耳にタコでも出来ちゃいそうなほどに延々とッ! 聞かされるハメになったのだもの。
挙句、「あんなに良い殿方との縁組が叶って姫は幸せ者ね」「ほんに安心いたしましたわ」なんて、まだしてもいない結婚にまで話が飛び火する始末。
――もーカンベンしてよー……! せっかくお説教から逃れられたと思ったのに、これじゃ全く意味ないじゃん。
また加えて、せっかく中将が『出家』なんていう禁句を出してまで私の軽率な行動を庇ってくれたというのにも拘わらず。
庇いとった当の相手の母二人は、私が出家するまで思い詰めていた、なんて、ハナッからカケラも信じてくれちゃいないようだった。…だからこそ、あそこまで情け容赦も無くゲンコツ振り下ろして叱り付けてお説教まで、してくれたのでしょうし?
二人が余りにも「やれ中将が」「これ中将が」とウルサイものだから、ここらで話を切り上げるべく、「お二人とも、出家を決意するまで思い詰めていたわたくしのことなど、どうでもよろしいのですわね!」と、ちょっとだけ不貞腐れた風で唇を尖らせて言ってみた途端。
まさに電光石火の即答で返された。しかも、ものっすごい形相で。
「出家を考えるほど思い詰めて家出した娘が、『夕刻までには戻ってくるね♪』なんていうのほほんとした書き置きを残していくハズが無いでしょうッッ!!」
どうやら……残した書き置きは、奈津より先に命婦が見つけてしまったようである―――。
つーワケで、結果、母上たちの怒りを自らでブリ返してしまった手前。
頃合を見計らった奈津が朝餉の粥を携えて戻ってくるまで、再び火が付いたお叱りとお説教の数々を黙ってこの身に受け止めているしか出来ないようなハメとなったのだった。
シミジミ実感。――〈自ら撒いた種〉とは、まさにこういうことなのね……。
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