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第3章 安寧
第22話 名前
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「陛下……本当に大丈夫ですか? 後宮を抜け出したりなんかして」
いつもよりやけに早い時間に馨佳殿を訪れるなと思ったら、夕餉の後に陛下が「後宮を抜け出して夜の散歩に行こう」だなんて言い始めた。
私たちが初めて出会ったのも青龍川のほとりだったことを考えれば、こうしてお忍びで都に出て来るのは日常茶飯事なのだろう。
どこから見ても高そうな服と、凛々しく力強いオーラを身に纏う陛下は、高貴な身分であることを全く隠せていない。
しかし、まさかこんな皇都のど真ん中を皇帝陛下が闊歩しているなんて誰も思うまい。あれだけ開き直って堂々と歩いているのだから尚更だ。
道の両側に並ぶ出店を楽しそうに眺めている陛下を見ていると、私の方が心配し過ぎているように思えてくる。
(バレないものなんだなあ。命を狙われたって不思議じゃないほど無防備だけど)
「待ってください!へい……か……なんて呼んだら駄目だよね」
「明凛。確かにそう呼ばれるのは困るな」
「あっ……そうですよね。では、翔永様とお呼びしますか?」
「そうしてくれ」
初対面の時に陛下が名乗った『翔永』という名前を私が呼ぶと、陛下は私の肩を片手で抱き寄せて歩き始める。
「あの灯華祭の日、明凛は天燈が空に飛ぶのを見られなかったんじゃないか?」
「え? ああ……そうですね。あの時は翔永様から逃げることしか考えていませんでしたから」
「私を川に突き落して、一目散に走って逃げるものだから驚いたよ」
皇帝陛下を川に突き落したという、私の人生最大の失態。
それを思い出して青ざめる私を見て、陛下はくっくっと笑う。
あの時もう少しだけ翔永様に会うのが遅ければ、夜空にいっぱいの天燈が舞う光景を見られただろう。
ついでに、陛下と玉蘭様の出会いのシーンも。
「だから、今日は明凛に天燈を贈ろうと思ったんだ。少し季節外れだが……ほら、これなんかどうだ。美しい柄だろう」
出店の前に並べられた天燈の中から、陛下が一つ手にとって私に見せる。白色の紙でできた天燈の端には、青龍の絵が描かれている。
「こんな美しい青龍……空に飛ばしてしまうのが勿体ないほどですね」
「それでは、後宮に持って帰るか?」
「翔永様! こんなもの持って帰ったら、こっそり皇都に遊びに来たことがバレてしまいますよ! 商儀さんに見つかったら絶対に怒られます。それに、私に贈り物なんて恐れ多いですよ……」
遠慮する私に向かって、陛下は拗ねたような顔で言う。
「せっかく夫婦二人だけの時間なのに、他の男の名前を口にしないでくれ」
「ちょっ……! 夫婦ってなんですか! 私たちは、主人と雇われお毒見役という関係ですよ」
「明凛は冷たいな。ちなみに商儀も私たちについて来ている。少し離れたところで護衛をしてくれているよ」
陛下の目線の先を見ると、遠くで商儀様らしき人が建物の横にすっと隠れるのが見えた。
(そりゃ、皇帝を一人で外に出すわけないよね)
納得して陛下の顔を見上げた私の頭をポンポンと優しく撫で、陛下は青龍の天燈と、もう一つ別の天燈を手に取った。
出店の店主に代金を払うと、陛下は私の手を取って歩き始める。
向かったのは、近くの河原。
そこには小さな机が置いてあり、その上に墨と筆が用意されている。
「灯華祭の季節じゃないのに、随分用意の良いお店ですね」
青龍国の灯華祭では、天燈に故人の名前を書いて飛ばす習わしがある。亡くなった家族や恋人、大切な人の来世での幸せを願うためだ。
先ほどの出店の店主が、そのための墨と筆を予め河原に準備しているのだろう。
机の上に天燈を乗せ、陛下がさらさらと筆を走らせる。
陛下のお母様である楊淑妃様のお名前だろうか、『楊翠珠』という名が見えた。
(私もお母様のお名前を書きたいのに、お母様の名前も顔も覚えていないのよね)
お父様はお嫡母様に遠慮していたのか、私に母のことを語ることでかえって辛い思いをさせると思ったのか、母に関することを殆ど教えてくれなかった。
ただ、私が幼い頃に亡くなったとだけ。
そして母の死をきっかけに、私を黄家に引き取ったそうだ。
少し迷った結果、私は『母』とだけ書いた。
ちらっと陛下の方を見ると、楊淑妃様のお名前の横に、もう一人別の人の名前を書いている。
少し首を伸ばして覗いてみると、そこには思いもかけぬ名前が書いてあった。
(曹琥珀……。まさか、あの琥珀様じゃないわよね?)
いつもよりやけに早い時間に馨佳殿を訪れるなと思ったら、夕餉の後に陛下が「後宮を抜け出して夜の散歩に行こう」だなんて言い始めた。
私たちが初めて出会ったのも青龍川のほとりだったことを考えれば、こうしてお忍びで都に出て来るのは日常茶飯事なのだろう。
どこから見ても高そうな服と、凛々しく力強いオーラを身に纏う陛下は、高貴な身分であることを全く隠せていない。
しかし、まさかこんな皇都のど真ん中を皇帝陛下が闊歩しているなんて誰も思うまい。あれだけ開き直って堂々と歩いているのだから尚更だ。
道の両側に並ぶ出店を楽しそうに眺めている陛下を見ていると、私の方が心配し過ぎているように思えてくる。
(バレないものなんだなあ。命を狙われたって不思議じゃないほど無防備だけど)
「待ってください!へい……か……なんて呼んだら駄目だよね」
「明凛。確かにそう呼ばれるのは困るな」
「あっ……そうですよね。では、翔永様とお呼びしますか?」
「そうしてくれ」
初対面の時に陛下が名乗った『翔永』という名前を私が呼ぶと、陛下は私の肩を片手で抱き寄せて歩き始める。
「あの灯華祭の日、明凛は天燈が空に飛ぶのを見られなかったんじゃないか?」
「え? ああ……そうですね。あの時は翔永様から逃げることしか考えていませんでしたから」
「私を川に突き落して、一目散に走って逃げるものだから驚いたよ」
皇帝陛下を川に突き落したという、私の人生最大の失態。
それを思い出して青ざめる私を見て、陛下はくっくっと笑う。
あの時もう少しだけ翔永様に会うのが遅ければ、夜空にいっぱいの天燈が舞う光景を見られただろう。
ついでに、陛下と玉蘭様の出会いのシーンも。
「だから、今日は明凛に天燈を贈ろうと思ったんだ。少し季節外れだが……ほら、これなんかどうだ。美しい柄だろう」
出店の前に並べられた天燈の中から、陛下が一つ手にとって私に見せる。白色の紙でできた天燈の端には、青龍の絵が描かれている。
「こんな美しい青龍……空に飛ばしてしまうのが勿体ないほどですね」
「それでは、後宮に持って帰るか?」
「翔永様! こんなもの持って帰ったら、こっそり皇都に遊びに来たことがバレてしまいますよ! 商儀さんに見つかったら絶対に怒られます。それに、私に贈り物なんて恐れ多いですよ……」
遠慮する私に向かって、陛下は拗ねたような顔で言う。
「せっかく夫婦二人だけの時間なのに、他の男の名前を口にしないでくれ」
「ちょっ……! 夫婦ってなんですか! 私たちは、主人と雇われお毒見役という関係ですよ」
「明凛は冷たいな。ちなみに商儀も私たちについて来ている。少し離れたところで護衛をしてくれているよ」
陛下の目線の先を見ると、遠くで商儀様らしき人が建物の横にすっと隠れるのが見えた。
(そりゃ、皇帝を一人で外に出すわけないよね)
納得して陛下の顔を見上げた私の頭をポンポンと優しく撫で、陛下は青龍の天燈と、もう一つ別の天燈を手に取った。
出店の店主に代金を払うと、陛下は私の手を取って歩き始める。
向かったのは、近くの河原。
そこには小さな机が置いてあり、その上に墨と筆が用意されている。
「灯華祭の季節じゃないのに、随分用意の良いお店ですね」
青龍国の灯華祭では、天燈に故人の名前を書いて飛ばす習わしがある。亡くなった家族や恋人、大切な人の来世での幸せを願うためだ。
先ほどの出店の店主が、そのための墨と筆を予め河原に準備しているのだろう。
机の上に天燈を乗せ、陛下がさらさらと筆を走らせる。
陛下のお母様である楊淑妃様のお名前だろうか、『楊翠珠』という名が見えた。
(私もお母様のお名前を書きたいのに、お母様の名前も顔も覚えていないのよね)
お父様はお嫡母様に遠慮していたのか、私に母のことを語ることでかえって辛い思いをさせると思ったのか、母に関することを殆ど教えてくれなかった。
ただ、私が幼い頃に亡くなったとだけ。
そして母の死をきっかけに、私を黄家に引き取ったそうだ。
少し迷った結果、私は『母』とだけ書いた。
ちらっと陛下の方を見ると、楊淑妃様のお名前の横に、もう一人別の人の名前を書いている。
少し首を伸ばして覗いてみると、そこには思いもかけぬ名前が書いてあった。
(曹琥珀……。まさか、あの琥珀様じゃないわよね?)
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