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第6章 記憶

第50話 琥珀の夢②

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 長い夢から覚めて、私はゆっくりと目を開けた。
 その瞬間に飛び込んで来た光から思わず目を逸らし、一体ここがどこなのかと周りを確かめる。

(馨佳殿じゃないわよね。かなり質素な天井だけど、どこかで見たことがある気がする)

 まだ夢の中にいるのかと心配になり、念のために自分の手を確認してみる。が、視界に入ったのは子供の頃の小さな手ではなく、ちゃんと今の私の手のようだ。
 安心して寝牀に手をパタリと落とすのと同時に、私のいる部屋の扉が開いた。


「明凛?起きたか?」
「……曹先生?」


 入ってきたのは、曹侯遠先生だった。

(そう言われてみれば、ここは曹家の天井だわ)

 幼い頃から何度も曹家に通っていたのだから、見覚えがあって当然だ。

 曹先生は水の入った桶で手巾を濡らして絞ると、私の顔に優しく当てる。
 先ほどの夢の中では若い頃の姿だった先生も、あれから十五年も経って随分と皺も増え、頭に白いものも増えている。
 十五年という長い間、私の本当の父親だと名乗り出ることもなく、近くでずっと支えて見守ってくれたのだと思うと、こうして曹先生と顔を合わせるだけでじんわりと涙が滲んできた。


「大丈夫か、明凛。心配したんだぞ。あの商儀のやつめ……明凛を危険な目に遭わせないと約束したにも関わらず……!」
「先生、私は大丈夫です。商儀さんは何も悪くないですよ。それより、どうして私はここに? もしかして、後宮を追い出されてしまったのでしょうか」


 不安な気持ちを隠すように、私は涙を拭きながらわざと明るく先生に尋ねてみる。

 清翠殿で楊淑妃様の無実の証拠を見つけ、いよいよこれからが正念場だと思っていた。せっかく蔡雨月様の協力も取り付けたのだから、今こそ公の場で十五年前の事実をつまびらかにすべきだ。
 そんな重要な局面で、なぜ私だけ後宮を出されたのだろう。

 それに、先ほど見た夢の中で私はハッキリと思い出したのだ。

 私が本当は曹明凛そうめいりんで、曹先生の実の娘であること。
 幼い頃から青永翔せいえいしょう様を慕い、彼を庇って大怪我をしたこと。

 幽鬼となった陶妃様に命を救われたことは先生とお父様だけの秘密で、陛下には知らされていなかったのだろう。
 だから陛下は自分のせいで私を死なせてしまったと思い込み、その後悔からご自分の命を軽んじられるようになってしまった。

 十五年もの時が経った今になっても『琥珀』という名前を寝言でつぶやくほどに、陛下は心に深い傷を負ってしまったのだ。

 曹琥珀が生きていることを伝えれば、陛下の心を救えるかもしれない。このまま陛下と二度と会えないなんて絶対に嫌だ。


「明凛。お前は後宮で体調を崩して倒れたようだ。商儀がそのままこちらにひっそりと連れて来たよ。しばらくここで休んでいくといい。これからのことはまた考えよう」
「私はまた、後宮に戻れますか?」
「無理に戻らなくてもいいんだよ。そもそも毒見係なんて危険な仕事をお前が担う筋合いはない。こうして後宮を出られたのも何かの縁だ。黄家には戻りづらいだろうから、これからしばらく私と一緒にここに住んでもいい」


 曹先生はそう言って優しく微笑む。
 傍に座った先生のゴツゴツした手に、私はそっと手を伸ばした。武道を極め、剣術にも長けた先生の、マメだらけの手に。


「曹先生。私、思い出したんですよ」
「……何を? 何を思い出したんだ、明凛」
「幽鬼に食べられてしまった私の記憶が、戻ったんです」


 驚いた曹先生は手を滑らせて、持っていた手巾を床に落とした。


「明凛、それは……まさか……!」
「私は黄明凛ではありませんよね。お母様が亡くなったから黄家に庶子として引き取られたと聞いていましたが、初めから黄家に私のお母様なんていなかったんですね」
「そんなことが……だから花鈿が消えたのか……」
「私は、曹琥珀。先生の娘ですよね?」


 曹先生は目にいっぱいの涙を湛え、口を押さえて俯く。私は体を起こすと、静かに嗚咽する先生の顔を覗き込んで言った。


「先生は私の本当のお父様、ですよね?」
「……もう二度と思い出してもらえないと思っていた。私のことは忘れてしまっても琥珀の命が助かるならば、新しい人生が送れるならばと思ったんだ」
「幽鬼と取り引きしたこと、きっと先生は……いいえ、はずっと気に病んでらっしゃったのではないですか? でも私はこうして全て思い出しました。それにお父様がずっと私の傍で見守って下さっていたこと、本当に感謝しています」
「どうしても琥珀の近くにいたくて、官職をやめて隠居したんだ。でもまさかこうして、記憶を取り戻してくれる日がくるとは……!」


 私たちはお互いに、声を上げて泣きながら抱き合う。

 小説の世界に転生したことを思い出してからと言うもの、黄明凛としての人生が何となく自分のものではないような気がしていた。
 だけど私にもこうして、この世界に大切な家族がいた。こんなにも愛してくれるお父様が。

 私はお父様の背に回した腕に、改めて力を入れる。お父様は何度も私の本当の名前を呼びながら、私の肩に顔を埋めて泣いた。


「お父様。私が本当は曹琥珀だから、陛下のお毒見役をするのに反対したのですか? 陛下の近くには行かない方が良いと?」
「もしもあの日、陛下の命を狙った者にお前の存在を気付かれたらと心配になってね。だから陛下には近付かない方が良いと思ったんだ。陛下は後宮には足を踏み入れないと聞いていたから」
「私を陛下から遠ざけて、黄家のお義姉様たちからも守るには、後宮入りするのがむしろ安全だと思ったのね」
「そうだ。しかし、それでも運命というものはあるのだな。お前はこうして記憶を取り戻したし、陛下とも再会してしまった」


 お父様は鼻をすすりながら、私をもう一度寝牀に横たわらせる。

 私が陛下と再会したのは、『運命』というほどのものではないかもしれない。陛下が最終的に結ばれるのは私ではなく鄭玉蘭様であり、私はただのモブ後宮妃に過ぎないのだから。
 しかし、例え陛下が生きていくこれからの長い道のりの中で、私が彼に関われるのがほんの一瞬に過ぎないのだとしても、今陛下の心を救えるのは私だけだと思う。

 玉蘭様ではなく、私にしかできない。
 後宮に戻って、陛下を救いたい。
 

「お父様。陛下は自分のせいで私を死なせてしまったと思い込んで、心を閉ざしてしまいました。私が生きていると知ったら、きっと陛下は立ち直れます。自暴自棄になって皇太后様の言いなりになったりせず、この青龍国の皇帝として強く生きていけると思うのです」
「まさか、自分が琥珀であることを陛下に伝えるのか? せっかく後宮を出してもらえたんだ。このまま黄明凛として生きていく道もある。皇都で暮らすのが嫌なら、私と一緒に別の街に行ってもいい」


 必死で私を説得しようとするお父様の言葉を遮るように、私は首を横に振る。


「私にもお父様にも、やるべきことがあります。後ろ盾を失くした陛下を預かってまで守ろうとしたお父様なら、陛下を一人残したまま皇都を去るなんてできないはずですよね」


 その顔に憂色を浮かべたお父様はしばらく目を閉じて考え込んだ後、私に向かって静かに頷いた。
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