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第10話 狂乱の王子
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ロシュフェルト公爵令嬢エルセリアが、別邸の火災で非業の死を遂げてから、数年の月日が流れた。かつて栄華を誇った王都の空気は、今や淀み、重苦しい沈黙が支配している。
「……まただ。また、不作の報告だと!?」
王城の執務室。ヴィンセント第二王子は、目の前の書類を乱暴に机に叩きつけた。彼の顔色は青く濁り、かつての傲慢な自信に満ちた面影はどこにもない。ただ、焦燥と睡眠不足による隈が、その双眸を醜く縁取っていた。
「殿下、落ち着いてくださいませ。……それより、新しい宝石の予算は通りましたの? ミレーヌ、お姉様のような古い石ばかりつけるのはもう飽き飽きですわ」
隣で甘えるように声をかけたミレーヌを見て、ヴィンセントは初めて、激しい嫌悪感を覚えた。
エルセリアが死んだ直後、彼女を追い詰めたのはヴィンセントとミレーヌだと、王都の貴族たちの間で噂が広まった。それ以来、公爵家を支えていた魔力の結界は日を追うごとに弱まり、国境付近では魔物の被害が激増。さらには異常気象による不作が続き、民衆の不満は爆発寸前だ。
「……宝石? ミレーヌ、お前は今の状況が分かっているのか! 国の結界が消えかかっているんだぞ!」
「そんなの、お父様やお母様が何か手抜きをしているからに決まっていますわ。お姉様が生きていた頃は、座っているだけで結界が保たれていたんですもの。お姉様が死んだくらいで崩れるなんて、きっとあの方が何か呪いでも残したんですわよ」
ミレーヌは無邪気に笑うが、その言葉はヴィンセントの心臓を鋭く抉った。
(エルセリアがいただけで、結界が保たれていた……?)
ヴィンセントは、火災の跡地から見つかった、焦げ跡が残るベージュ色のドレスと、彼女の不実を責める自分の手紙を思い出し、吐き気を催した。
エルセリアがいた頃、この国に不作などはなかった。魔物の被害も、彼女がひっそりと施していた加護によって防がれていたのだ。それを無能と切り捨て、泥を投げ、死に追いやったのは自分だ。
「……あいつがいれば。エルセリアさえいれば、こんなことにはならなかった……っ!」
ヴィンセントは頭を抱え、嗚咽を漏らした。死後、彼女の部屋から見つかった膨大な治世の記録や、各領地への細やかな支援の帳簿。彼女は自分の婚約者としての義務を、誰に誇ることもなく、静かに、完璧に遂行していたのだ。
「……生きている。エルセリアは生きている。遺体からは本人だと確証できなのだろう! あの火事の中でも、実は生きているのではないのか!?」
「殿下、何を仰っているのですか? あの猛火で生きているはずも……」
「黙れ! あいつさえいれば、この国は、私は救われるんだ!」
ヴィンセントの瞳には、狂気に似た熱が宿っていた。それは愛ではなく、失った巨大な利権と都合の良い女への執着。そして、自分を正当化できなくなった人間の末路だった。
◇ ◇ ◇
その頃、ロシュフェルト公爵家の屋敷もまた、地獄の様相を呈していた。エルセリアを軽んじ別邸へ追いやり、後妻の連れ子であるミレーヌばかりを可愛がった公爵は、今や見る影もなく老け込んでいる。
「……なぜだ。なぜ魔力が繋がらん。結界が、綻んでいく……」
公爵は、邸内の聖域で結界石に手を触れるが、石は冷たく沈黙したままだ。この結界を維持していたのは、公爵家の血筋ではなく、エルセリアという一個人の強大な魔力だったのだ。彼女が死んだことで、家門の守護は失われてしまった。
「……あの子を……追い詰めるようなことを、しなければ」
後悔の言葉を口にするが、もう遅い。屋敷のあちこちで壁にひびが入り、庭の花々は枯れ果てている。
そして、その様子を屋敷の屋根の上から眺める、二つの影があった。
「ふん。見苦しいですね。お嬢様があれほど心を砕いて守っていた場所が、こうも簡単に腐り落ちるとは」
月光を背に、冷ややかに笑うのはマルタだ。彼女は時折、情報収集と称して王都の「掃除」に訪れている。
「……エルセリアを散々見下した罰だ。死ぬまでその泥の中で、失ったものの大きさに絶望し続ければいい」
隣に立つギルベルトは、蔑みの目で屋敷を見下ろす。
「狂犬。あの馬鹿王子、お嬢様が生きていると妄言を吐いているそうですよ」
「あぁ。港町まで、嗅ぎまわっている鼠がいる。鼠は一匹残らず、海の底に沈めて魚の餌にする。エルセリアの平穏を乱す者は、たとえ王族だろうと俺がこの手で終わらせてやる」
ギルベルトの金色の瞳が、夜の闇の中で爛々と輝いた。
「エルセリアは今、幸せそうに笑っている。……あの笑顔を、二度とあいつらに見せてたまるか」
彼らは一瞬で姿を消し、王都の闇へと溶け込んでいった。
崩れゆく王宮の奥底で、ヴィンセントの叫びが今夜も虚しく響き渡る。それは、失った光を求める、手遅れな愚者の断末魔だった。
「……まただ。また、不作の報告だと!?」
王城の執務室。ヴィンセント第二王子は、目の前の書類を乱暴に机に叩きつけた。彼の顔色は青く濁り、かつての傲慢な自信に満ちた面影はどこにもない。ただ、焦燥と睡眠不足による隈が、その双眸を醜く縁取っていた。
「殿下、落ち着いてくださいませ。……それより、新しい宝石の予算は通りましたの? ミレーヌ、お姉様のような古い石ばかりつけるのはもう飽き飽きですわ」
隣で甘えるように声をかけたミレーヌを見て、ヴィンセントは初めて、激しい嫌悪感を覚えた。
エルセリアが死んだ直後、彼女を追い詰めたのはヴィンセントとミレーヌだと、王都の貴族たちの間で噂が広まった。それ以来、公爵家を支えていた魔力の結界は日を追うごとに弱まり、国境付近では魔物の被害が激増。さらには異常気象による不作が続き、民衆の不満は爆発寸前だ。
「……宝石? ミレーヌ、お前は今の状況が分かっているのか! 国の結界が消えかかっているんだぞ!」
「そんなの、お父様やお母様が何か手抜きをしているからに決まっていますわ。お姉様が生きていた頃は、座っているだけで結界が保たれていたんですもの。お姉様が死んだくらいで崩れるなんて、きっとあの方が何か呪いでも残したんですわよ」
ミレーヌは無邪気に笑うが、その言葉はヴィンセントの心臓を鋭く抉った。
(エルセリアがいただけで、結界が保たれていた……?)
ヴィンセントは、火災の跡地から見つかった、焦げ跡が残るベージュ色のドレスと、彼女の不実を責める自分の手紙を思い出し、吐き気を催した。
エルセリアがいた頃、この国に不作などはなかった。魔物の被害も、彼女がひっそりと施していた加護によって防がれていたのだ。それを無能と切り捨て、泥を投げ、死に追いやったのは自分だ。
「……あいつがいれば。エルセリアさえいれば、こんなことにはならなかった……っ!」
ヴィンセントは頭を抱え、嗚咽を漏らした。死後、彼女の部屋から見つかった膨大な治世の記録や、各領地への細やかな支援の帳簿。彼女は自分の婚約者としての義務を、誰に誇ることもなく、静かに、完璧に遂行していたのだ。
「……生きている。エルセリアは生きている。遺体からは本人だと確証できなのだろう! あの火事の中でも、実は生きているのではないのか!?」
「殿下、何を仰っているのですか? あの猛火で生きているはずも……」
「黙れ! あいつさえいれば、この国は、私は救われるんだ!」
ヴィンセントの瞳には、狂気に似た熱が宿っていた。それは愛ではなく、失った巨大な利権と都合の良い女への執着。そして、自分を正当化できなくなった人間の末路だった。
◇ ◇ ◇
その頃、ロシュフェルト公爵家の屋敷もまた、地獄の様相を呈していた。エルセリアを軽んじ別邸へ追いやり、後妻の連れ子であるミレーヌばかりを可愛がった公爵は、今や見る影もなく老け込んでいる。
「……なぜだ。なぜ魔力が繋がらん。結界が、綻んでいく……」
公爵は、邸内の聖域で結界石に手を触れるが、石は冷たく沈黙したままだ。この結界を維持していたのは、公爵家の血筋ではなく、エルセリアという一個人の強大な魔力だったのだ。彼女が死んだことで、家門の守護は失われてしまった。
「……あの子を……追い詰めるようなことを、しなければ」
後悔の言葉を口にするが、もう遅い。屋敷のあちこちで壁にひびが入り、庭の花々は枯れ果てている。
そして、その様子を屋敷の屋根の上から眺める、二つの影があった。
「ふん。見苦しいですね。お嬢様があれほど心を砕いて守っていた場所が、こうも簡単に腐り落ちるとは」
月光を背に、冷ややかに笑うのはマルタだ。彼女は時折、情報収集と称して王都の「掃除」に訪れている。
「……エルセリアを散々見下した罰だ。死ぬまでその泥の中で、失ったものの大きさに絶望し続ければいい」
隣に立つギルベルトは、蔑みの目で屋敷を見下ろす。
「狂犬。あの馬鹿王子、お嬢様が生きていると妄言を吐いているそうですよ」
「あぁ。港町まで、嗅ぎまわっている鼠がいる。鼠は一匹残らず、海の底に沈めて魚の餌にする。エルセリアの平穏を乱す者は、たとえ王族だろうと俺がこの手で終わらせてやる」
ギルベルトの金色の瞳が、夜の闇の中で爛々と輝いた。
「エルセリアは今、幸せそうに笑っている。……あの笑顔を、二度とあいつらに見せてたまるか」
彼らは一瞬で姿を消し、王都の闇へと溶け込んでいった。
崩れゆく王宮の奥底で、ヴィンセントの叫びが今夜も虚しく響き渡る。それは、失った光を求める、手遅れな愚者の断末魔だった。
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