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第18話 消えない執着
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ヴィンセントが港町で騒ぎを起こしてから、数週間。港町セレンには、いつもの活気ある日常が戻ってきた。
日が昇り始めた少し後。海霧が街を優しく包む時間、エルセリアは、いつものように『薬屋エルセ』の裏庭で、朝露に濡れたハーブを摘んでいた。
「……マリーゴールド。今日もいい色がついているわね」
エルセリアがハーブに声をかけると、背後の影が微かに揺れた。
「エルセ。その植物に対する慈愛の、百分の一で構いません。俺にも向けていただけませんか」
振り向かなくてもわかる。ギルベルトだ。
彼はこの数年で、気配を消す技術を「エルセを驚かせないため」という極めて私的な理由で研ぎ澄ませていた。今や彼は、猫よりも静かに彼女の隣に立つことができる。
「ギル、おはよう。あなたには百分の一どころか、毎日たくさんの言葉をかけているじゃないの」
「足りません。俺の計算では、お嬢様が今日マリーゴールドにかけた言葉は二十三音。俺へは今の『ギル、おはよう』だけで六音です。差し引き十七音の不足……これを埋めるには、今すぐ俺を抱きしめていただくしかありません」
(……相変わらず、計算の仕方がおかしいわね、ギルは)
エルセリアは苦笑しながら、摘み取った薬草を籠に入れ、立ち上がった。ギルベルトはすぐさま彼女の手から流れるような動きで取り、当然の権利のように彼女の隣を歩き始める。その歩幅は、彼女の歩調に合わされていた。
◇ ◇ ◇
開店準備。これがエルセリアの、今の戦場だ。
カウンターを拭き上げ、乾燥させたハーブを種類ごとに瓶に詰め替える。マルタが淹れてくれた香りの高い紅茶を一口飲み、本日の予約リストを確認する。
「お嬢様、本日の往診は三件です。一件目は港の荷揚げ場の親方、腰痛ですね。二件目はパン屋の奥様、風邪気味。三件目は……バルドスさんの屋敷、リナさんの定期検診です」
マルタがテキパキとスケジュールを読み上げる。彼女は最近、店の方務だけでなく、街の自警団(バルドスの部下たち)に効率的な制圧術を教え込むという、謎の副業を始めていた。
「ありがとう、マルタ。……ギル、往診鞄の準備をお願いね」
「準備は整っています。エルセ、一つ確認ですが。荷揚げ場の親方の腰を診る際、直接肌に触れる必要がありますか? 必要であれば、僕が代わりにその腰を……治してしてきましょうか?」
「ギル、それを世間では『傷害事件』と言うのよ。必要な接触もあるので、嫉妬は禁止です」
エルセリアがぴしゃりと言うと、ギルベルトは「くっ……エルセの神聖な治療に、俺の嫉妬という不純物が……」と、芝居がかった様子で天を仰いだ。
開店と同時に、店には街の人々が次々と訪れる。
「よお、エルセ先生! 先週もらった胃薬、効いたぜ。おかげで昨日は大酒を飲めた!」
「飲みすぎはいけませんよ、ジャンさん。次はもっと苦い薬にしますからね」
「先生、うちの子がまた木から落ちて擦り傷を……」
「あらあら、元気な証拠ですね。痛くない薬を使いましょう」
エルセリアは一人一人の顔を見て、言葉を交わす。前世では、誰かに「ありがとう」と言われることが、これほどまでに心を温めるものだとは知らなかった。公爵令嬢であった彼女は、感謝されるべき立場にいながら、誰からも必要とされていなかった。けれど今は、その手が、この知識が、誰かの明日を作っている。
ふと視線を感じて横を見ると、店の隅でギルベルトが鋭い眼光を放っていた。彼は、エルセリアが患者の手を握ったり、子供の頭を撫でたりするたびに、持っている羽ペンを指先でポキリと折っている。
(……これで今月、十本目ですわ。後でマルタに怒られるのは彼なのに)
午後。往診のために街へ出ると、今度は別の視線が突き刺さる。街の若者たちが、エルセリアに声をかけようとして——その背後に立つギルベルトの殺気に当てられ、次々と顔を青くして逃げ去っていくのだ。
「ギル、あまりみんなを怖がらせないで。あなたが、街の人たちに嫌われてしまいます」
「嫌われても構いません。俺が好かれたいのは、この世で一人だけですから。それに、あいつらは不純です。エルセの薬が欲しいのではなく、エルセの微笑みという、幾ら払っても買えない対価を掠め取ろうとしている」
「……その通り。私の微笑みは、お金では買えないわ。ギル、あなたにしか売らない特注品ですもの」
エルセリアが少しからかうように言うと、ギルベルトは一瞬で言葉を失い、顔を真っ赤にした。彼はよろよろと壁に手をつき、心臓を押さえる。
「……エルセ……。今の言葉は、法に触れるレベルの威力です。……あぁ、幸せだ。今なら、あの王子が再び現れても、笑顔で首を刎ねてあげられる気がする……」
「物騒なことは言わないの!」
潮風に揺れるハーブの香り。人々の笑い声。そして、隣にいる重すぎるほどの愛を抱えた騎士。
王都から届くニュースでは、廃嫡されたヴィンセントが北方の修道院へ送られ、ミレーヌが貴族籍を剥奪されて下女として働かされているという。そんな結末すら、今の彼女には日常の些細な彩りに過ぎない。
彼女の本当の物語は、この小さな街で、この騒がしい家族と一緒に、一歩ずつ刻まれていくのだ。
「さあ、次はバルドスさんの屋敷ね。リナちゃんに、新しい花の香水の作り方を教える約束をしているの」
「……俺も、教わりたいです。エルセの匂いになる方法を」
「……ギル、それは流石に、怖いですわ」
エルセリアの薬屋は、今日も平和で、少しだけ甘い空気に満ちている。
日が昇り始めた少し後。海霧が街を優しく包む時間、エルセリアは、いつものように『薬屋エルセ』の裏庭で、朝露に濡れたハーブを摘んでいた。
「……マリーゴールド。今日もいい色がついているわね」
エルセリアがハーブに声をかけると、背後の影が微かに揺れた。
「エルセ。その植物に対する慈愛の、百分の一で構いません。俺にも向けていただけませんか」
振り向かなくてもわかる。ギルベルトだ。
彼はこの数年で、気配を消す技術を「エルセを驚かせないため」という極めて私的な理由で研ぎ澄ませていた。今や彼は、猫よりも静かに彼女の隣に立つことができる。
「ギル、おはよう。あなたには百分の一どころか、毎日たくさんの言葉をかけているじゃないの」
「足りません。俺の計算では、お嬢様が今日マリーゴールドにかけた言葉は二十三音。俺へは今の『ギル、おはよう』だけで六音です。差し引き十七音の不足……これを埋めるには、今すぐ俺を抱きしめていただくしかありません」
(……相変わらず、計算の仕方がおかしいわね、ギルは)
エルセリアは苦笑しながら、摘み取った薬草を籠に入れ、立ち上がった。ギルベルトはすぐさま彼女の手から流れるような動きで取り、当然の権利のように彼女の隣を歩き始める。その歩幅は、彼女の歩調に合わされていた。
◇ ◇ ◇
開店準備。これがエルセリアの、今の戦場だ。
カウンターを拭き上げ、乾燥させたハーブを種類ごとに瓶に詰め替える。マルタが淹れてくれた香りの高い紅茶を一口飲み、本日の予約リストを確認する。
「お嬢様、本日の往診は三件です。一件目は港の荷揚げ場の親方、腰痛ですね。二件目はパン屋の奥様、風邪気味。三件目は……バルドスさんの屋敷、リナさんの定期検診です」
マルタがテキパキとスケジュールを読み上げる。彼女は最近、店の方務だけでなく、街の自警団(バルドスの部下たち)に効率的な制圧術を教え込むという、謎の副業を始めていた。
「ありがとう、マルタ。……ギル、往診鞄の準備をお願いね」
「準備は整っています。エルセ、一つ確認ですが。荷揚げ場の親方の腰を診る際、直接肌に触れる必要がありますか? 必要であれば、僕が代わりにその腰を……治してしてきましょうか?」
「ギル、それを世間では『傷害事件』と言うのよ。必要な接触もあるので、嫉妬は禁止です」
エルセリアがぴしゃりと言うと、ギルベルトは「くっ……エルセの神聖な治療に、俺の嫉妬という不純物が……」と、芝居がかった様子で天を仰いだ。
開店と同時に、店には街の人々が次々と訪れる。
「よお、エルセ先生! 先週もらった胃薬、効いたぜ。おかげで昨日は大酒を飲めた!」
「飲みすぎはいけませんよ、ジャンさん。次はもっと苦い薬にしますからね」
「先生、うちの子がまた木から落ちて擦り傷を……」
「あらあら、元気な証拠ですね。痛くない薬を使いましょう」
エルセリアは一人一人の顔を見て、言葉を交わす。前世では、誰かに「ありがとう」と言われることが、これほどまでに心を温めるものだとは知らなかった。公爵令嬢であった彼女は、感謝されるべき立場にいながら、誰からも必要とされていなかった。けれど今は、その手が、この知識が、誰かの明日を作っている。
ふと視線を感じて横を見ると、店の隅でギルベルトが鋭い眼光を放っていた。彼は、エルセリアが患者の手を握ったり、子供の頭を撫でたりするたびに、持っている羽ペンを指先でポキリと折っている。
(……これで今月、十本目ですわ。後でマルタに怒られるのは彼なのに)
午後。往診のために街へ出ると、今度は別の視線が突き刺さる。街の若者たちが、エルセリアに声をかけようとして——その背後に立つギルベルトの殺気に当てられ、次々と顔を青くして逃げ去っていくのだ。
「ギル、あまりみんなを怖がらせないで。あなたが、街の人たちに嫌われてしまいます」
「嫌われても構いません。俺が好かれたいのは、この世で一人だけですから。それに、あいつらは不純です。エルセの薬が欲しいのではなく、エルセの微笑みという、幾ら払っても買えない対価を掠め取ろうとしている」
「……その通り。私の微笑みは、お金では買えないわ。ギル、あなたにしか売らない特注品ですもの」
エルセリアが少しからかうように言うと、ギルベルトは一瞬で言葉を失い、顔を真っ赤にした。彼はよろよろと壁に手をつき、心臓を押さえる。
「……エルセ……。今の言葉は、法に触れるレベルの威力です。……あぁ、幸せだ。今なら、あの王子が再び現れても、笑顔で首を刎ねてあげられる気がする……」
「物騒なことは言わないの!」
潮風に揺れるハーブの香り。人々の笑い声。そして、隣にいる重すぎるほどの愛を抱えた騎士。
王都から届くニュースでは、廃嫡されたヴィンセントが北方の修道院へ送られ、ミレーヌが貴族籍を剥奪されて下女として働かされているという。そんな結末すら、今の彼女には日常の些細な彩りに過ぎない。
彼女の本当の物語は、この小さな街で、この騒がしい家族と一緒に、一歩ずつ刻まれていくのだ。
「さあ、次はバルドスさんの屋敷ね。リナちゃんに、新しい花の香水の作り方を教える約束をしているの」
「……俺も、教わりたいです。エルセの匂いになる方法を」
「……ギル、それは流石に、怖いですわ」
エルセリアの薬屋は、今日も平和で、少しだけ甘い空気に満ちている。
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