死に戻り令嬢は逃げ出したい ~前世で私を殺した暗殺者が、「一生離しません」と忠犬になって追いかけてきます~

ラム猫

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第19話 無垢な問い

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 潮風に揺れる港町セレンの午後は、穏やかな陽光に満ちている。エルセリアは往診鞄を手に、バルドスの屋敷を訪れていた。目的は、すっかり元気になったリナの定期検診と、彼女と約束していた花の香水作りだ。

 屋敷の広いサロンには、摘みたてのバラやラベンダーが広げられ、甘い香りが充満している。

「——はい、リナちゃん。この瓶に、ゆっくりとお花のエキスを垂らしてみて。そう、上手よ」
「わあ、すごい! エルセ様、魔法みたい!」

 リナが目を輝かせて作業に没頭する。その傍らで、エルセリアは彼女の脈を測り、顔色を確認する。かつて死の淵にいたとは思えないほど、彼女の鼓動は力強く、健やかだ。

「うん、体調も万全ね。もう心配ないわ」
「えへへ、ありがとうエルセ様! ……ねえ、エルセ様」

 リナが、抽出用のスポイトを置いてエルセリアを見上げた。その瞳は、子供特有の残酷なまでの純粋さに満ちている。

「エルセ様とギルお兄ちゃんって、いつ結婚するの?」

 ——ピキ。

 背後の影で、何かが凍りつくような音がした。エルセリアは持っていた薬瓶を落としそうになり、慌ててキャッチする。

「……えっ? リ、リナちゃん、何を……」
「だって、ギルお兄ちゃん、エルセ様のこといっつもお姫様みたいに見てるもん! それに、パパが言ってたよ。『あいつら、あれでくっついてねえなんて、世界七不思議の八番目だ』って!」

(バルドスさん……! 余計なことを……!)

 エルセリアは頬が熱くなるのを感じた。確かにギルベルトは彼女の騎士であり、家族であり、そして……ちょっと重すぎるほどの愛を持って彼女に仕えてくれている。けれど、「結婚」という言葉を具体的に意識したことはなかった。

 恐る恐る背後を振り返ると、そこには限界を迎えたギルベルトが立っていた。

 彼は顔を真っ赤に染め、金色の瞳を異常なほど見開き、ガタガタと全身を震わせている。その手には、お茶を運ぼうとしていた銀のトレイが握られていたが、彼の握力によってトレイは見事に曲がっていた。

「……け……けけ……けっこ……」
「ギル、トレイが壊れちゃったわ。落ち着いて」
「今、この小さき賢者が仰ったことは……預言ですか? それとも、神の啓示ですか? ……結婚。エルセと、俺が。……あぁ、想像しただけで脳が溶解しそうです。白いドレスを纏ったエルセを、俺だけの檻……いえ、愛の巣に閉じ込め、一生、俺の視界から一秒も逃がさずに……」
「狂犬。欲望がダダ漏れです。少し黙りなさい」

 いつの間にか現れたマルタが、ギルベルトの頭を容赦なくフライパンで叩いた。ゴーン、と小気味よい音が響く。

「お嬢様、失礼しました。この狂犬は現在、脳内で勝手に新婚旅行の計画を立てて、隣国の物価と治安を調べ始めています。速やかに排除しますか?」
「排除しないで! リナちゃんが怖がってしまうわ」
「こわくないよー! ギルお兄ちゃん、おもしろーい!」

 リナちゃんはケラケラと笑い、さらに追い打ちをかける。

「ねえ、結婚したら、エルセ様はギルお兄ちゃんの家名になるの? それともお兄ちゃんが名前変わるの?」
「……俺には家名はありませんし、エルセも家名を名乗るわけにはいきません……しかし、エルセと同じ名を名乗る権利……あぁ、それは至高の悦び……。いっそ、俺の名前を『ギルベルト・エルセ』に改名して——」
「ギル、座りなさい。お茶を飲みなさい」

 エルセリアが強引に彼を椅子に座らせると、彼は魂が抜けたような顔で、曲がったトレイに乗ったままのカップを啜り始めた。
 


 夕暮れ時。屋敷のバルコニーに出ると、バルドスがニヤニヤしながらエルセリアを見ていた。

「よお、エルセさん。リナがとんでもねえ爆弾を落としたらしいな」
「バルドスさん……。リナちゃんに変なことを教えないでください。ギルが壊れてしまいました」
「ガハハ! 壊れるも何も、あいつは元から壊れてるだろう。……まあ、あんな狂犬だがよ。あんたを想う気持ちだけは、この街のどの男よりも本物だ。……あいつ、夜中に俺のところに来て『エルセに最高の指輪を贈るには、どの鉱山を買い取ればいいか』なんて相談しにくるんだぜ?」

 エルセリアは言葉を失った。指輪を作るのに、鉱山から始めるつもりなのだろうか。

「……彼は、加減というものを知りませんから」
「そこがいいんじゃねえか。あんたみたいな、誰に襲われるかもしれない聖女様のような人には、それくらい狂った番犬がちょうどいい。……ま、焦るこたあねえ。この街はあんたたちの家だ。いつまででも、好きにやってな」

 バルドスさんはそう言って、エルセリアの頭を乱暴に、けれど優しく撫でた。



 帰り道。沈みゆく夕日を背に、エルセリアとギルベルトは並んで歩いていた。ギルベルトはまだ少し呆然としていたが、不意に立ち止まり、彼女の前に跪いた。

「……エルセ」
「何かしら、ギル。改名なら許可しないわよ?」
「……リナ殿に言われて、気づきました。俺は、あなたを守ることが自分のすべてだと思っていましたが……。いつか、本当にあなたを『俺だけのもの』にしたいと願ってしまう自分を、抑えられそうにありません」

 彼はエルセリアの手をそっと取り、指先に熱い口づけを落とす。その瞳は、いつもの怪しい輝きとは少し違う、切実な、一人の青年としての情熱を宿していた。

「……今はまだ、俺はただの騎士です。でも、いつか。あなたがこの街で、誰よりも幸せな花嫁になれる準備が整ったとき……。その時は、俺の命を賭けて、あなたを迎えに行きます」

 潮風が二人の間を吹き抜ける。エルセリアは、彼の熱い視線に気圧されながらも、ふんわりと微笑んだ。

「……気が早いわ、ギル。……でも、そんな日が来るのも、悪くないかもしれないわね」
「……っ!! え、エルセ。それは予約と受け取ってよろしいのですか!? 契約ですか!? 婚約証明書が必要ですか!?」
「いいえ、ただの独り言です。さあ、帰りましょう。今日はシチューを作るわ」
「シチュー! 結婚式のメニューに入れましょう! 毎日食べましょう! あぁ、エルセ……!」

 再び暴走を始めたギルベルトを適当にあしらいながら、エルセリアは港町の石畳を歩く。

 「結婚」なんて、まだ先の話。けれど、この重すぎる愛と共に歩む未来も、今の彼女には、かけがえのない宝物のように思えた。


 その夜。ギルベルトは興奮のあまり一睡もできず、小さく「結婚行進曲」を口ずさみながら不審者を三名ほど制圧したというが……。それは、エルセリアの知る由もない、平和な(?)セレンの日常の一幕だった。
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