死に戻り令嬢は逃げ出したい ~前世で私を殺した暗殺者が、「一生離しません」と忠犬になって追いかけてきます~

ラム猫

文字の大きさ
20 / 63

第20話 泥の中から見上げる光

しおりを挟む

 爪が割れ、指先はあかぎれで血が滲んでいる。かつて、宝石を散りばめた扇を優雅に操っていた私の手は、今や冷たい井戸水で他人の汚れた下着を洗うための道具に成り下がっていた。

「おい、ミレーヌ! いつまで手を休めているんだ。さっさとその山を片付けろ!」

 背後から飛んできたのは、平民の老婆による罵声と、硬い箒の柄だった。背中に走る痛みに、私は声もなくうずくまる。

「……申し訳、ございません……」

 カサカサに枯れた声で謝罪する。
 ミレーヌ・ロシュフェルト。それが私の名前だった。公爵家の愛娘として、父に甘え、姉からすべてを奪い、ヴィンセント殿下の隣で輝くはずだった、この国の真の聖女。それがどうして、王都の片隅にある下級修道院の洗濯女として、泥にまみれているのか。

(全部、お姉様のせいよ……!)

 心の中で、何度繰り返したかわからない呪詛を吐く。あの火事で死んだはずのエルセリア。あの日から、私の運命は狂い始めた。結界が弱まり、父は発狂し、ヴィンセント殿下は廃嫡。ロシュフェルト公爵家は国を危機に陥れた責任を問われ、資産はすべて没収。私は平民へと落とされ、この「矯正施設」という名の地獄へ放り込まれた。

「お姉様さえいなければ。あの方が勝手に死んだりせず、今まで通り私に魔力を捧げて、私に踏みつけられていれば、私は今でも……!」

 洗濯桶の中に映る自分の顔を見る。頬はこけ、髪はバサバサ。かつての美貌はどこにもない。

 だが、絶望の淵で、私はあるものを手に入れていた。

 それは、父が没収される直前に私に託した、ロシュフェルト公爵家に伝わる禁忌の魔道具——『魂の天秤』。

 懐に隠したその小さな銀の天秤は、持ち主が自分より優れた魂を見つけたとき、その運命と立場をそっくりそのまま入れ替えることができるという、呪いの道具だ。

「……港町に、生きているのでしょう? お姉様」

 ヴィンセント殿下が狂ったように叫んでいた情報を、私は忘れていない。

 港町セレン。そこに、すべての人に愛され、幸せを振り撒く『薬師エルセ』がいるという。

「ふふ……ふふふ……あはははは!」

 私は狂ったように笑い出した。老婆が気味悪そうに私を蹴り飛ばしたが、痛みなど感じなかった。

(入れ替えてあげるわ。お姉様の今のその幸せ、全部私がもらう。お姉様には、この冷たい水と泥の中で、一生這いつくばってもらうのよ……!)

 その夜。私は修道院の壁を越えた。足の裏が石で切れ、血が流れても止まらなかった。

 天秤が微かに熱を帯び、私を導いている。港町の方角へ。あのお人好しで、愚かで、何一つ自分の意志で選べなかった道具の姉の元へ。

 道中、空腹に耐えかねて野草を食み、馬車の下にしがみついて移動した。かつての私なら死んでもやらなかったような浅ましい行為も、今は復讐への執念が私を突き動かしている。

「待っていて、お姉様。……あなたのその日常を、私が根こそぎ奪い取ってあげる」

 セレンの街に辿り着いたとき、私はボロ布を纏った物乞いのような姿だった。けれど、街の入り口で聞こえてきた噂話が、私の胸を激しい嫉妬で焼き尽くす。

「聞いたか? エルセ先生、今日もお祭りのためにたくさんの薬湯を用意してくれたんだってよ」
「ああ。先生は俺たちの街の宝物だ。あんなに綺麗で優しい人は、他にいないぜ」

 宝物。綺麗。優しい。その言葉の一つ一つが、私の耳を刺す。

「……あは。お姉様、やっぱり何も変わっていないのね。どこへ行っても、そうやって周囲に尽くして、馬鹿みたいに笑って……」

 私は、天秤の鎖を強く握りしめた。
 この天秤を発動させるには、相手の「最も大切な瞬間」に立ち会い、その心に一筋の疑念か恐怖を植え付ける必要がある。

 私は影に潜み、お姉様の薬屋を見張った。窓越しに見える彼女は、本当に幸せそうだった。

 そして、その隣には——見覚えのある、けれど信じられないほどに美しく成長した男の姿があった。

 かつてお姉様が拾ってきた、あのドブネズミ。彼が、まるでお姉様を守る神聖な騎士のような顔をして、彼女の髪を慈しむように撫でている。

 その瞳に宿る、異常なほどの熱量。

「……あはは。そう。あれが、今のあなたの一番なのね、お姉様」

 私は闇の中で口角を吊り上げた。奪い甲斐がある。あの男の愛も、街の人々の尊敬も、お姉様のその穏やかな笑顔も。

 すべてを反転させてやる。

 私が洗濯女として泥を啜っていた時間に、お姉様が享受していた光のすべて。それを今夜、私が買い取ってあげる。

「お姉様……会いに来たわよ」

 狂気の天秤が、暗闇の中でチリンと不吉な音を立てた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

じゃない方の私が何故かヤンデレ騎士団長に囚われたのですが

カレイ
恋愛
 天使な妹。それに纏わりつく金魚のフンがこの私。  両親も妹にしか関心がなく兄からも無視される毎日だけれど、私は別に自分を慕ってくれる妹がいればそれで良かった。  でもある時、私に嫉妬する兄や婚約者に嵌められて、婚約破棄された上、実家を追い出されてしまう。しかしそのことを聞きつけた騎士団長が何故か私の前に現れた。 「ずっと好きでした、もう我慢しません!あぁ、貴方の匂いだけで私は……」  そうして、何故か最強騎士団長に囚われました。

ヤンデレ旦那さまに溺愛されてるけど思い出せない

斧名田マニマニ
恋愛
待って待って、どういうこと。 襲い掛かってきた超絶美形が、これから僕たち新婚初夜だよとかいうけれど、全く覚えてない……! この人本当に旦那さま? って疑ってたら、なんか病みはじめちゃった……!

3回目巻き戻り令嬢ですが、今回はなんだか様子がおかしい

エヌ
恋愛
婚約破棄されて、断罪されて、処刑される。を繰り返して人生3回目。 だけどこの3回目、なんだか様子がおかしい 一部残酷な表現がございますので苦手な方はご注意下さい。

うっかり結婚を承諾したら……。

翠月 瑠々奈
恋愛
「結婚しようよ」 なんて軽い言葉で誘われて、承諾することに。 相手は女避けにちょうどいいみたいだし、私は煩わしいことからの解放される。 白い結婚になるなら、思う存分魔導の勉強ができると喜んだものの……。 実際は思った感じではなくて──?

村娘あがりの娼婦ですが、身請けされて幸せです

春月もも
恋愛
村を飛び出して王都に来たリリアは、いまは高級娼婦として生きている。 ここは通過点のはずだった。 誰かに選ばれて終わる物語なんて、わたしには関係ないと思っていたのに。 触れない客。 身体ではなく、わたしの話を聞きに来るだけの商人。 「君と話す時間を、金で買うのが嫌になった」 突然の身請け話。 値札のついた自分と向き合う三日間。 選ばれるのではなく選ぶと決めたとき、 通過点は終わりになる。 これは救いではなく対等な恋の話。

一途に愛した1周目は殺されて終わったので、2周目は王子様を嫌いたいのに、なぜか婚約者がヤンデレ化して離してくれません!

夢咲 アメ
恋愛
「君の愛が煩わしいんだ」 婚約者である王太子の冷たい言葉に、私の心は砕け散った。 それから間もなく、私は謎の襲撃者に命を奪われ死んだ――はずだった。 死の間際に見えたのは、絶望に顔を歪ませ、私の名を叫びながら駆け寄る彼の姿。 ​……けれど、次に目を覚ました時、私は18歳の自分に戻っていた。 ​「今世こそ、彼を愛するのを辞めよう」 そう決意して距離を置く私。しかし、1周目であれほど冷酷だった彼は、なぜか焦ったように私を追いかけ、甘い言葉で縛り付けようとしてきて……? ​「どこへ行くつもり? 君が愛してくれるまで、僕は君を離さないよ」 ​不器用すぎて愛を間違えたヤンデレ王子×今世こそ静かに暮らしたい令嬢。 死から始まる、執着愛の二周目が幕を開ける!

どうして私が我慢しなきゃいけないの?!~悪役令嬢のとりまきの母でした~

涼暮 月
恋愛
目を覚ますと別人になっていたわたし。なんだか冴えない異国の女の子ね。あれ、これってもしかして異世界転生?と思ったら、乙女ゲームの悪役令嬢のとりまきのうちの一人の母…かもしれないです。とりあえず婚約者が最悪なので、婚約回避のために頑張ります!

わんこ系婚約者の大誤算

甘寧
恋愛
女にだらしないワンコ系婚約者と、そんな婚約者を傍で優しく見守る主人公のディアナ。 そんなある日… 「婚約破棄して他の男と婚約!?」 そんな噂が飛び交い、優男の婚約者が豹変。冷たい眼差しで愛する人を見つめ、嫉妬し執着する。 その姿にディアナはゾクゾクしながら頬を染める。 小型犬から猛犬へ矯正完了!?

処理中です...