死に戻り令嬢は逃げ出したい ~前世で私を殺した暗殺者が、「一生離しません」と忠犬になって追いかけてきます~

ラム猫

文字の大きさ
20 / 30

第20話 泥の中から見上げる光

しおりを挟む

 爪が割れ、指先はあかぎれで血が滲んでいる。かつて、宝石を散りばめた扇を優雅に操っていた私の手は、今や冷たい井戸水で他人の汚れた下着を洗うための道具に成り下がっていた。

「おい、ミレーヌ! いつまで手を休めているんだ。さっさとその山を片付けろ!」

 背後から飛んできたのは、平民の老婆による罵声と、硬い箒の柄だった。背中に走る痛みに、私は声もなくうずくまる。

「……申し訳、ございません……」

 カサカサに枯れた声で謝罪する。
 ミレーヌ・ロシュフェルト。それが私の名前だった。公爵家の愛娘として、父に甘え、姉からすべてを奪い、ヴィンセント殿下の隣で輝くはずだった、この国の真の聖女。それがどうして、王都の片隅にある下級修道院の洗濯女として、泥にまみれているのか。

(全部、お姉様のせいよ……!)

 心の中で、何度繰り返したかわからない呪詛を吐く。あの火事で死んだはずのエルセリア。あの日から、私の運命は狂い始めた。結界が弱まり、父は発狂し、ヴィンセント殿下は廃嫡。ロシュフェルト公爵家は国を危機に陥れた責任を問われ、資産はすべて没収。私は平民へと落とされ、この「矯正施設」という名の地獄へ放り込まれた。

「お姉様さえいなければ。あの方が勝手に死んだりせず、今まで通り私に魔力を捧げて、私に踏みつけられていれば、私は今でも……!」

 洗濯桶の中に映る自分の顔を見る。頬はこけ、髪はバサバサ。かつての美貌はどこにもない。

 だが、絶望の淵で、私はあるものを手に入れていた。

 それは、父が没収される直前に私に託した、ロシュフェルト公爵家に伝わる禁忌の魔道具——『魂の天秤』。

 懐に隠したその小さな銀の天秤は、持ち主が自分より優れた魂を見つけたとき、その運命と立場をそっくりそのまま入れ替えることができるという、呪いの道具だ。

「……港町に、生きているのでしょう? お姉様」

 ヴィンセント殿下が狂ったように叫んでいた情報を、私は忘れていない。

 港町セレン。そこに、すべての人に愛され、幸せを振り撒く『薬師エルセ』がいるという。

「ふふ……ふふふ……あはははは!」

 私は狂ったように笑い出した。老婆が気味悪そうに私を蹴り飛ばしたが、痛みなど感じなかった。

(入れ替えてあげるわ。お姉様の今のその幸せ、全部私がもらう。お姉様には、この冷たい水と泥の中で、一生這いつくばってもらうのよ……!)

 その夜。私は修道院の壁を越えた。足の裏が石で切れ、血が流れても止まらなかった。

 天秤が微かに熱を帯び、私を導いている。港町の方角へ。あのお人好しで、愚かで、何一つ自分の意志で選べなかった道具の姉の元へ。

 道中、空腹に耐えかねて野草を食み、馬車の下にしがみついて移動した。かつての私なら死んでもやらなかったような浅ましい行為も、今は復讐への執念が私を突き動かしている。

「待っていて、お姉様。……あなたのその日常を、私が根こそぎ奪い取ってあげる」

 セレンの街に辿り着いたとき、私はボロ布を纏った物乞いのような姿だった。けれど、街の入り口で聞こえてきた噂話が、私の胸を激しい嫉妬で焼き尽くす。

「聞いたか? エルセ先生、今日もお祭りのためにたくさんの薬湯を用意してくれたんだってよ」
「ああ。先生は俺たちの街の宝物だ。あんなに綺麗で優しい人は、他にいないぜ」

 宝物。綺麗。優しい。その言葉の一つ一つが、私の耳を刺す。

「……あは。お姉様、やっぱり何も変わっていないのね。どこへ行っても、そうやって周囲に尽くして、馬鹿みたいに笑って……」

 私は、天秤の鎖を強く握りしめた。
 この天秤を発動させるには、相手の「最も大切な瞬間」に立ち会い、その心に一筋の疑念か恐怖を植え付ける必要がある。

 私は影に潜み、お姉様の薬屋を見張った。窓越しに見える彼女は、本当に幸せそうだった。

 そして、その隣には——見覚えのある、けれど信じられないほどに美しく成長した男の姿があった。

 かつてお姉様が拾ってきた、あのドブネズミ。彼が、まるでお姉様を守る神聖な騎士のような顔をして、彼女の髪を慈しむように撫でている。

 その瞳に宿る、異常なほどの熱量。

「……あはは。そう。あれが、今のあなたの一番なのね、お姉様」

 私は闇の中で口角を吊り上げた。奪い甲斐がある。あの男の愛も、街の人々の尊敬も、お姉様のその穏やかな笑顔も。

 すべてを反転させてやる。

 私が洗濯女として泥を啜っていた時間に、お姉様が享受していた光のすべて。それを今夜、私が買い取ってあげる。

「お姉様……会いに来たわよ」

 狂気の天秤が、暗闇の中でチリンと不吉な音を立てた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

じゃない方の私が何故かヤンデレ騎士団長に囚われたのですが

カレイ
恋愛
 天使な妹。それに纏わりつく金魚のフンがこの私。  両親も妹にしか関心がなく兄からも無視される毎日だけれど、私は別に自分を慕ってくれる妹がいればそれで良かった。  でもある時、私に嫉妬する兄や婚約者に嵌められて、婚約破棄された上、実家を追い出されてしまう。しかしそのことを聞きつけた騎士団長が何故か私の前に現れた。 「ずっと好きでした、もう我慢しません!あぁ、貴方の匂いだけで私は……」  そうして、何故か最強騎士団長に囚われました。

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。 毎日19時に更新予定です。

乙女ゲームは始まらない

みかん桜
恋愛
異世界転生した公爵令嬢のオリヴィア。 婚約者である王太子殿下の周囲に、乙女ゲームのヒロインを自称する女が現れた。 だが現実的なオリヴィアは慌てない。 現実の貴族社会は、物語のように優しくはないのだから。 これは、乙女ゲームが始まらなかった世界の話。 ※恋愛要素は背景程度です。

公爵家の養女

透明
恋愛
リーナ・フォン・ヴァンディリア 彼女はヴァンディリア公爵家の養女である。 見目麗しいその姿を見て、人々は〝公爵家に咲く一輪の白薔薇〟と評した。 彼女は良くも悪くも常に社交界の中心にいた。 そんな彼女ももう時期、結婚をする。 数多の名家の若い男が彼女に思いを寄せている中、選ばれたのはとある伯爵家の息子だった。 美しき公爵家の白薔薇も、いよいよ人の者になる。 国中ではその話題で持ちきり、彼女に思いを寄せていた男たちは皆、胸を痛める中「リーナ・フォン・ヴァンディリア公女が、盗賊に襲われ逝去された」と伝令が響き渡る。 リーナの死は、貴族たちの関係を大いに揺るがし、一日にして国中を混乱と悲しみに包み込んだ。 そんな事も知らず何故か森で殺された彼女は、自身の寝室のベッドの上で目を覚ましたのだった。 愛に憎悪、帝国の闇 回帰した直後のリーナは、それらが自身の運命に絡んでくると言うことは、この時はまだ、夢にも思っていなかったのだった―― ※毎朝8時10分投稿です。 小説家になろう様でも掲載しております。

身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜

しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」 魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。 鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。 (な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?) 実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。 レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。 「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」 冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。 一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。 「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」 これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。

なぜ、私に関係あるのかしら?

シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」 彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。 そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。 「…レオンハルト・トレヴァントだ」 非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。 そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。 「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」 この判断によって、どうなるかなども考えずに… ※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。 ※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、 ※ 画像はAIにて作成しております

5年経っても軽率に故郷に戻っては駄目!

158
恋愛
伯爵令嬢であるオリビアは、この世界が前世でやった乙女ゲームの世界であることに気づく。このまま学園に入学してしまうと、死亡エンドの可能性があるため学園に入学する前に家出することにした。婚約者もさらっとスルーして、早や5年。結局誰ルートを主人公は選んだのかしらと軽率にも故郷に舞い戻ってしまい・・・ 2話完結を目指してます!

処理中です...