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第21話 光に咲く花、毒を断つ
しおりを挟むその夜、セレンの街は霧に包まれていた。エルセリアは閉店後の片付けを終え、一人で薬草の調合室に残っていた。ギルベルトはバルドスに呼ばれて少し席を外しており、マルタはリナに頼まれたハーブティーを届けに屋敷へ向かっている。
「……少し、冷えますね」
窓を閉めようとしたその時、カラン、と入り口の鈴が鳴った。
「申し訳ありません、本日の営業は終了して——」
言いかけて、言葉が止まった。そこに立っていたのは、ボロ布を纏い、泥と埃にまみれた、見覚えのある……けれど信じたくない姿の女性だった。
「……お姉様。やっと、二人きりになれたわ」
「ミレーヌ……?」
震える声でその名を呼ぶ。かつての華やかさは微塵もなく、執念だけで形を保っているような姿。彼女の手には、妖しく光る銀の天秤が握られていた。
「驚いた? 私、地獄のような場所で洗濯女をさせられていたのよ。全部お姉様のせい。お姉様が勝手に死んだふりをして、ヴィンセント殿下をその座から引きずり落として、公爵家の財産も奪ったから!」
「……ミレーヌ、それは違います。自ら崩壊の道を選んだのは、あなたと殿下でしょう?」
エルセリアは努めて冷静に言った。以前の彼女なら、ミレーヌの悲惨な姿を見て罪悪感を抱いたかもしれない。けれど、今のエルセリアには守るべき日常があり、愛してくれる家族がいる。ミレーヌに付け入る隙を与えるわけにはいかない。
「うるさい! 説教なんて聞きたくないわ! 見て、この『魂の天秤』。これでお姉様のその幸せな立場も、あの素敵な騎士の愛も、全部私がもらうの。お姉様は、私の代わりにあの泥の修道院へ戻るのよ!」
ミレーヌが天秤を高く掲げる。銀色の鎖がチャリンと鳴り、不気味な魔力が部屋を満たした。天秤の片皿には彼女の絶望が乗り、もう片方が私の幸福を求めて震え出す。
(……これが、ロシュフェルトの禁忌。……でも、今の私なら)
エルセリアはカウンターの下から、一つの小瓶を取り出した。それは、少しでもギルベルトやマルタを守れたらいいと、密かに調合を続けていた「魔力中和剤」——そして、彼女自身の意志を増幅させる薬だ。
「させません、ミレーヌ。あなたの我儘に、これ以上私の人生を差し出すつもりはありません」
エルセリアは小瓶を床に叩きつけた。パリンという音と共に、清涼な香りが広がる。彼女の体内に眠る、かつて王都の結界を支えていた強大な聖属性の魔力が、薬の触媒を得て一気に解放された。
「な、何よこれ! 魔力が……天秤の力が、吸い取られる!?」
「ミレーヌ。この天秤は空虚な心にしか反応しません。今の私の心には、あなたの呪いが入る隙間なんて、一寸だって残っていないのです」
エルセリアは一歩、ミレーヌへ歩み寄った。彼女が後退りする。
「あなたはいつも、誰かから奪うことばかり考えていた。お父様の愛情も、殿下の関心も、私の魔力も。……でも、奪ったものは自分のものにはならない。愛は、自分で育てていくものなの」
「黙れ! 黙れ黙れ! あんたみたいな無能な女が、偉そうに……!」
ミレーヌが自暴自棄に天秤を振り回し、エルセリアに飛びかかろうとした。その時、彼女はミレーヌの腕を掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「もう終わりにしましょう。……私、あなたのことを恨んでさえいないわ。ただ、悲しいだけ。……さようなら、ミレーヌ」
エルセリアの指先から純白の光が迸り、ミレーヌの手の中の銀の天秤を包み込んだ。
パキィィィィィン! と、高い音を立てて禁忌の魔道具が粉々に砕け散る。同時に、ミレーヌを支えていた執念の糸が切れ、彼女はその場にへなへなと崩れ落ちた。
「……あ……ああ……。私の、私の希望が……」
「エルセ!!」
扉が勢いよく開き、息を切らしたギルベルトが飛び込んできた。背後にはマルタもいる。
「……ギル。大丈夫よ、もう終わったわ」
エルセリアは彼に向かって、穏やかに微笑んだ。ギルベルトは床に転がるミレーヌを一瞥し、その瞳に冷酷な殺意を宿したが、エルセリアの微笑みを見て、辛うじて剣を収める。
「……エルセ。お怪我はありませんか? 申し訳ありません、一瞬でも目を離したばかりに……」
「いいえ、いいの。……自分で決着をつけたかったから」
マルタが冷静にミレーヌの首筋に手首を当て、失神しているのを確認した。
「お見事です、お嬢様。これだけの規模の中和魔法、並の魔術師では一生かかっても不可能です。……さて、このゴミはどうしますか? 海の底に置きますか、それともバルドスさんの地下牢の方が良いですか?」
「……彼女はもう、何も持っていないわ。王都の自警団に引き渡して。犯した罪の分だけ、正当な法で裁いてもらいましょう」
ギルベルトは納得がいかない様子でミレーヌを睨みつけていたが、エルセリアの袖をそっと掴んだ。
「エルセがそう仰るなら……従います。でも、俺は……怖かった。あなたが、またどこかへ行ってしまうのではないかと……」
彼の大きな手が、わずかに震えている。エルセリアはその手を包み込み、深く頷いた。
「どこへも行かないわ。……私は、ここにいると決めたのですから」
翌朝。ミレーヌは王都の憲兵によって、厳重な檻のついた馬車に入れられて運ばれていった。 彼女は最後まで、空っぽな瞳で「どうして……天秤が……」と呟いていたという。
街には再び、いつも通りの平和な朝が訪れた。エルセリアはギルベルトに手伝ってもらいながら、調合室の片付けをする。
「ギル。お礼に、今日はあなたの好きなアップルパイを焼きましょうか?」
「……結婚式の試作ということでよろしいですか?」
「話が飛びすぎよ、ギル」
エルセリアたちは笑い合い、また新しい一日が始まる。
過去の影はもう追ってこない。彼女たちが紡ぐ未来の光が、あまりにも眩しいから。
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