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第29話 碧い彼の誘惑
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その日の夜。港町セレンで最も活気のある酒場『潮風の亭』は、異様な熱気に包まれていた。
中心にいるのは、先日エルセリアが助けた旅人のカインだ。彼はバルドスから「この街に来たあんたを歓迎しよう!」と振る舞われた酒を優雅に煽りながら、竪琴を手に、聴く者すべてを酔わせるような甘い声で歌っている。
「エルセ。もう帰りましょう。あんな、顔面だけが資本の軟弱な男の歌を聴くのは、鼓膜に対する冒涜です。なんなら、俺が今すぐ、地獄の底から響くような鎮魂歌を響かせて差し上げます」
「ギル、失礼よ。カインさんは、私にお礼がしたいと仰ってくださったのですから」
エルセリアは、隣で凄まじい殺気を放ちながら彼女の袖を握りしめているギルベルトを宥めた。 やがて一曲歌い終えたカインが、弾けるような拍手の中、迷いのない足取りで彼女たちのテーブルへとやってくる。
「……待たせましたね、僕の女神」
カインは、ギルベルトが椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がるのを完全に無視し、エルセリアの真正面に座った。至近距離で見る彼の碧い瞳はまるで深い海の底のように澄んでいて、そこに灯りが反射してキラキラと輝いている。
「先日は本当にありがとう。君の差し出してくれた薬……あぁ、あれは単なる薬ではない。私の乾いた魂を潤す、奇跡の雫だった」
「そ、そんな、大袈裟ですよ。私は当たり前のことをしただけで……」
「いいや、当たり前ではない。君の手が僕の頬に触れたとき、僕は生まれて初めて、この世界に神がいるのだと確信した。……ねえ、エルセ。君のその美しい指先は、今も誰かの傷を癒やしているのかい?」
カインさんが、テーブル越しにそっとエルセリアの手を包み込んだ。その指先は驚くほど綺麗で細いけれど、力強い。彼は彼女の手の甲に視線を落とし、甘く、低い声で囁く。
「……君のような花が、こんな端の街で、誰かのために身を削っているなんて。……僕と一緒に来ないか? 世界中の美しい景色を、君の瞳に見せてあげたい。君には、もっと豪華なドレスと、数えきれないほどの宝石が似合うはずだ」
彼の顔が、ぐっと近づく。整いすぎた容貌が目の前に迫り、香木のような、どこか危険で甘い香りが鼻をくすぐった。心臓が、ドクンと跳ねる。明らかな誘惑だとは分かったが、目を離せない。
「あ、あの、カインさん……私は、今の生活が……」
ドキドキとして、言葉がうまく出てこない。その時だった。
「——死ね」
極短で絶対的な死の宣告と共に、カインの首筋に銀色のナイフの先端が突き立てられた。ギルベルトだ。彼はいつの間にかカインの背後に立ち、その瞳からは一切の光が消えている。
「一秒だ。その不浄な手を、俺のエルセから離す猶予を一秒だけやる。……一秒後には、お前の必要ない舌を引き抜いて、塩漬けにしてから海に放り投げる」
「……おっと。怖い番犬様だ」
カインは、首筋にナイフを当てられながらも、余裕の微笑みを崩さない。彼はゆっくりとエルセリアの手を離し、両手を上げて見せる。
「嫉妬かい? 哀れだね。……君のような男には、彼女を照らす光を遮ることしかできない。彼女が今、私の言葉にときめいたのがわからなかったのかい?」
「黙れ。……エルセが動揺されたのは、お前の顔面が異常なほど不気味だからだ。……エルセ、大丈夫です。今すぐこの男の顔を、原形を留めないほどに加工して差し上げますから」
「ギル、やめて! カインさんも、からかわないでください!」
エルセリアは慌てて二人の間に割って入った。酒場中の視線が、彼ら三人に集まっている。
「……ふふ。今日はこのくらいにしておきましょうか」
カインは優雅に立ち上がり、エルセリアの手に——ギルベルトが声を上げるよりも早く——唇を寄せた。
「エルセ。君の鼓動の音、しっかり聞こえたよ。……また明日。次は、二人きりで会える場所を用意しておくよ」
カインは風のように酒場を去っていった。後に残されたのは、真っ赤になって立ち尽くすエルセリアと、怒りと絶望と独占欲で、もはや物理的に黒い霧を発し始めているギルベルトだった。
「……エルセ!! あの男に、ときめいたのですか!? 俺の十数年の言葉よりも、あいつの一分にも満たない口説き文句が勝ったのですか!? 嘘だと言ってください、今すぐ俺を殴って『あなたが一番よ』と仰ってください!!」
「ギ、ギル……! 声が大きいわ!」
エルセリアはギルベルトを宥めるのに必死だったが、心の片隅で、カインのあの碧い瞳を思い出して、少しだけ、本当に少しだけ、胸の奥がざわついていた。
——その夜、ギルベルトが寝室の扉の前で「美形を撲殺するための呪文」をブツブツと唱え続け、マルタに「うるさい」と冷水を浴びせられたのは、もはや言うまでもない。その呪文が効果を成したら、ギルベルトにも影響があるのは明白なことであるのに。
中心にいるのは、先日エルセリアが助けた旅人のカインだ。彼はバルドスから「この街に来たあんたを歓迎しよう!」と振る舞われた酒を優雅に煽りながら、竪琴を手に、聴く者すべてを酔わせるような甘い声で歌っている。
「エルセ。もう帰りましょう。あんな、顔面だけが資本の軟弱な男の歌を聴くのは、鼓膜に対する冒涜です。なんなら、俺が今すぐ、地獄の底から響くような鎮魂歌を響かせて差し上げます」
「ギル、失礼よ。カインさんは、私にお礼がしたいと仰ってくださったのですから」
エルセリアは、隣で凄まじい殺気を放ちながら彼女の袖を握りしめているギルベルトを宥めた。 やがて一曲歌い終えたカインが、弾けるような拍手の中、迷いのない足取りで彼女たちのテーブルへとやってくる。
「……待たせましたね、僕の女神」
カインは、ギルベルトが椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がるのを完全に無視し、エルセリアの真正面に座った。至近距離で見る彼の碧い瞳はまるで深い海の底のように澄んでいて、そこに灯りが反射してキラキラと輝いている。
「先日は本当にありがとう。君の差し出してくれた薬……あぁ、あれは単なる薬ではない。私の乾いた魂を潤す、奇跡の雫だった」
「そ、そんな、大袈裟ですよ。私は当たり前のことをしただけで……」
「いいや、当たり前ではない。君の手が僕の頬に触れたとき、僕は生まれて初めて、この世界に神がいるのだと確信した。……ねえ、エルセ。君のその美しい指先は、今も誰かの傷を癒やしているのかい?」
カインさんが、テーブル越しにそっとエルセリアの手を包み込んだ。その指先は驚くほど綺麗で細いけれど、力強い。彼は彼女の手の甲に視線を落とし、甘く、低い声で囁く。
「……君のような花が、こんな端の街で、誰かのために身を削っているなんて。……僕と一緒に来ないか? 世界中の美しい景色を、君の瞳に見せてあげたい。君には、もっと豪華なドレスと、数えきれないほどの宝石が似合うはずだ」
彼の顔が、ぐっと近づく。整いすぎた容貌が目の前に迫り、香木のような、どこか危険で甘い香りが鼻をくすぐった。心臓が、ドクンと跳ねる。明らかな誘惑だとは分かったが、目を離せない。
「あ、あの、カインさん……私は、今の生活が……」
ドキドキとして、言葉がうまく出てこない。その時だった。
「——死ね」
極短で絶対的な死の宣告と共に、カインの首筋に銀色のナイフの先端が突き立てられた。ギルベルトだ。彼はいつの間にかカインの背後に立ち、その瞳からは一切の光が消えている。
「一秒だ。その不浄な手を、俺のエルセから離す猶予を一秒だけやる。……一秒後には、お前の必要ない舌を引き抜いて、塩漬けにしてから海に放り投げる」
「……おっと。怖い番犬様だ」
カインは、首筋にナイフを当てられながらも、余裕の微笑みを崩さない。彼はゆっくりとエルセリアの手を離し、両手を上げて見せる。
「嫉妬かい? 哀れだね。……君のような男には、彼女を照らす光を遮ることしかできない。彼女が今、私の言葉にときめいたのがわからなかったのかい?」
「黙れ。……エルセが動揺されたのは、お前の顔面が異常なほど不気味だからだ。……エルセ、大丈夫です。今すぐこの男の顔を、原形を留めないほどに加工して差し上げますから」
「ギル、やめて! カインさんも、からかわないでください!」
エルセリアは慌てて二人の間に割って入った。酒場中の視線が、彼ら三人に集まっている。
「……ふふ。今日はこのくらいにしておきましょうか」
カインは優雅に立ち上がり、エルセリアの手に——ギルベルトが声を上げるよりも早く——唇を寄せた。
「エルセ。君の鼓動の音、しっかり聞こえたよ。……また明日。次は、二人きりで会える場所を用意しておくよ」
カインは風のように酒場を去っていった。後に残されたのは、真っ赤になって立ち尽くすエルセリアと、怒りと絶望と独占欲で、もはや物理的に黒い霧を発し始めているギルベルトだった。
「……エルセ!! あの男に、ときめいたのですか!? 俺の十数年の言葉よりも、あいつの一分にも満たない口説き文句が勝ったのですか!? 嘘だと言ってください、今すぐ俺を殴って『あなたが一番よ』と仰ってください!!」
「ギ、ギル……! 声が大きいわ!」
エルセリアはギルベルトを宥めるのに必死だったが、心の片隅で、カインのあの碧い瞳を思い出して、少しだけ、本当に少しだけ、胸の奥がざわついていた。
——その夜、ギルベルトが寝室の扉の前で「美形を撲殺するための呪文」をブツブツと唱え続け、マルタに「うるさい」と冷水を浴びせられたのは、もはや言うまでもない。その呪文が効果を成したら、ギルベルトにも影響があるのは明白なことであるのに。
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