死に戻り令嬢は逃げ出したい ~前世で私を殺した暗殺者が、「一生離しません」と忠犬になって追いかけてきます~

ラム猫

文字の大きさ
29 / 63

第29話 碧い彼の誘惑

しおりを挟む
 その日の夜。港町セレンで最も活気のある酒場『潮風の亭』は、異様な熱気に包まれていた。

 中心にいるのは、先日エルセリアが助けた旅人のカインだ。彼はバルドスから「この街に来たあんたを歓迎しよう!」と振る舞われた酒を優雅に煽りながら、竪琴を手に、聴く者すべてを酔わせるような甘い声で歌っている。

「エルセ。もう帰りましょう。あんな、顔面だけが資本の軟弱な男の歌を聴くのは、鼓膜に対する冒涜です。なんなら、俺が今すぐ、地獄の底から響くような鎮魂歌を響かせて差し上げます」
「ギル、失礼よ。カインさんは、私にお礼がしたいと仰ってくださったのですから」

 エルセリアは、隣で凄まじい殺気を放ちながら彼女の袖を握りしめているギルベルトを宥めた。 やがて一曲歌い終えたカインが、弾けるような拍手の中、迷いのない足取りで彼女たちのテーブルへとやってくる。

「……待たせましたね、僕の女神」

 カインは、ギルベルトが椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がるのを完全に無視し、エルセリアの真正面に座った。至近距離で見る彼の碧い瞳はまるで深い海の底のように澄んでいて、そこに灯りが反射してキラキラと輝いている。

「先日は本当にありがとう。君の差し出してくれた薬……あぁ、あれは単なる薬ではない。私の乾いた魂を潤す、奇跡の雫だった」
「そ、そんな、大袈裟ですよ。私は当たり前のことをしただけで……」
「いいや、当たり前ではない。君の手が僕の頬に触れたとき、僕は生まれて初めて、この世界に神がいるのだと確信した。……ねえ、エルセ。君のその美しい指先は、今も誰かの傷を癒やしているのかい?」

 カインさんが、テーブル越しにそっとエルセリアの手を包み込んだ。その指先は驚くほど綺麗で細いけれど、力強い。彼は彼女の手の甲に視線を落とし、甘く、低い声で囁く。

「……君のような花が、こんな端の街で、誰かのために身を削っているなんて。……僕と一緒に来ないか? 世界中の美しい景色を、君の瞳に見せてあげたい。君には、もっと豪華なドレスと、数えきれないほどの宝石が似合うはずだ」

 彼の顔が、ぐっと近づく。整いすぎた容貌が目の前に迫り、香木のような、どこか危険で甘い香りが鼻をくすぐった。心臓が、ドクンと跳ねる。明らかな誘惑だとは分かったが、目を離せない。

「あ、あの、カインさん……私は、今の生活が……」

 ドキドキとして、言葉がうまく出てこない。その時だった。

「——死ね」

 極短で絶対的な死の宣告と共に、カインの首筋に銀色のナイフの先端が突き立てられた。ギルベルトだ。彼はいつの間にかカインの背後に立ち、その瞳からは一切の光が消えている。

「一秒だ。その不浄な手を、俺のエルセから離す猶予を一秒だけやる。……一秒後には、お前の必要ない舌を引き抜いて、塩漬けにしてから海に放り投げる」
「……おっと。怖い番犬様だ」

 カインは、首筋にナイフを当てられながらも、余裕の微笑みを崩さない。彼はゆっくりとエルセリアの手を離し、両手を上げて見せる。

「嫉妬かい? 哀れだね。……君のような男には、彼女を照らす光を遮ることしかできない。彼女が今、私の言葉にときめいたのがわからなかったのかい?」
「黙れ。……エルセが動揺されたのは、お前の顔面が異常なほど不気味だからだ。……エルセ、大丈夫です。今すぐこの男の顔を、原形を留めないほどに加工して差し上げますから」
「ギル、やめて! カインさんも、からかわないでください!」

 エルセリアは慌てて二人の間に割って入った。酒場中の視線が、彼ら三人に集まっている。

「……ふふ。今日はこのくらいにしておきましょうか」

 カインは優雅に立ち上がり、エルセリアの手に——ギルベルトが声を上げるよりも早く——唇を寄せた。

「エルセ。君の鼓動の音、しっかり聞こえたよ。……また明日。次は、二人きりで会える場所を用意しておくよ」

 カインは風のように酒場を去っていった。後に残されたのは、真っ赤になって立ち尽くすエルセリアと、怒りと絶望と独占欲で、もはや物理的に黒い霧を発し始めているギルベルトだった。

「……エルセ!! あの男に、ときめいたのですか!? 俺の十数年の言葉よりも、あいつの一分にも満たない口説き文句が勝ったのですか!? 嘘だと言ってください、今すぐ俺を殴って『あなたが一番よ』と仰ってください!!」
「ギ、ギル……! 声が大きいわ!」

 エルセリアはギルベルトを宥めるのに必死だったが、心の片隅で、カインのあの碧い瞳を思い出して、少しだけ、本当に少しだけ、胸の奥がざわついていた。



 ——その夜、ギルベルトが寝室の扉の前で「美形を撲殺するための呪文」をブツブツと唱え続け、マルタに「うるさい」と冷水を浴びせられたのは、もはや言うまでもない。その呪文が効果を成したら、ギルベルトにも影響があるのは明白なことであるのに。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

じゃない方の私が何故かヤンデレ騎士団長に囚われたのですが

カレイ
恋愛
 天使な妹。それに纏わりつく金魚のフンがこの私。  両親も妹にしか関心がなく兄からも無視される毎日だけれど、私は別に自分を慕ってくれる妹がいればそれで良かった。  でもある時、私に嫉妬する兄や婚約者に嵌められて、婚約破棄された上、実家を追い出されてしまう。しかしそのことを聞きつけた騎士団長が何故か私の前に現れた。 「ずっと好きでした、もう我慢しません!あぁ、貴方の匂いだけで私は……」  そうして、何故か最強騎士団長に囚われました。

ヤンデレ旦那さまに溺愛されてるけど思い出せない

斧名田マニマニ
恋愛
待って待って、どういうこと。 襲い掛かってきた超絶美形が、これから僕たち新婚初夜だよとかいうけれど、全く覚えてない……! この人本当に旦那さま? って疑ってたら、なんか病みはじめちゃった……!

3回目巻き戻り令嬢ですが、今回はなんだか様子がおかしい

エヌ
恋愛
婚約破棄されて、断罪されて、処刑される。を繰り返して人生3回目。 だけどこの3回目、なんだか様子がおかしい 一部残酷な表現がございますので苦手な方はご注意下さい。

うっかり結婚を承諾したら……。

翠月 瑠々奈
恋愛
「結婚しようよ」 なんて軽い言葉で誘われて、承諾することに。 相手は女避けにちょうどいいみたいだし、私は煩わしいことからの解放される。 白い結婚になるなら、思う存分魔導の勉強ができると喜んだものの……。 実際は思った感じではなくて──?

村娘あがりの娼婦ですが、身請けされて幸せです

春月もも
恋愛
村を飛び出して王都に来たリリアは、いまは高級娼婦として生きている。 ここは通過点のはずだった。 誰かに選ばれて終わる物語なんて、わたしには関係ないと思っていたのに。 触れない客。 身体ではなく、わたしの話を聞きに来るだけの商人。 「君と話す時間を、金で買うのが嫌になった」 突然の身請け話。 値札のついた自分と向き合う三日間。 選ばれるのではなく選ぶと決めたとき、 通過点は終わりになる。 これは救いではなく対等な恋の話。

一途に愛した1周目は殺されて終わったので、2周目は王子様を嫌いたいのに、なぜか婚約者がヤンデレ化して離してくれません!

夢咲 アメ
恋愛
「君の愛が煩わしいんだ」 婚約者である王太子の冷たい言葉に、私の心は砕け散った。 それから間もなく、私は謎の襲撃者に命を奪われ死んだ――はずだった。 死の間際に見えたのは、絶望に顔を歪ませ、私の名を叫びながら駆け寄る彼の姿。 ​……けれど、次に目を覚ました時、私は18歳の自分に戻っていた。 ​「今世こそ、彼を愛するのを辞めよう」 そう決意して距離を置く私。しかし、1周目であれほど冷酷だった彼は、なぜか焦ったように私を追いかけ、甘い言葉で縛り付けようとしてきて……? ​「どこへ行くつもり? 君が愛してくれるまで、僕は君を離さないよ」 ​不器用すぎて愛を間違えたヤンデレ王子×今世こそ静かに暮らしたい令嬢。 死から始まる、執着愛の二周目が幕を開ける!

どうして私が我慢しなきゃいけないの?!~悪役令嬢のとりまきの母でした~

涼暮 月
恋愛
目を覚ますと別人になっていたわたし。なんだか冴えない異国の女の子ね。あれ、これってもしかして異世界転生?と思ったら、乙女ゲームの悪役令嬢のとりまきのうちの一人の母…かもしれないです。とりあえず婚約者が最悪なので、婚約回避のために頑張ります!

わんこ系婚約者の大誤算

甘寧
恋愛
女にだらしないワンコ系婚約者と、そんな婚約者を傍で優しく見守る主人公のディアナ。 そんなある日… 「婚約破棄して他の男と婚約!?」 そんな噂が飛び交い、優男の婚約者が豹変。冷たい眼差しで愛する人を見つめ、嫉妬し執着する。 その姿にディアナはゾクゾクしながら頬を染める。 小型犬から猛犬へ矯正完了!?

処理中です...