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第31話 変わらぬ日常
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エルセリアは、いつも通りの、けれど少しだけ賑やかすぎる日常の中にいた。
「エルセ。その薬瓶を持つ指が、わずかに震えています。……さては、昨夜のあの男の甘言が、遅効性の毒となってあなたの神経を蝕んでいるのですね!? 今すぐ俺がその記憶を脳内から掻き出して差し上げます!」
「……ギル。これは単に、昨日リナちゃんと一緒にたくさん薬草を擂り潰したからくる筋肉痛よ」
開店前の『薬屋エルセ』。ギルベルトはエルセリアの背後にぴたりと張り付き、彼女の呼吸一つ、指先の動き一つを、まるで精密機械を操る技師のような目で見守っている。
カインが現れて以来、彼の「エルセリア防衛本能」はついに限界突破したようで、今や彼女の半径一メートル以内は彼にとっての聖域と化していた。
「エルセ、朝食です。今日はあなたのお腹の調子を完璧に整えるため、俺が自ら野山を駆け巡り、最も元気なヤギから絞り出したミルクと、最高級のハチミツを用意しました。さあ、俺の膝の上で召し上がってください」
「膝の上は結構よ。マルタ、助けて」
カウンターの向こうで、本日分の往診記録を整理していたマルタが彼女らを一瞥した。
「ギルベルト。あなたの膝はお嬢様の椅子ではありません。……あと、その料理仕込みはどうしたのですか? 厨房で異様な香りがしていますが」
「あぁ、あれはバルドスが『精がつくものを』と持ってきた肉です。エルセを狙う不届き者を一瞬で塵にするための筋肉を維持するために、俺が美味しく調理しました」
(……この家の人たちは、どうしてこうも食事に並々ならぬ執念を燃やすのかしら)
◇ ◇ ◇
昼時、お店の扉が開いた。 入ってきたのは、常連の漁師の奥さんだ。
「エルセ先生! ちょっと聞いてよ、あの新入りの詩人の男! 今日も広場で先生のことを『潮風に咲く紫の奇跡』なんて歌ってたわよ。もう、街中の娘たちがメロメロなんだから」
ギルベルトの持っていたペンが、メキリと音を立てて二つに折れた。
「……そうですか。あの方は、表現が少し独特ですものね……」
「独特どころじゃないわよ! 先生、気をつけてね。あんな色男、どこで女を泣かせてきたかわかりゃしないんだから」
奥さんが去った後、店内の気圧が目に見えて下がった。ギルベルトは無言で店の入り口に『本日、美形の詩人は出禁』という看板を掲げようとしたが、マルタに無言で後頭部を叩かれ、阻止されていた。
◇ ◇ ◇
夕暮れ時、往診の帰りにエルセリアたちは港の波止場を歩いていた。潮の香りが鼻をくすぐり、オレンジ色の光が海面を琥珀色に染める。
「……ギル。さっきから、ずっと黙っているわね」
彼女の半歩後ろを歩くギルベルトが、珍しく静かだった。彼は彼女の影を踏まないように歩きながら、ぽつりと呟いた。
「エルセ。……俺は、自分が汚れていることを自覚しています。カインのような、表の光を纏った男があなたに囁くたび、俺は……あなたを地下深くに隠してしまいたいという衝動に駆られる」
彼は立ち止まり、エルセリアの手を取った。その手はわずかに震えている。
「俺は、あなたの騎士です。忠実な僕です。……でも、もしあなたが、あんな男の輝きを本気で好むと言うのなら……俺は……」
「ギル」
エルセリアは彼の手を両手で包み込み、その金色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「カインさんの歌は確かに美しいわ。でも、それは私にとって、遠くで鳴っている笛の音のようなもの。……私の心を本当に温めてくれるのは、毎日私の隣で、不器用なくらい一生懸命に私を守ろうとしてくれる、あなたの存在なのよ」
「エルセ……」
「あなたが私を隠さなくても、私はどこへも行きません。……だから、そんなに悲しい顔をしないで?」
ギルベルトは一瞬、言葉を失ったように目を見開く。やがて、彼は深々と頭を下げ、私の手に額を押し当てた。
「……あぁ、やはり俺は、死ぬまであなたの所有物です。……エルセ。明日からは、カインが歌うたびに、僕がその三倍の声量であなたの素晴らしさを叫び続けます。覚悟しておいてください」
「それは恥ずかしいから、やめてね」
エルセリアの笑い声が、琥珀色の波に溶けていく。
「さあ、帰りましょう。今夜はマルタが珍しい異国の料理を作ってくれるって言っていたわ」
「はい。……エルセ、もしあの男が夕食に混ざろうとしたら、俺が皿の中に毒草ではなく真の恐怖を盛り付けておきますから」
「……ほどほどにね」
平和な、あまりにも平和なセレンの夜。エルセリアたちは並んで、自分たちの帰る場所へと歩き出した。
「エルセ。その薬瓶を持つ指が、わずかに震えています。……さては、昨夜のあの男の甘言が、遅効性の毒となってあなたの神経を蝕んでいるのですね!? 今すぐ俺がその記憶を脳内から掻き出して差し上げます!」
「……ギル。これは単に、昨日リナちゃんと一緒にたくさん薬草を擂り潰したからくる筋肉痛よ」
開店前の『薬屋エルセ』。ギルベルトはエルセリアの背後にぴたりと張り付き、彼女の呼吸一つ、指先の動き一つを、まるで精密機械を操る技師のような目で見守っている。
カインが現れて以来、彼の「エルセリア防衛本能」はついに限界突破したようで、今や彼女の半径一メートル以内は彼にとっての聖域と化していた。
「エルセ、朝食です。今日はあなたのお腹の調子を完璧に整えるため、俺が自ら野山を駆け巡り、最も元気なヤギから絞り出したミルクと、最高級のハチミツを用意しました。さあ、俺の膝の上で召し上がってください」
「膝の上は結構よ。マルタ、助けて」
カウンターの向こうで、本日分の往診記録を整理していたマルタが彼女らを一瞥した。
「ギルベルト。あなたの膝はお嬢様の椅子ではありません。……あと、その料理仕込みはどうしたのですか? 厨房で異様な香りがしていますが」
「あぁ、あれはバルドスが『精がつくものを』と持ってきた肉です。エルセを狙う不届き者を一瞬で塵にするための筋肉を維持するために、俺が美味しく調理しました」
(……この家の人たちは、どうしてこうも食事に並々ならぬ執念を燃やすのかしら)
◇ ◇ ◇
昼時、お店の扉が開いた。 入ってきたのは、常連の漁師の奥さんだ。
「エルセ先生! ちょっと聞いてよ、あの新入りの詩人の男! 今日も広場で先生のことを『潮風に咲く紫の奇跡』なんて歌ってたわよ。もう、街中の娘たちがメロメロなんだから」
ギルベルトの持っていたペンが、メキリと音を立てて二つに折れた。
「……そうですか。あの方は、表現が少し独特ですものね……」
「独特どころじゃないわよ! 先生、気をつけてね。あんな色男、どこで女を泣かせてきたかわかりゃしないんだから」
奥さんが去った後、店内の気圧が目に見えて下がった。ギルベルトは無言で店の入り口に『本日、美形の詩人は出禁』という看板を掲げようとしたが、マルタに無言で後頭部を叩かれ、阻止されていた。
◇ ◇ ◇
夕暮れ時、往診の帰りにエルセリアたちは港の波止場を歩いていた。潮の香りが鼻をくすぐり、オレンジ色の光が海面を琥珀色に染める。
「……ギル。さっきから、ずっと黙っているわね」
彼女の半歩後ろを歩くギルベルトが、珍しく静かだった。彼は彼女の影を踏まないように歩きながら、ぽつりと呟いた。
「エルセ。……俺は、自分が汚れていることを自覚しています。カインのような、表の光を纏った男があなたに囁くたび、俺は……あなたを地下深くに隠してしまいたいという衝動に駆られる」
彼は立ち止まり、エルセリアの手を取った。その手はわずかに震えている。
「俺は、あなたの騎士です。忠実な僕です。……でも、もしあなたが、あんな男の輝きを本気で好むと言うのなら……俺は……」
「ギル」
エルセリアは彼の手を両手で包み込み、その金色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「カインさんの歌は確かに美しいわ。でも、それは私にとって、遠くで鳴っている笛の音のようなもの。……私の心を本当に温めてくれるのは、毎日私の隣で、不器用なくらい一生懸命に私を守ろうとしてくれる、あなたの存在なのよ」
「エルセ……」
「あなたが私を隠さなくても、私はどこへも行きません。……だから、そんなに悲しい顔をしないで?」
ギルベルトは一瞬、言葉を失ったように目を見開く。やがて、彼は深々と頭を下げ、私の手に額を押し当てた。
「……あぁ、やはり俺は、死ぬまであなたの所有物です。……エルセ。明日からは、カインが歌うたびに、僕がその三倍の声量であなたの素晴らしさを叫び続けます。覚悟しておいてください」
「それは恥ずかしいから、やめてね」
エルセリアの笑い声が、琥珀色の波に溶けていく。
「さあ、帰りましょう。今夜はマルタが珍しい異国の料理を作ってくれるって言っていたわ」
「はい。……エルセ、もしあの男が夕食に混ざろうとしたら、俺が皿の中に毒草ではなく真の恐怖を盛り付けておきますから」
「……ほどほどにね」
平和な、あまりにも平和なセレンの夜。エルセリアたちは並んで、自分たちの帰る場所へと歩き出した。
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