死に戻り令嬢は逃げ出したい ~前世で私を殺した暗殺者が、「一生離しません」と忠犬になって追いかけてきます~

ラム猫

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第32話 愉悦する王子

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 クレイウス王国第一王子執務室にて。
 豪奢な装飾が施されたその場所に、心底楽しそうな笑い声が響き渡った。

「——はははは! 傑作だ! あの『碧眼の蛇』ともあろう男が、女一人を前にしてこれほどまで情緒を乱されるとはな!」

 クレイウス王国第一王子、エドワード・フォン・クレイウスは、カインから届けられた『極秘報告書』をデスクに叩きつけ、椅子の背もたれに体を預けた。彼の目の前には、報告書を届けに来た連絡員の工作員が、冷や汗を流しながら直立不動で控えている。

「見ろ、この一文を。『クレイウスの王宮は三日で血の海に沈む』……くっ、カインの奴、番犬とやらによほど酷い目に遭わされたらしい」

 エドワードは、報告書に記された「ギルベルト」という男の記述を指でなぞった。

 一国の王子として、本来であれば我が国の精鋭を凌駕する化け物の存在には警戒すべきだ。だが、生まれながらにして退屈を嫌うこの王子にとって、カインの報告書は極上の冒険小説よりも刺激的だった。

「アスムート王国の捨てられた聖女。そして、彼女を囲む地獄の番犬たち。……面白すぎる。これほど面白い駒が隣国の港町に転がっているというのに、ここでじっとしていられるほど、私はつまらない人間ではないのだよ」
「閣下……まさか」

 連絡員が嫌な予感に声を震わせる。エドワードは、三日月のような不敵な笑みを浮かべた。

「ああ、そのまさかだ。準備をしろ。私もセレンへ向かう」
「なっ……! 閣下、あそこは他国の領土です! しかもカインの報告によれば、迂闊に近づけば命の保証はないと——」
「だからこそ行くのだ。カインが絶対に来るなとくどいほど書いているが、気にしなくともよい。幸い、我が国とアスムートは現在、表向きは平穏だ。親善を兼ねたお忍びの旅……という名目はいくらでも作れる」

 エドワードは立ち上がり、窓の外を見やった。彼が興味を抱いたのは、単純に聖女を一目見ることではない。地位も名誉も捨てた元公爵令嬢が、如何にして彼の腹心である暗殺者を唸らせる番犬を飼い慣らし、街一つを自分の色に染め上げたのか。その奇跡の正体を、自身の目で確かめたくて堪らなくなったのだ。

「カインが毒見をしたのなら、私はそのメインディッシュを味わいに行こう。……ああ、そうだ。せっかくだから、最高級の贈り物を用意しろ。何がいいかな? 薬草の種か、あるいは……番犬がさらに発狂しそうな、極上のドレスか」

 エドワードの瞳に、子供のような純粋さと、捕食者のような冷酷さが混ざり合った光が宿る。彼はカインの報告書を丁寧に折り畳み、懐に収めた。



 ◇ ◇ ◇



 そんな嵐の予感など露ほども知らない『薬屋エルセ』では、今日も今日とて平和な(?)日常が続いていた。

「エルセ。なぜか、朝から背筋に不快な寒気が走ります。これはおそらく、昨日沈めた不届き者の怨念ではなく、さらに巨大な無礼者がこの街に近づいている不吉な予兆です」
「ギル、ただの風邪ではないの? ほら、特製の葛湯を飲んでみて」
「エルセが淹れてくださった葛湯……! あぁ、これを飲めば、たとえ死神が軍勢を率いて攻めてきても、小指一本で追い返せる気がします!」

 ギルベルトがエルセリアの手から器を受け取り、恍惚とした表情でそれを啜っている横で、マルタが窓の外の街道を険しい目で見つめていた。

「……お嬢様。ギルの直感は、こういう時だけは当たります。どうやら、カインという毒蛇だけでは飽き足らず、さらに質の悪い猛獣がこの街の門を叩こうとしているようですね」
「えっ? 猛獣……?」

 エルセリアが首を傾げたその時。街の入り口の方から、場違いなほど華やかな馬車の鈴の音が聞こえてきた。


 カインが 「……あの馬鹿、来るなと書いたのに本当に来やがった……」と額を押さえて絶望したのは、その数分後のことである。
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