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第38話 氷の番犬は変わらない
しおりを挟む港町セレンを離れて数日。馬車が走る景色は、穏やかな緑から、命を拒絶するような黄金色の砂丘へと姿を変えていた。灼熱の太陽が沈んだ後の砂漠は、昼間の熱狂が嘘のように、骨まで凍てつくような冷気に包まれる。
「……うぅ、寒い……」
野営の火を囲みながら、エルセリアは厚手の毛布を被って身を震わせていた。砂漠の夜がこれほどまでに極端だなんて、想像もしていなかった。
「エルセ! 今すぐ火龍を狩ってきて、その心臓を燃料にして周囲を常夏に変えてみせます。お待ちください」
「ギル、落ち着いて。魔獣を探しに行ったらあなたが戻ってこれなくなるかもしれないもの」
ギルベルトは焦燥に駆られた様子で、自分の漆黒のジャケットを脱ぎ、エルセリアの肩にさらに重ねた。彼の体温が残る布地は温かいが、それでも砂漠の冷気は容赦なく入り込んでくる。
「……エルセリア、無理をさせてすまないな。我が国の夜は、不慣れな者には毒だ」
エドワードが申し訳なさそうに、自分に巻かれた高級な毛皮を差し出そうとしたが、その手はギルベルトの「触れたら斬る」という無言の圧力によって空中で静止した。
「暴君、お気遣いなく。エルセの体温管理は、俺の最優先事項です。誰にも邪魔させません。……カイン、お前はあっちで竪琴でも弾いて、少しでも空気を震わせて摩擦熱を発生させろ」
「無茶を言わないでくれ……。指が凍えて動かないよ」
カインは焚き火のすぐそばで小さくなって丸まっている。マルタはといえば、手際よく温かいスープを淹れ、皆に配っていた。
「お嬢様、これを。ギルベルト、そんなに殺気立っていては、お嬢様が緊張して余計に体温が下がります。……いいですか、今は『実用性』を取りなさい」
マルタの言葉に、ギルベルトが「……っ!」と何かに気づいたように目を見開いた。
「実用性……。そうか。俺という肉体は、エルセを守るための盾であり、そして——暖炉!」
「えっ、ギル……?」
言うが早いか、ギルベルトはエルセリアの背後に回り込み、毛布の上から彼女を包み込むように抱きしめた。
「な、何を……っ」
「エルセ、失礼します。俺の体は今、あなたへの愛で太陽よりも熱く燃え盛っています。この熱を、無駄にするわけにはいきません。……さあ、俺の体温をすべて吸い取ってください」
厚い胸板が彼女の背中に密着する。驚くほど温かい。彼の体温は、氷のような風を完全に遮断していた。
耳元で、彼の少しだけ速い心音と、低く心地よい声が響く。
「……ギル、恥ずかしいわ。みんなが見ている……」
「あいつらは岩だと思ってください。あるいは、砂粒です。ここには、俺とエルセの二人しかいません」
正面では、エドワードが「……羨ましい。私も参加していいか?」と言いかけてカインに口を塞がれ、マルタは無言でスープを啜りながら「勝手になさい」というオーラを出している。
次第に、強張っていたエルセリアの体が解けていった。ギルベルトの腕の中は、世界で一番安全で、そして甘美な檻のようだ。セレンの波の音はないけれど、彼の心音がその代わりに彼女の不安を打ち消してくれる。
「温かいわ、ギル」
「光栄です。エルセ、あなたが眠るまで、俺は一睡もせず、この熱を保ち続けます。……たとえ俺の血が蒸発しようとも、あなたを冷えさせることはありません」
重すぎる愛の言葉。しかし、その温もりに包まれて、エルセリアはいつの間にか深い眠りへと落ちていった。
翌朝、目が覚めたとき。エルセリアの周りには、ギルベルトが夜通し放ち続けたであろう魔力の余韻が残り、砂漠の冷気から彼女を完璧に守り抜いていた。
当の本人は一睡もしていないはずなのに、「エルセの寝息を十六時間分記憶しました。これで三日は飲まず食わずで戦えます」と、清々しい笑顔で馬の準備を始めていたのだが。
旅路はまだ続く。しかし、ギルベルトがいれば、どんな過酷な砂漠も怖くない——そう思ってしまう自分に、エルセリアは少しだけ困り果ててしまうのだった。
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