曇りのち晴れはキャシー日和

mic

文字の大きさ
上 下
2 / 49
プロローグ

プロローグ ②

しおりを挟む
「用意はいいか?」修太郎さんは僕のため息をブレイクするように言った。「物理的な用意のことじゃない、心の準備のことだ。念のため」
「はい」と僕は蚊が鳴くよりも数段小さな声を出した。もちろん、心の中ではライオンの咆哮のような大きな声で、「いいわけないだろう」と叫んでいたのだけれど。
 修太郎さんは満足げにうなずいて、上着の内ポケットからそれを取り出した。新聞紙に包まれたものをテーブルの上に置き、いかにも演技がかった動きでゆっくりと包みを開いていく。それが冷たい体を現すと、修太郎さんは反応を確かめるかのようにちらと僕の顔を見る。僕の体細胞が凝縮する。小心者の反応を楽しむかのように片頬を上げて微笑んだ修太郎さんは、僕の前にそいつを滑らせた。大型ナイフの冷たくて艶めかしい刃が蛍光灯の光に応えた。
「まずはそのスマホを閉まっておきな」修太郎さんはアゴで僕のスマホを指し示した。「じゃ、行くぞ」
 修太郎さんが勢いよく立ち上がった。椅子が威勢のいい音を立てて倒れる。それが合図だったかのように、僕も立ち上がった。店内の全員が僕たちに注目する。
 修太郎さんが内ポケットから別のナイフを取り出して肩口に構えた。僕の耳元で「グッドラック」とささやくと、まっすぐにカウンターに滑り寄った。
「さあ、これの意図するところはわかるだろう?」修太郎さんがナイフを頭上に掲げた。刃の表面で光がうねった。「ありったけの金をだすか、それとも、店内を血で染めるか、どちらかを選択しな」
 ボックス席にいたカップルが、ピンと背筋を伸ばした。あっけにとられていた顔が、みるみるうちに強張っていく。目だけが慌ただしく左右に動く。僕たちを横目で見ながら、入り口との距離を計っている様子だ。
「う、動くな」僕はナイフを構えながら、入り口に歩み寄った。「じっとして。そのまま座っていてください」
 僕の様子を首を傾げながら見ていた修太郎さんは、軽くうなずくと、マスターに向き直った。「あんたがこの状況を回収しろ」刃先でマスターの顔を指し示す。「とは言っても、たいした時間はやれない。十秒以内で返事をくれ」
 マスターは引きつった顔でサイフォンを置いた。店内の全員の顔を見回した後、視線を修太郎さんに戻した。「わかった。金ならやる。だから、お客さんは解放してくれ」
「最良の選択だ」修太郎さんがうなずく。懐から布袋を取り出して、カウンターに置いた。「この中に詰めてほしいものはわかっているな。手早くお願いするよ」
 マスターは小さくうなずいてから布袋を手にした。レジスターを開ける。一瞬、修太郎さんの顔を盗み見たマスターは、レジスターの中のものを布袋に突っ込んだ。
 え? あれって。
 マスターの様子を見ていた僕は、口をポカンとあけた。僕の位置からはカウンター内がよく見える。だから、マスターがレジスターから取り出したものが何だったかわかったのだ。あれはお札じゃない、チケットのたぐいだ。たぶん──そう、コーヒーチケットか何かじゃないだろうか、この店の。少なくともお金じゃない。
 僕は修太郎さんに、あの、と声をかけた。でも、修太郎さんはシッと口を鳴らして僕をさえぎった。マスターに向き直る。
「よし、じゃあ、その袋をもらおうか」袋を握りしめた修太郎さんは、そのままゆっくりと入り口に向かって後ずさりした。「騒がせちまったな。じゃあ引き続き、昼下がりのまったりとした時間を楽しんでくれ」
 修太郎さんがくるりと入り口のほうを向いたときだった。僕があっと声を出す間もなく、カウンターを回り込んできたマスターが修太郎さんに飛びかかった。後方からしがみついて首を絞める。
 修太郎さんがナイフを落とした。床の上のナイフに目をやった修太郎さんは、それを足で蹴り、僕のほうへ滑らせた。そして、苦しさに顔を歪めながら、両手を上げてマスターの頭をつかんだ。二人はもみ合いになった。
 ふいに、マスターが腕を離して一歩下がった。修太郎さんがマスターのほうを向いた。二人は荒い息をつきながらじっとにらみ合った。その間、約十秒。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

コウモリ令嬢は婚約者に会えない

恋愛 / 完結 24h.ポイント:85pt お気に入り:1,176

「正義って、なに?」

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

日隠人

現代文学 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

深夜水溶液

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:4

【完結】絵師の嫁取り

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:79

いつか、あの日の戦場で。

SF / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

大切なもの

ライト文芸 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...