曇りのち晴れはキャシー日和

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第一章 箱に集う人々

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 姉貴とおバカな会話をし、トランプやチェスで頭を使い、マンガや小説を寝転がって読んでも、まだ日は高い。プチ家出を始めて数時間しか経っていないのに、もう退屈という名の強敵が僕たち二人を襲ってきた。姉貴の塗るマニキュアの匂いが車内に充満し、窒息しそうになる。窓を少しだけ開け、その隙間に口を当てて深呼吸する。おう、空気が美味い。いや、美味いと思う。なにせ、これだけの木々に囲まれているのだ、美味くないはずがない。たぶん。
 自分の味覚と感性に自信が持てない僕は、森林の贈り物を楽しむことを諦めて姉貴を振り返った。
「ねえ、カゴの中の鳥って、思った以上に退屈なのかもしれないね」僕は姉貴のピンク色に変身した爪を眺めながら言う。「限られた空間だからかな。刺激や変化に乏しいし」
「それって、つまり、家出って思った以上に退屈なものかもしれないと言いたいわけ?」姉貴は爪をいろいろな方向から眺めた。ときおり反対の爪で、はみ出した部分をコリコリと削り取っている。「なによあんた、もう音を上げたの? そんなんじゃ、世間の家出ピープルに顔向けできないわよお」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」僕は窓の外を眺めた。お隣りの家からは、このワゴンは見えない。ということは、この車からも、お隣りの家は見えないということだ。家だけじゃない。なにもかもが見えない。見えるのは、広大な庭に生い茂っている木々だけだ。
 公彦ちゃん、と姉貴が僕に目を向けた。「もしかしたら、お父さんとお母さん、まだ机の上の遺書を見ていないかもしれないわよ。帰るなら、今かもね」
「だから、そんなんじゃないって」僕は姉貴を一瞥してから再び森のような窓の外に目を向けた。「姉貴こそ帰ったら? この車、一応シャワー設備もあるようだけど、今は使えないし、トイレだってコンビニか公園に行かなきゃならないし、なにかと面倒だよ」
「あたしはまだやることがあるの。あんたこそ、帰りなさい」
「やることって何?」
「まだ足の爪を塗っていない」
 僕は急におかしくなって吹き出した。笑いは次第に僕の全身を支配し、座席に座ってダルマのように揺れながら笑い転げた。姉貴はそんな僕を見ているのか見ていないのか、僕が姉貴に目を向けたときは、反対の手の爪を塗る作業に取りかかっていた。
 笑いの収まった僕は、それでもまだ呼吸の乱れたままの状態で姉貴を見た。えくぼの見え隠れする彼女の頬を見ていると、急に姉貴と別れた旦那が憎らしく思えてきた。バカ野郎め、と口の中で小さくつぶやく。
「ん? 何か言った?」姉貴が作業の手を止めて僕を見た。
「いや、何でもない」僕は変化のない窓の外に目を向けた。「でも、ありがと。気を遣ってくれて」
「んん? 何か言った?」
「聞こえてるくせに。何度も言わすな、バカ姉貴」
「そうだ。いいことを思いついた」姉貴が大きくうなずく。「修太郎を呼び出しちゃおう。彼、こういうイベントって大好物なんだよね。ソッコーで飛んでくると思う。修太郎がいると、絶対に退屈しないよお」
「それはそうかもしれないし、修太郎さんがこういうイベントを好きだというのも理解できる」僕は慌てて姉貴のほうを向いた。「でも、よしなって。なんかこう、事が大きくなるような気が。なんだかイヤな予感がする」
「バカねえ。そんなはずないでしょ。絶対に楽しいって。じゃ、オーケーってことで電話するね」僕の了解を得ることなく、姉貴はスマホを取り出した。
 まいったな、もう。このイベントの主役は僕だったはずだ。一人、感傷に浸る予定が大きく狂ってしまいそうだ。ああ、どうなるんだろう、僕のプチ家出は。僕がため息をつきながら首を振ったとき、バスの外にはやっと夕暮れの気配が漂い始めた。
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