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第三章 出会いは風のごとく
⑬
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やっとキャシー号の二台前の車が乗船を開始する。次の次は僕たちの番だ。修太郎さんがシートの上で腰を動かして運転のポジションを安定させる。
「あ。あの暴走族さんたち、私たちに気づいたみたいです」立石さんが窓ガラスに頬を押しつけて後方を見る。顔の油がベッタリと付着し、視界を歪ませている。「見て下さい。こっちを指さしています。なにやら叫んでいます。私たち、もう終わりなんでしょうか。花火を見ることなく、ここでジ・エンドということなのでしょうか」
僕は立石さんから少し離れて窓の外を見た。ヤバい。広誠連合の連中が車に乗ってこっちに走ってきた。台数は──四台。いや、五台か。そんな数に囲まれたらキャシー号に逃げ場はない。
「まいったなあ。次があたしたちの番なのに」姉貴がドアの内張をバンと叩いた。「前の車、ノロいわね。もっと速く進んでよ。ジェットエンジンくらい、積んでいなさいよ」
広誠連合の車がみるみるうちに近づいてくる。彼らがキャシー号の前に立ちはだかって乗船ができなくなれば、僕たちはみんな車から引きづり出されるかもしれない。ああいう連中は、回りの状況などお構いなしに実力行使に出ると思う。僕たちに用があるのなら、きちんと車の列に並んでくれ、と言いたいところだけれど、一般人の常識など通用しないだろう。
もうダメだ。万事休すか──と思ったとき、ドデカいクラクションが鳴り響いた。
横から大型トラックが飛び出してきた。キャシー号ギリギリのところで停まる。回りの係員が、アリのようにシャカシャカと走って逃げた。
急ブレーキの音が悲鳴のようにいくつも連なった。トラックにぶつかりそうになり、あわててブレーキを踏んだ広誠連合の車だろう。
思いがけない出来事に息を止めていたかもしれない僕は、やっと状況が把握できた。キャシー号と広誠連合の車の間に、大型トラックが割り込んできたのだ。
トラックの運転席から、誰かが顔を出した。にっこり笑ったのは守さんだ。
「よかった。間に合った」守さんが親指を立てた。「この近くで広誠連合の車を見かけたのでね。君たちを探している様子だったから急いで港に来たんだ。さあ、今のうちに乗船して」
修太郎さんが、サンキュー、この礼はいつか必ずと言ってハンドルを握った。
花ちゃんが、ちょっと待ってくださいと言って窓を開けた。ミニひまわりを守さんに差し出す。「あの、お礼です。どうぞ」
「おお、かわいいひまわりだね。もらっていいいのかい? ありがとう」
修太郎さんは小さく手を上げて、キャシー号を発進させた。フェリーの中に進む。乗船完了。
守さんは僕たちの乗船を見てから軽く手を上げた。そして、何事もなかったかのように走り去った。
取り残された広誠連合の連中は、あっけにとられている様子だった。獲物にも逃げられ、獲物を逃がした者にも去られた屈辱感は、かなりのものだろう。連中は怒りの矛先を係員に向けたようだったけれど、もちろん解決にはならない。切符を持っていないのでフェリーに乗ることもできない。リーダーと思しき男が、怒りにまかせてそばにあったバケツを蹴った。変形したバケツは回転しながら飛んでいき、海に落ちた。
「ふう。危機一髪ってとこね」姉貴がシートにもたれた。首を左右に振る。「やれやれ。花火を見るのも楽じゃないわね」
「ま、結果オーライってところか」姉貴のシャツを盛り上げている胸をちらと見てから、修太郎さんがシートベルトを外した。「さて。松山に到着するまで三時間ほどある。客室でまったりとしようぜ」
僕たちはキャシー号を下りた。神経をすり減らすような出来事が緊張を招き、背中や腰がギシギシと文句を言っている。みんなは牢から出た囚人のように一斉に伸びをした。
ああ疲れた背中が痛い腰が痛いと言いながら、僕も長々と伸びをする。
菜々実が「年寄りじみたセリフが似合うなんて珍しい高校生ね」と僕の背中を強く叩いた。「普通、高校生っていうのは、あたしのようにエネルギッシュなものよ。あんた、ほんとは実年齢をごまかしているんじゃない?」
僕は鼻を鳴らして客室に向かう階段に向かった。昌枝さんが湯飲み茶碗を持ったまま階段を上っていくのを見て苦笑する。あれってもしかして風呂に入るときと寝るとき以外は、手放さないんじゃないんだろうか。
階段の手すりに手を掛けてからふと思った。菜々実を振り返る。「お前、お菓子は持ってこなくていいのか?」
「あ。忘れてた」菜々実が世界の終わりのような顔をする。「お菓子がないと、あたしは生きていけないのよ」
急いでキャシー号へ引き返す菜々実は、途中で僕を振り返る。「あんた、そこで待ってなさいよ。先に行ったら承知しないんだから」
はいはい、と僕はため息をついて壁にもたれた。
だいぶ薄れてきたとはいえ、逃げ遅れた車の排気ガスの匂いが鼻の奥を刺激する。僕は呼吸を細く長く行い、吸い込む酸素の量を調整する。ま、なんの効果もないんだろうけれど。
僕と菜々実以外は、もう客室に入った。みんながこのフェリーに乗っているのは、その先に花火を見に行くという共通目的があるからだ。
プチ家出。僕は口に出してみる。そう、きっかけは僕のプチ家出だったはずだ。それが、いつの間にか花火大会を見に行くということになってしまった。
僕はもう一度、プチ家出と声に出してみた。ものすごい違和感が口の中に残り、顔をしかめる。吐き出してしまったほうがいいんだろうな、僕の最初の目的は。
僕はうん、と大きくうなずいて深呼吸する。肺に侵入してきた排気ガスの匂いとともに、口の中に残った違和感を吐き出す。
不思議なことに、このキャシー号に乗った目的が僕の中で上書きされ、フェリーの隙間から見える空の色まで変化したように思えた。
菜々実が戻ってきた。お菓子で膨らんだコンビニ袋を掲げて。
お宝を手にしたように微笑む彼女の顔を見て苦笑しながらも、僕は微笑みを返した。
それは、今日、僕の中で一番いい微笑みだったと思う。
「あ。あの暴走族さんたち、私たちに気づいたみたいです」立石さんが窓ガラスに頬を押しつけて後方を見る。顔の油がベッタリと付着し、視界を歪ませている。「見て下さい。こっちを指さしています。なにやら叫んでいます。私たち、もう終わりなんでしょうか。花火を見ることなく、ここでジ・エンドということなのでしょうか」
僕は立石さんから少し離れて窓の外を見た。ヤバい。広誠連合の連中が車に乗ってこっちに走ってきた。台数は──四台。いや、五台か。そんな数に囲まれたらキャシー号に逃げ場はない。
「まいったなあ。次があたしたちの番なのに」姉貴がドアの内張をバンと叩いた。「前の車、ノロいわね。もっと速く進んでよ。ジェットエンジンくらい、積んでいなさいよ」
広誠連合の車がみるみるうちに近づいてくる。彼らがキャシー号の前に立ちはだかって乗船ができなくなれば、僕たちはみんな車から引きづり出されるかもしれない。ああいう連中は、回りの状況などお構いなしに実力行使に出ると思う。僕たちに用があるのなら、きちんと車の列に並んでくれ、と言いたいところだけれど、一般人の常識など通用しないだろう。
もうダメだ。万事休すか──と思ったとき、ドデカいクラクションが鳴り響いた。
横から大型トラックが飛び出してきた。キャシー号ギリギリのところで停まる。回りの係員が、アリのようにシャカシャカと走って逃げた。
急ブレーキの音が悲鳴のようにいくつも連なった。トラックにぶつかりそうになり、あわててブレーキを踏んだ広誠連合の車だろう。
思いがけない出来事に息を止めていたかもしれない僕は、やっと状況が把握できた。キャシー号と広誠連合の車の間に、大型トラックが割り込んできたのだ。
トラックの運転席から、誰かが顔を出した。にっこり笑ったのは守さんだ。
「よかった。間に合った」守さんが親指を立てた。「この近くで広誠連合の車を見かけたのでね。君たちを探している様子だったから急いで港に来たんだ。さあ、今のうちに乗船して」
修太郎さんが、サンキュー、この礼はいつか必ずと言ってハンドルを握った。
花ちゃんが、ちょっと待ってくださいと言って窓を開けた。ミニひまわりを守さんに差し出す。「あの、お礼です。どうぞ」
「おお、かわいいひまわりだね。もらっていいいのかい? ありがとう」
修太郎さんは小さく手を上げて、キャシー号を発進させた。フェリーの中に進む。乗船完了。
守さんは僕たちの乗船を見てから軽く手を上げた。そして、何事もなかったかのように走り去った。
取り残された広誠連合の連中は、あっけにとられている様子だった。獲物にも逃げられ、獲物を逃がした者にも去られた屈辱感は、かなりのものだろう。連中は怒りの矛先を係員に向けたようだったけれど、もちろん解決にはならない。切符を持っていないのでフェリーに乗ることもできない。リーダーと思しき男が、怒りにまかせてそばにあったバケツを蹴った。変形したバケツは回転しながら飛んでいき、海に落ちた。
「ふう。危機一髪ってとこね」姉貴がシートにもたれた。首を左右に振る。「やれやれ。花火を見るのも楽じゃないわね」
「ま、結果オーライってところか」姉貴のシャツを盛り上げている胸をちらと見てから、修太郎さんがシートベルトを外した。「さて。松山に到着するまで三時間ほどある。客室でまったりとしようぜ」
僕たちはキャシー号を下りた。神経をすり減らすような出来事が緊張を招き、背中や腰がギシギシと文句を言っている。みんなは牢から出た囚人のように一斉に伸びをした。
ああ疲れた背中が痛い腰が痛いと言いながら、僕も長々と伸びをする。
菜々実が「年寄りじみたセリフが似合うなんて珍しい高校生ね」と僕の背中を強く叩いた。「普通、高校生っていうのは、あたしのようにエネルギッシュなものよ。あんた、ほんとは実年齢をごまかしているんじゃない?」
僕は鼻を鳴らして客室に向かう階段に向かった。昌枝さんが湯飲み茶碗を持ったまま階段を上っていくのを見て苦笑する。あれってもしかして風呂に入るときと寝るとき以外は、手放さないんじゃないんだろうか。
階段の手すりに手を掛けてからふと思った。菜々実を振り返る。「お前、お菓子は持ってこなくていいのか?」
「あ。忘れてた」菜々実が世界の終わりのような顔をする。「お菓子がないと、あたしは生きていけないのよ」
急いでキャシー号へ引き返す菜々実は、途中で僕を振り返る。「あんた、そこで待ってなさいよ。先に行ったら承知しないんだから」
はいはい、と僕はため息をついて壁にもたれた。
だいぶ薄れてきたとはいえ、逃げ遅れた車の排気ガスの匂いが鼻の奥を刺激する。僕は呼吸を細く長く行い、吸い込む酸素の量を調整する。ま、なんの効果もないんだろうけれど。
僕と菜々実以外は、もう客室に入った。みんながこのフェリーに乗っているのは、その先に花火を見に行くという共通目的があるからだ。
プチ家出。僕は口に出してみる。そう、きっかけは僕のプチ家出だったはずだ。それが、いつの間にか花火大会を見に行くということになってしまった。
僕はもう一度、プチ家出と声に出してみた。ものすごい違和感が口の中に残り、顔をしかめる。吐き出してしまったほうがいいんだろうな、僕の最初の目的は。
僕はうん、と大きくうなずいて深呼吸する。肺に侵入してきた排気ガスの匂いとともに、口の中に残った違和感を吐き出す。
不思議なことに、このキャシー号に乗った目的が僕の中で上書きされ、フェリーの隙間から見える空の色まで変化したように思えた。
菜々実が戻ってきた。お菓子で膨らんだコンビニ袋を掲げて。
お宝を手にしたように微笑む彼女の顔を見て苦笑しながらも、僕は微笑みを返した。
それは、今日、僕の中で一番いい微笑みだったと思う。
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