《R18》春告と紫に染まる庭《セクサロイド・SM習作》

サクラハルカ

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第6話

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 見たくないものがそこにいる。それはまどろみから醒める前にとてもよく似ていた。 

 まどろみの中で遠くから聞こえる声がする。
 その声は私を起こすためのものなのだろうか。
 幸せだと思い込んでいたそれはただの夢だよ、と現実を突きつける。
 一度鳴りはじめてしまった寂しさは、容赦無く私を迎えに来てしまう。
 でも私は、冷たい声から逃れて、起きているとも起きていないとも言えないまどろみの中に、ずっと浸っていたい。



「私を売ってもいいですよ」

 しばらく、お冷グラスの中をその傾きでぐるぐると回していた私は、心を決めて彼にそう言った。お冷が入ったグラスの中身に残った小さな氷が、縁に当たってカラリと音を立てた。
 蘭と木蓮が同じタイミングでこちらを振り向いたので、そのシンクロ度合いに、私はふふっと笑ってしまった。

「実は私、あの木蓮の刺繍以外に何もないんです」

 寂しさの渦がグラスの中で姿を消したのを見届けてから、私は自分の境遇を彼に話した。
 別に同情されたかったわけではない。ただ、あの木蓮がどういう経緯で産まれたのか、ということを知ってほしかったのだ。
 そして、私がもし、この人に買われてしまったところで特に問題はない。住む場所に拘りはない。今住んでいるところでなければ駄目だということはなく、祖母と住んでいた家から出られたら、生きる場所なんてどこでもよかったのだ。
 刺繍は売れないけれど、自分は構わない。あの木蓮と引き離されさえしなければ、どこでだって生きていける。

「そういうわけで、あれを手放すことは全く考えられないんですけど」

 一通り話終わると、彼はうんうんと頷きながら、分かったと短く言った。
 大体の人は私の境遇を知ると哀れみの目線を向けてくるのに、彼の表情は寧ろ少し、柔らかくなった気がした。

「では最初の話に戻るのだが、いくらなら君を買うことができる?」

 そうですね、と私は少し考えた。

「私、刺繍をしてる時が一番幸せなんですけど、その時間が確保できればあとは、どうだって構わないんです。しいて言うなら、あなたのお家の庭に木蓮があると嬉しいです」

「家の庭?」

 彼が不思議そうな顔をするので、私は首を傾げて言った。

「だって私を買ってくださるんですよね。あなたのお家に連れて帰ってくれるのではないのですか?」

「あ、ああ。もちろんだ」

 急に彼がふんぞり返ってそう言ったので、私は笑った。
 針金のような彼は胸を張ったところで、人を買って帰るような雰囲気は微塵も感じられなかった。その付き添いらしからぬ木蓮は、私と彼との商談に信じられないというような表情を向けている。
 彼もやっぱり、全然アンドロイドには見えない。

「嬉しいです、ありがとうございます」

 私がそういうと、ではこれからよろしく頼む、と彼が手を出してきた。
 何をよろしくされたのかは定かではなかったが、私はその手を迷わずに握り返した。ゴツゴツと節くれだった手は、持ち主の過剰な糖分摂取のせいか、温かく、少し汗ばんでいた。

 彼と手を離すと、唐突に人恋しさが迫ってきて、もう少し手を握っていたいなと思うくらいには、飢えていたらしい。彼の汗が残った手を膝の上に置いて見ていると、それを目ざとく認めて、木蓮は

「貴女も変だ」

 と、短く言った。でも、その表情は柔らかく笑んでいて、紫の双眸には私がしっかりと映っていた。



 そうやって蘭に買われた私はそのまま彼に連れられて、東京の郊外にある彼の自宅にやってきた。

 初めて降りた東京駅はとても大きく感じた。
 驚くほどたくさんの列車が行き交うホームを、二人の後ろをキョロキョロしながら、刺繍作品ばかりが詰まったボストンバッグを抱えてついていった。新幹線や列車の窓から見える都市は夜だというのに不必要なくらいキラキラしていて、人の多さと夜の鱗のような人工光に少し目眩がした。

 東京駅で乗り換えて、列車で一時間くらい。蘭の住処は、東京駅と同じ東京を住所の頭に冠する癖して、その家やその周りは全然キラキラしていなかった。むしろ私と祖母が暮らしていたような家にそっくりで、そして誰かと一緒というその状況に安心して、古びた玄関をくぐった。

 私は彼にダイニングに通されて、コーヒーを出された。
 淹れてくれたのは木蓮。
 蘭は冷蔵庫からラムネを出して、ビー玉の栓を押し開けていた。冷蔵庫を開けた時に、そこに大量のラムネの瓶が詰まっているのが見えた。

 さて、とラムネの首のところの引っ掛かりに季節外れのビー玉を引っ掛けながら、蘭はせわしなく瞳を動かした。白髪混じりのボサボサ頭に似合わぬ真っ黒な瞳が、ビー玉のようにコロコロと彼の瞳の中を転がっていた。

「君はたった今からここに住む一員になるわけだが、記号がないと不便だな」

「記号……」

「そうだな、もうすぐ春である事だし、春告にしよう。君はこれから春告だ」

 一方的に名前を決められて、私のそれまでの名前は、一瞬のうちにクシャクシャにされてゴミ箱に投げ入れられた。
 彼はゴミには見向きもせず、私を春告、としか呼ばなかった。

 それから非常に事務的に、家のことを説明された。
 この母屋の中であれば、どこへ行っても何をしてもいいということ。
 勝手に家の外に出てはいけない、出るならば木蓮に許可を得て彼とともに行くこと。
 西隣にある彼の作業場には、絶対に入らないこと。

 それが終わって、蘭はスッと私のボストンバッグに視線を移す。
 何も言われなくても、わかった。
 私は中から丁寧に折りたたんだ木蓮の刺繍を出そうとしたが、蘭がそれを止める。

「万が一、珈琲でもかかったら大事おおごとだ」

 彼はそういうと、私を居間へ案内して、床の間の前に座らせた。

 ここに春告の木蓮を飾りたい。

 そう言う彼の言葉を聞きながら、私は藍色の聚楽壁に囲まれた深い色を持つそこを見つめた。
 深淵のような空間が口を開けて、こちらを見つめ返していた。




 その時から私は、彼風に言うならば、春告という記号を与えられてこの家にいる。
 引っ越しとか、その他色々な手続きはあったけれど、遺産相続に比べて全部あっさりと終わってしまった。
 その諸々の煩雑な処理に木蓮が付き合ってくれて、彼がただ見目のいいアンドロイドではないことが分かったのだった。

春告はるつげ、コーヒー飲まないの、冷めるよ?」

 木蓮の声で、意識を現実に戻される。
 久しぶりに蘭との出会いを思い出した。

 そういえば、もうすぐ彼の命日。
 私の祖母も、両親も。みんな何故か春先にいなくなってしまった。
 蘭は私に春告という記号をくれたけれど、嫌がらせだろうかと思うくらいに、冬の終わりには別れのイメージがある。

 刺繍ごと蘭に買われてしまった私には、もう何もないはずだけれど、目の前にいる木蓮はずっといてくれるのだろうか。最近、そのことばかりが気になる。

 蘭が亡くなってもうすぐ四年目になる。
 最近、木蓮を欲しいという話をちらほらと聞くようになって、私は不安になっていた。

 コーヒーをすすりながら、タブレット端末の画面を見つめてニュース画面をざっと流している木蓮を見つめる。ルービックキューブは机の上に置かれていた。

 いなくならないで、と心の中で言ったはずなのに、画面を追っていた紫の瞳がこちらを向いた。

「何、なんか言った?」

「ううん、何も言ってないわ」

 私は慌てて、首を横に振った。
 雪のせいか、私達のたてる音以外は、しんっと静まり返った朝だった。
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