六影相剋――目覚めたら荒野だった記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う

いぬぬっこ

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第一章 影走

第一話 赤霄原に目覚める

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夜は、あまりにも静かだった。

山脈を越えて吹き下ろす風が、 赤霄原せきしょうげんを撫でる。乾ききった枯草が擦れ合い、ざわ、と低い音を立てるだけ。虫の声も、獣の気配もない。
まるで、この地そのものが、何かを恐れて息を潜めているかのようだった。

月は雲に隠れ、星もない。
闇は深く、重く、空そのものが地上を見ないふりをしている。

その闇の中央に――
一人の少年が立っていた。

黒髪は肩にかかるほど長く、手入れもされていない。白い肌は荒野の土で汚れ、薄い灰色の衣はところどころほつれている。
だが、それ以上に目を引くのは、その表情のなさだった。

感情が、ない。
恐怖も、戸惑いも、怒りも。

硝子玉のような無感情な瞳で、少年はただ、世界を見ていた。

名前も、過去も、理由も――何一つ、思い出せない。
自分がなぜここにいるのかすら、分からない。

腰には細剣。
そして、使い古された符袋。

それだけが、かろうじて「生きている」証のように感じられた。

霧が、ゆっくりと動いた。

冷たい霧の向こうから、足音が一つ。
規則正しくもなく、荒くもない。まるで、地形そのものを測るような歩き方。

「――そこの者」

低く、落ち着いた声。

少年は、反射的に剣の柄を握った。
身体はまだ重く、関節の動きもぎこちない。それでも、危険を察知する感覚だけは、妙に鋭かった。

霧の中から現れたのは、一人の男だった。

黒髪を後ろで束ね、灰青の軽装に身を包む。袖や裾には細かな補修跡。腰には細剣と符、香袋。
旅慣れた装い。だが、どこか余裕がある。

軽く笑みを浮かべているが、目だけは鋭い。
すべてを観察し、計算する者の目だ。

「剣を抜く判断は早い。悪くない」

男は、一定の距離を保ったまま、両手を軽く上げる。

「安心しろ。今のところ、君を斬るつもりはない」

少年は答えない。
答えられない。

「……記憶がない、か」

まるで見抜いたかのように、男は呟いた。

「名前は?」

沈黙。

風が吹き、霧が揺れる。
その瞬間だった。

――ギィ、と、空気が裂けた。

霧の奥から、赤い光が走る。
次の瞬間、九本の尾を持つ影が跳躍した。

 霧狐焔むこえん

赤く揺らめく尾。半透明の体。瞳は獣のそれではなく、どこか人を嘲るような冷たさを宿している。
霧と炎が混ざり合った異形。近づくだけで、肌が粟立つ。

「……来るぞ!」

男の声と同時に、妖が襲いかかる。

少年は剣を抜いた。
だが、遅い。

爪が風を裂き、岩に叩きつけられる。衝撃が骨に響き、息が詰まる。

――速い。

身体が、ついてこない。
剣を振る。だが、軌道は甘く、空を切るだけ。

尾が迫る。視界が赤く染まる。

その瞬間――

世界が、静止した。

 霧狐焔むこえんの動きが、わずかに“読めた”。
次にどこへ踏み込むか。
どの角度で爪が来るか。

理由は分からない。
だが、確信だけがあった。

――今だ。

少年の剣が、最小限の軌道で走る。
浅い。致命には届かない。だが、確かに妖の体を裂いた。

 霧狐焔むこえんが甲高い声を上げる。

「……ほう」

感心したような声。

次の瞬間、男が動いた。

踏み込みは軽く、無駄がない。剣と掌が連動し、妖の動きを完全に封じる。
一閃。
霧と炎が霧散し、妖は地に崩れ落ちた。

静寂が戻る。

荒野に、朝の気配が差し込み始めていた。

少年は、その場に立ち尽くす。
心臓が、遅れて強く脈打つ。

「……完全な素人じゃないな」

男は剣を収め、少年を見た。

「未熟だが、感覚がある。しかも厄介なタイプだ」

少年は首を傾げる。

「まあいい」

男は肩をすくめ、空を仰いだ。
雲が切れ、赤霄原に朝日が差し込む。朱色の光が、荒野の傷跡を浮かび上がらせる。

「君の名前だが――」

少年の白い肌と、夜明けの光を見て、男は言った。

 白黎 はくれい。白い黎明だ」

名が与えられた瞬間、少年の胸の奥で、何かが静かに動いた。

まだ眠る力。
まだ思い出せない過去。

だが確かに――
運命の歯車は、回り始めていた。
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