六影相剋――目覚めたら荒野だった記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う

いぬぬっこ

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第一章 影走

第二話 一椀の粥に名を預ける

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 赤霄原せきしょうげんを離れると、街道は少しずつ息を吹き返していった。

 轍わだちの跡。
荷を積んだ 驢馬ろばの足音。
炭と油、香辛料が混じった匂い。

昼前、二人は街道沿いの小さな飯館に入った。

板張りの床は擦り減り、歩くたびに低く軋む。壁には木札の品書きが掛けられ、墨文字が所々滲んでいる。天井から下がる赤い布灯が、白い湯気に揺れていた。

粥。
麺。
蒸籠。

腹を満たすための、最低限の料理。

 白黎はくれいは、入口から少し奥の席に腰を下ろした。
背後は壁。視線は自然と店内全体を捉える位置だ。

客は多くない。
行商が一人。
剣を帯びた若者が二人。
酒を前に、声を潜めて話す男たち。

――今のところ、危険はない。

向かいに、昨夜出会った男が座る。

黒髪を後ろで束ね、旅慣れた軽装。
軽い笑みを浮かべているが、目は常に周囲を測っていた。

「腹は減ってるか」

男が聞く。

 白黎はくれいは短く頷き、品書きを一瞥して答える。

「……粥と、野菜」

「随分と控えめだな」

そう言いながら、男も同じものを頼んだ。

ほどなくして、器が運ばれてくる。
白粥の表面に、かすかに油が浮いている。

 白黎はくれいは、すぐには箸を取らなかった。

器の欠け。
匂い。
男の手元。

一拍で確認してから、ようやく口に運ぶ。

熱い。
だが、表情は変わらない。

男はその様子を見て、小さく息を吐いた。

「……生き方が出る」

独り言のように言い、粥をすすった。

しばらく、器の触れ合う音だけが続く。

「昨日の夜」

男が、前を向いたまま言った。

「剣を抜く判断が早い。
だが、焦りがない」

 白黎はくれいは黙って聞いている。

「どこで身につけた?」

少し考え――
 白黎はくれいは首を横に振った。

「覚えてない」

嘘ではなかった。

思い出そうとしても、何も浮かばない。
ただ、こう動くべきだという感覚だけが残っている。

男は一瞬だけ 白黎はくれいを見て、肩をすくめた。

「なら、仕方ないな」

干し肉を裂きながら、淡々と続ける。

「型はない。だが、無駄もない。
門派の教えじゃない」

その言葉に、 白黎はくれいの手がわずかに止まる。

意味は分からない。
だが、胸の奥に、微かな違和感が走った。

湯気が揺れ、視界が白く曇る。

 白黎はくれいは、向かいの男を見た。

昨夜から行動を共にし、
剣を見せ合い、
こうして食事までしている。

――それでも、名を知らない。

 白黎はくれいが視線を向けたことに、男は気づいたらしい。
ふっと笑った。

「名前、か」

 白黎 はくれいは、静かに口を開いた。

 白黎はくれいだ」

名を告げると、胸の奥がわずかに軽くなる。
それは、自分がここにいる証のようだった。

男は一拍置いてから言った。

 燕秋 えんしゅうだ」

軽い口調。
だが、嘘ではない。

 流雲衆りゅううんしゅうの者だ」

 白黎はくれいは、その言葉を聞いても、
すぐには反応しなかった。

意味は、分からない。
名に紐づく記憶も、浮かばない。

ただ――
その言い方だけが、妙に引っかかった。

 燕秋えんしゅうはそれ以上説明せず、勘定を置いて立ち上がる。

「名を交わした以上、縁はできた」

外に出ると、昼の街道は眩しかった。
人の声。
荷車の軋む音。

江湖は、何事もなかったかのように動いている。

「行き先は同じだろう」

 燕秋えんしゅうは振り返り、軽く手を上げた。

「しばらく、同行しよう」

 白黎はくれいは一瞬だけ迷い――
それから、後を追った。

剣の重さ。
腹に残る温かさ。
そして、名を知った男の背中。

街道飯館に立つ湯気の向こうで、
二人の道は、静かに重なり始めていた。
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