六影相剋――記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う

いぬぬっこ

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第一章 影走

第二話 一椀の粥に名を預ける 後半

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昼前、二人は街道沿いの小さな飯館はんかんに入った。

板張りの床は擦り減り、歩くたびに低く軋む。
壁には木札の品書きが掛けられ、墨文字がところどころ滲んでいる。
天井から下がる赤い布灯が、白い湯気に揺れていた。

入口をくぐった瞬間、鼻が先に満たされる。
粥の米がほどける匂い。
湯に落ちた葱の青い香り。
炒め油の熱。
干し肉を炙った焦げ。
湯気の奥に、塩の鋭さが薄く立つ。

粥。麺。蒸籠せいろ――。
腹を満たすための最低限の料理。
けれど、その「最低限」に、白黎の身体は今ひどく惹かれていた。
熱いものが欲しい。塩が欲しい。水が欲しい。

白黎は入口から少し奥の席に腰を下ろした。
背後は壁。視線は自然と店内全体を捉える位置だ。
自分がそうしていると気づいて、少しだけ眉が動いた。
誰に教わったわけでもないのに、こうするのが当たり前だと身体が知っている。

客は多くない。
行商ぎょうしょうが一人。剣を帯びた若者が二人。
酒を前に声を潜めて話す男たちが一卓。
隅には、荷の紐を締め直している老人がいる。
土の匂いのする旅人たちの間に、炭の粉が舞う。

向かいに、霧の朝に出会った男が座る。

黒髪を後ろで束ね、旅慣れた軽装。
軽い笑みを浮かべているが、目は常に周囲を測っていた。
笑みのせいで柔らかく見えるのに、視線の動きだけは刃のように鋭い。

女主人が木椀を二つ置き、湯を注ぐ。
湯気が顔の前でほどけ、白黎の頬に熱が当たった。
生きている、という感覚が遅れて追いついてくる。

「腹、減ってる?」

男が聞く。

白黎は短く頷き、品書きを一瞥して答える。

「……はい。粥と、野菜。あと、湯を」

「いいね。今の君には、それが一番ましだ」

男は女主人に向け、言った。

「蒸し餅も二つ。柔らかいのを」

女主人は無言で頷き、奥へ引っ込む。
鍋の蓋が鳴り、湯気が一段濃くなった。

ほどなくして器が運ばれてくる。
白粥の表面に、かすかに油が浮いている。
葱が少し、刻まれて散っているだけだが、その緑がやけに鮮やかに見えた。
菜は塩だけで炒めた素朴なものだが、湯気が甘い。
蒸し餅は指で押すと戻るほど柔らかく、表面がしっとりしている。

白黎は、すぐには箸を取らなかった。

器の欠け。匂い。湯の温度。男の手元。視線の動き。客の呼吸。床の軋み。戸口の風。
一拍で確認してから、ようやく口に運ぶ。

熱い。
舌の先が痛むほど熱い。
なのに、身体がほっと緩む。
表情は変わらないが、胸の奥が少しだけ温まるのが分かった。
粥が喉を通って落ちるまでの道筋が、内側からほぐれていく。

男はそれを見て、小さく息を吐いた。

「……生き方が出るね」

独り言のように言い、自分も粥をすすった。

しばらく、器の触れ合う音だけが続く。
外の街道のざわめきが、板壁越しに遠く聞こえる。
明け方の霧が嘘みたいだ。

そのとき、酒の卓から他の客たちの言葉がぽつぽつと落ちてきた。

「この先の橋、昨日から片側通行だとよ。板が落ちたって」
「またか。あの橋は補修より先に銭が落ちるな」
「言うな。役人の耳がある」
「役人? ここにいるのはぜにより飯に目がいく奴ばかりさ」

小さな笑いが起き、すぐに消える。

「……護送を頼むなら三人は要る。二人だと狙われる」
「腕の良し悪しじゃない。この筋の鉄板の話だ。数が見えると、小物は面倒を避けて通る」
「面倒が避けて通るなら、最初からこの商売はしてねぇ」

器の音だけが重なった。

少し間を置いて、別の声が落ちた。

赤霄原せきしょうげんの霧、また抜けたらしいぞ」
「抜けた?」
「ああ。普段は甘ったるくて鉄みたいな味がするだろ。それが妙に澄んでやがる。……ああいう朝は、何かが出た後だ」

笑いは起きない。

「出たのは霧狐焔むこえんか?」
「違う。もっと細いのだ。影みたいで、音がしない。気づいたときには足元が軽くなる」

「……虚喰きょぐいだろ」
誰かが、喉の奥で言った。

器の触れ合う音が止まる。

「やめろ。その名は縁起が悪い」
「悪いのは名じゃねぇ。あれは喰った跡が残らん。荷だけ落ちて、人だけ抜ける」

さらに声が混じる。

霜灯村そうとうむらの方じゃ、夜は戸を二重にしてるらしい」
「村の名を出すな。余計な耳が寄る」
「もう寄ってるさ。……上の連中が動いてるって話だ」

一瞬だけ沈黙が落ちる。

隅の卓で、誰かが杯を置いた。
音は小さいのに、やけに重く響いた。

「……そういや、西の街じゃ最近また酒楼しゅろうに語り部が呼ばれてるってよ」
「西で?」
「ああ。衡崩の夜こうほうのよるの話だ。席が埋まるってさ」

「縁起でもねぇ」
「縁起が悪いほど、銭になる。霧が濃くなると、ああいう話が売れる」

「その語り部、確か……あの夜をそとから見てた家系の末裔まつえいだとか」
「聞いたことある。輪の外にいた記録者の家系だってよ」

「ふん。どうせ作り話つくりばなしだ」

それ以上、誰も続けなかった。
匙で掬って、底を見せる前に戻したみたいに。

男の箸が一度だけ止まった。止めたのは耳だ。
白黎は意味を掴めないまま、胸の奥だけが僅かに硬くなるのを感じた。

男は、白黎の視線がほんの一瞬、酒の卓へ滑ったのを見て、何も言わずに粥をすすった。
止めもしないし、促しもしない。道の人間のやり方だ。

「今朝のこと」

男が、前を向いたまま言った。
声は小さい。だが白黎の耳にははっきり届く。

「霧狐焔の尾を見て追わなかった。――気配で拾った」

白黎の箸が止まる。

「……覚えてません」

「うん。覚えてたら、君はもう少し嫌な顔をする」

男は蒸し餅を半分に割り、湯気を逃がしてから口に入れた。
粥よりも重い熱が、ゆっくりと喉を落ちていく。

白黎もそれを真似るように、餅を小さくちぎって口に運ぶ。
柔らかい。歯が要らないほどだ。
噛むたびに小麦の甘さが滲む。
胃がようやく「食べ物」を受け取ったと分かる。

男は、箸を置かずに言った。声は軽いまま、芯だけが硬い。

「ここみたいな飯屋は、耳が多い。客だけじゃない。女主人も、出入りの荷運びも、隣の席もだ。
一つの話が、夕方には別の町に着く」

白黎は黙って頷いた。

男は続ける。

「今朝のことを武芸自慢の話にして広めたら――次は確かめたい奴が来る。
金を出して雇いたい奴も、怖がって先に潰したい奴もいる。どっちも面倒だ」

一拍。

「だから、強さの話は外でしない。特に、誰が見ても変だと思う動きはな」

白黎の箸が止まる。

「……変、ですか」

「変だよ。悪い意味じゃない。
ただ、狙われやすいって意味だ」

男は蒸し餅を割って、湯気を逃がす。

「それと――さっきの噂。霧が抜けた朝の話が出ただろ」

白黎の指先が、無意識に符袋を押さえる。

男は声を落とした。

「霧が薄くなったんじゃない。あれは抜けただけだ。
何かが通って、持っていって、残りが澄んだように見える」

白黎の喉が、小さく鳴る。

「濃い日も厄介だ。形のある妖が出やすい。霧狐焔みたいにな。
だが、抜けた朝は別の厄介が来る。――どっちも、人が油断する」

男は白黎を見ない。見ないまま言葉を置く。

「今朝、君は息を腹へ落として、痛みも怖さも遠くした。
あれは沈めたってやつだ。沈めれば、動ける」

一拍。

「でも、沈めただけで散らすと――戻るときに乱れる。
霧も同じだ。抜けたあとに油断すると、足元から持っていかれる」

「赤霄原は、まだかえれていない。千年前に裂けたままの場所だ。
……普通なら土に還るものが、還れない」

白黎は唇を動かす。

「消えた者の荷が、道端に残る」

男は目を伏せずに言った。

「そう。荷だけ落ちて、人だけ抜ける。
……私はね、その還れない理由が街道へ流れ出る前に、手の届くところで止めたい」

男はそれ以上、踏み込まない。
言い切って、そこで止める。

白黎は、向かいの男を見た。

昨夜から行動を共にし、剣を見せ合い、こうして食事までしている。
それでも、名を知らない。

白黎の視線に気づいたのだろう。男はふっと笑った。

「名前、だね」

白黎は、静かに口を開いた。

白黎はくれいです」

名を告げると、胸の奥がわずかに軽くなる。
自分がここにいる証が、ようやく一本だけ立った気がした。

男は一拍置いてから言った。

燕秋えんしゅう

軽い口調。だが嘘ではない。
名を投げるのではなく、置くように言う。だから、名が落ちない。

そして燕秋は少しだけ声を落とす。

流雲衆りゅううんしゅうの者だよ」

白黎は、その言葉を聞いてもすぐには反応しなかった。

意味は分からない。名に紐づく記憶も浮かばない。
だが――その言い方だけが妙に引っかかった。
「名乗る」と「告げる」の間の、ほんの僅かな間合いが、別の世界の作法みたいだった。

白黎の沈黙を、燕秋は急かさない。
その代わり、白黎の符袋へ一瞬だけ視線をやり、すぐに戻した。

「驚かない?」

「……分かりません」

白黎は正直に言う。

燕秋は笑みを消さず、しかし目だけは真剣にした。

「分からないなら、覚えておいて。流雲衆は、道の上で生きる。門を持たず、旗を立てず、同じ場所に根を張らない。
だからこそ、道の噂が集まる。噂が集まる場所には、面倒も混じる」

白黎は、粥を一口飲み下してから尋ねた。

「……僕を、どうするんですか」

問いは短い。だが、その短さに全部が入っている。

燕秋はすぐに答えない。
白黎の顔を見て、その無表情の奥にあるものを計るように、間を置く。

「まず、生かす」

そして、淡々と言う。

「無名で、身元もなくて、剣だけは動く。そういう人はね、街道じゃ面倒事に担がれる。
『こいつがやった』って言い張るための背中にされたり、揉め事の真ん中に置かれたりする」

白黎の眉が、僅かに動く。

燕秋は蒸し餅を指で押し、まだ熱いのを確かめてから、もう一口だけ口に入れた。

「だから最低限だけ覚えて。宿で部屋を取るときの言い方。銭の出し方。人に名を聞かれたときの返し方。
それと飯。熱いものを先に入れる。脂は後。水は一気に飲まない。道では、そういう順が命を拾う」

「……僕は、そんなのを覚える必要があるんですか」

白黎が言うと、燕秋は笑みを消さず、しかし目だけは真面目だった。

「あるよ。剣が強くても、腹を壊したら歩けない。歩けなければ、次の夜が来る。剣だけで江湖は渡れない」

白黎は言い返せなかった。
反論の言葉が出ない、というより、反論する場所がない。

熱い粥が身体に落ちていくにつれて、自分がどれだけ空っぽだったかが分かる。
空っぽの身体に、まず飯が入り、次に言葉が入る。順がある。
燕秋の言う「順」は、説教じゃなく段取りだ。

「……代わりに、僕は何を」

白黎が問う。

燕秋は少しだけ目を細めた。
笑みは薄いまま、芯だけが残る。

「借りを作るのが嫌いな顔をしてる」

白黎は否定も肯定もしない。
そもそも自分が何を嫌うのかさえ、まだ掴めていない。

燕秋は肩をすくめ、しかし言葉は誤魔化さない。

「代わりに、今は余計なことをしない。自分で危ない場所に首を突っ込まない。黙るときは黙る。言うときは、短く言う。……それだけでいい」

白黎の指先が、符袋をかすかに押さえる。

昨夜から、身体の奥が時々空っぽになる。
力が戻るほど、代わりに何かが削れる感じがする。
削れたものが何かは分からない。だが、削れているのだけは分かる。

白黎は、その感覚を飲み込み、静かに言った。

「分かりました」

燕秋は頷く。

「じゃあ、行き先を決めよう。白黎がどこへ行くべきか、今は分からない。だから、まずは人の多い場所へ行く。
人が多ければ面倒も増えるけど、情報も増える。流雲衆は、その情報で生きる」

白黎は「情報」という言葉を口の中で転がした。
意味は分からないのに、必要だと分かる。

燕秋は勘定を置いて立ち上がる。
銭の出し方は早い。見せびらかさない。だが足りない気配もない。
女主人も余計な言葉を挟まない。道の作法が、そこにある。

「名を交わした以上、縁はできた」

外に出ると、昼の街道は眩しかった。
人の声。荷車の軋む音。乾いた笑い。商いの呼び声。

江湖は、何事もなかったかのように動いている。

白黎は、その「何事もなかったか」に少しだけ息が詰まる。
明け方、霧の中で死にかけたのに、誰も知らない。誰も気にしない。
だからこそ自分はここに立っていられるのかもしれないし、だからこそいつでも消えるのかもしれない。

燕秋が振り返り、軽く手を上げた。

「行き先は同じだろう。しばらく、同行しよう。白黎が嫌になったら、そのときは言って。無理に縛る趣味はない。
ただ――言わずに消えるのはやめて。探す手間が増える」

軽い言い方の中に、妙に真剣な芯がある。

白黎は一瞬だけ迷い――それから、後を追った。

腹の底に粥の温かさが残っている。
喉には湯の熱が残り、符袋が指先だけを落ち着かせた。

燕秋の背中はまっすぐで、歩みには迷いがない。
追いつけない距離ではない。けれど――追い越す気にもならない。

(言わずに消えない)

そう決めた途端、燕秋の歩幅がほんの僅かだけ緩む。
振り返りはしないのに、呼吸が一つ、浅くなる。

その浅さに、白黎の息もつられて揃う。
呼吸が合う――それだけで、折れずに並べる。

祠で名を呼ばれた直後。
あの伏目の一拍が、同じ形で戻ってきた。

白黎の内側が、すうと冷えた。

(……次に同じことが起きたら)

――符袋の口の温かさが、急に怖くなった。
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