貴公子、淫獄に堕つ

桃山夜舟

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序章 潜入

若き宮司

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 日は次第に傾き、霧も出てきた。
 逢魔時おうまがときにふさわしく、辺りは益々寂しくなり、禍々しささえ感じる。

 本当にこんなところに社があるのか、よもや道を間違えたのではないのか。
 いや、いっそ道が間違っていて辿り着けない方がいいのかもしれない。
 そうすれば、邪教に潜入などせずに済む。
 着いたところで、信徒のふり、ましてや神子役など務まるのだろうか。

 左大臣の依頼を引き受けてから何度も去来した不安がまた胸に浮かんできた、その時だった。
 ごとりと音を立てて、牛車が止まった。
 どうやら、辿り着いてしまったらしい。


 車を降りるとそこは暗い森の中だった。
 社の入口ならば鳥居でも建っているかと思ったが、苔蒸した一抱えほどの岩が鎮座するばかりで、そのすぐ脇に傾斜の急な獣道が続いている。
 何も知らぬ者は、この先に社があるなどとは思いもよらないだろう。

「ここからは徒歩かちで参ります」

 武者たちは真霧まきりにそう告げると、手近な木に馬をつないだ。

「麓までお送りしたら戻るよう、殿とのに言われておりますんで」

 牛飼童うしかいわらわがぺこりと頭を下げ、牛車は来た道を帰ってしまった。
 帰る手段が無くなったと思うと、ますます不安が募ってゆく。

「山道は歩けぬようでしたら、抱いてお運びいたしますが」

 浮かぬ顔をしているのを道の険しさ故と思われたのか、武者にそう申し出られ、慌ててかぶりを振った。

「それには及ばぬ。く参ろう」

 真霧は微笑んでみせると、己を鼓舞するように先に立って獣道を登り始めた。
 
 

 四半刻程登ったところで、檜皮葺ひわだぶきの大きな社殿が忽然と現れた。
 門前には簡素な白の布衣ほいの信徒がおり、真霧たちを見て心得た様子で近づいてきた。

「こたびの祭の神子様方ですな。ようこそおいでになられました」

 信徒は歓迎の言葉を口にしたあと、真霧をじっと見つめた。
 値踏みするような、粘つく視線だった。

 ────もしや疑われているのだろうか。

 真霧は身を硬くした。
 教えに目覚めたばかりの熱心な信徒という触れ込みになっており、多少信徒らしくなくとも、日が浅いゆえとごまかせるはずだった。
 内心の緊張を押し隠し、おそるおそる門番を見上げる。

「何か不作法がございましたでしょうか。新参者ゆえご容赦いただきたく……」
「……ああ、いえ。かように麗しい神子様をお迎えでき、まことにありがたきことと思っておりました。さあ、こちらへ」

 門番はそう返すと、あっさりと社殿内へ招き入れた。
 どうやら疑われていたわけではなかったようだ。
 ほっと息を吐き、門番の後に続く。


 邪教の社と身構えていたが、建物の作りは都にある社寺と大きな違いはないように見えた。
 すれ違う信徒たちはみな揃いの白の布衣姿で、修行の賜物なのか屈強な体をしている。

 真霧たちに気づくと道を開けて礼を取るのだが、伏せた面の下からこちらを盗み見ているのがわかる。
 絡みつくような、奇妙に熱の籠もった視線。
 そう感じるのは、こちらが秘め事を抱えているからだろうか。


「どうぞこちらへ。宮司がお待ちです」

 そう言われ、通された奥の間には黒い布衣を纏った男がいた。
 こちらに背を向け、巻物の積まれた壁際の厨子棚ずしだなに向かっていたその男が、「神子様をお連れしました」という信徒の声に振り返る。
 男と目が合った途端、知らず息を呑んでいた。
 
 宮司という役職から想像していたより、ずっと若い。
 歳の頃は真霧と同じか、少し上くらいだろうか。
 そして、ずいぶんと背が高い。
 小柄な真霧より頭二つ分は高そうだ。
 体つきも逞しく、衣の上からもよく鍛えられていることが見て取れる。
 肩下まで伸びた髪は緩く波打ち、その髪に縁取られた面は端正だがなよやかさはない。
 何より印象的なのは目だった。
 秀でた眉の下の瞳は鋭く、全てを見透かすような力強い光を放っていた。
 明らかに他の信徒達とは雰囲気の異なる、どこか凄みのある男だ。

「よく参られた。宮司の浪月ろうげつだ」

 思わず聞き惚れるような低く艶のある声だった。
 宮司というより僧のような響きの名だ。つ国流なのかもしれない。

「こたびは、神子のお役目を務めさせていただきたくまかり越し──」

 口上を言い切る前に、ついと伸ばされた浪月の指が真霧の顎を捉え、上向かせた。
 鋭く光る双眸にひたと見下ろされ、ぞくりと背筋が震えた。
 鷹の前の雀のように体がすくみ、目を離すこともできない。

「あ……」

 どきどきと鼓動が跳ね、背を冷や汗が伝う。
 偽りの信徒であると気づかれたのだろうか。
 浪月の手は大きく、下に滑らせれば真霧の細首など簡単に絞め落とせそうだ。
 恐らくは数秒、だが真霧には何十秒にも感じられる沈黙ののち、浪月が口を開いた。

「名はなんと申す」
「ま……、真霧でございます」

 乾いた喉から声を絞り出し、どうにか答える。
 名を偽ることも考えたが、どうせ知り合いもいない。
 慣れぬ偽名でぎくしゃくとした受け答えになるよりは、まことの名で通そうと事前に決めていた。

「真霧か。見目にふさわしい、美しい名だ。そなたならば我が神もお気に召すであろう」

 大きな掌が頬を撫で上げ、そして離れた。
 正体がばれたわけではないとわかり、安堵に肩から力が抜けていく。
 
「今宵は宵祭よいまつり。早速神子としての役目を務めてもらうぞ」
「……は、はい」

 お願いいたしますると返した声は、微かに震えてしまった。
 ここまで来たら、もう逃げ出すことはできない。
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