呪われた悪女は獣の執愛に囚われる

藤川巴/智江千佳子

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「まだ本調子ではないのか?」

 獣人は、魔力が底をついたことを察することもできるのだろうか。

 真剣な顔つきをした男に問われ、ソフィアはただ首を横に振る。

 まさか、この男とこれほどまでに長く会話をする機会が訪れるとは思ってもいなかった。ソフィアは、今更ながら、今日、この場では、この男の気が済むまで会話に付き合わなければならないことを察してしまった。

 ルイスは、かなり前からソフィアが獣人に憎悪の感情を持っていないことに気付いていたのだろう。

 ——それならば、初めに気付いたところから、記憶を操作しなくてはならないわ。

 危険な橋を渡ることになることを理解しながら、ソフィアは結局、無駄な演技を取りやめることにして、深く息を吐いた。

「貴方ってどうしてそうもお人好しなの? 呆れるわ」

 まずはそれなりの信頼を得て、全てを吐かせる必要がある。

 ソフィアはルイスの瞳が苦手だ。

 全てを見透かされてしまいそうで、見つめているのが恐ろしいのだ。だがその瞳が全てを見透かすように観察していたのは、おそらくソフィアただ一人だけだろう。だからソフィアは、この男と対峙する間、常に居心地の悪さに悩まされていた。

 取り繕うことなくソフィアが声をかければ、ルイスは一瞬目を見張って、眩しい光を見つめるかのように目を細めた。

「乙女を奪った男に対してお人好しとは、貴女は酔狂だな」
「……獣人嫌いの悪女を助けるなんて、貴方のほうがおかしいわよ」
「貴女がライとの密かな児戯を楽しむような者でなければ、俺も興味を持ったりしない」

 興味を持たれていたのか。

 ソフィアは思いもよらぬ言葉に、僅かに胸のうちがざわめいたのを感じとった。男は、王都の乙女たちを騒がせる美丈夫だ。ユリウスやテオドールのような麗しい顔の男たちに囲まれても、何一つ心が動かなかったソフィアは、なぜ、己の胸がこうもざわめくのか、その理由がわからなかった。

「フローレンス?」
「その呼び方は……、やめて」

 どうせ、明日には記憶を消す相手だ。

 もう何度も周りの人間に言いかけた言葉がぽろりと口を突いて出た。ソフィアは、己の名がフローレンスであることを、心から恥じている。恨んですらいるほどに。

「別に、何でもいいわ。総司令官でも、悪女でも、お前でも。ただ、その名前だけは、いやよ」
「それが貴女の本心か」

 ルイスは問いかけておきながら、ほとんど理解しているような顔つきをしている。理知的な瞳を持つ男だ。獣人の男たちは、肉体労働を得意とするものが多いからか、血気盛んで猛々しい印象を抱かせる者が多いが、この男はその力強い瞳の奥に、知性を飼いならしている。

 面倒な男に興味を持たれてしまったものだ、とソフィアは内心で途方に暮れつつ、羽織っていた男のシャツの袖に腕を通した。袖の丈があまりにも長すぎるため、ソフィアの指先がすっぽりと覆い隠されている。その袖を捲って、ルイスがしようとしていたように前ボタンを留めた。

 ルイスの軍服だろうが、黒シャツはソフィアの太腿を覆い隠すほどの大きさだ。改めて己の格好が酷く乱れていることに気付いたソフィアは、僅かに顔を赤らめながらか細く囁いた。

「あまり見ないで」
「……ああ」

 ややあってから返事を呟いたルイスが、手近に置かれていたタオルを引っ掴んで、視線をそらしたままソフィアの足元へ投げ込んだ。晒しだされていた白くほっそりとした足が隠れたのを見たソフィアはようやく一つ息を吐き下ろし、心配そうに隣に来て、ベッドにあごを乗せた友人を見下ろす。

「貴方、まさか、この方のお友達だったなんて」

 狼に、騎士様——ルイスの陰口を囁くのが、ソフィアの密かな趣味でもあった。それがまさか、狼の主がその男だったなどと想定しているはずもない。声を潜めて囁けば、ライは不可思議そうに首を傾げた。

 返事をすることなくぱたぱたと尻尾を揺らしているライが、軽い身のこなしで寝台に上がり、ソフィアの横に座り込んだ。そのまま甘えるようにソフィアの腕に額を押し付けてくる。
 
「貴方、ライと言うの? 良い名前ね」

 可愛らしい甘えに笑みを浮かべたソフィアは、ねだられるままにその頭を撫で、嬉々として尻尾を振り乱すライにその手をべろりと舐められた。

「っん、」

 得も言われぬくすぐったさに声を漏らしたソフィアは、目の前でじっと目をそらしていた男が、ぎろりと彼女を見据えたことに気付かなかった。

 獰猛な獣の目をした男が、狼と戯れる美女の姿を見つめる。彼の瞳に映るソフィアの姿は、獣に襲われる乙女のようだ。無防備なソフィアがくすぐったそうに微笑むのを見たルイスは、たまらず声をあげる。

「ライに見られるのは、咎めないのか」

 すでに、ソフィアからの願いを退けた男が、彼女の瞳を覗き込んでいた。

 まるで我慢の利かない獣だ。構ってもらえないことに腹を立てる可愛らしい飼い犬のような言葉に、ソフィアは僅かに反応が遅れてしまった。

「貴方と違って、ライは不埒な真似をしたりしませんわ」
「ライに全身を舐められるのは、気にしないのか」

 相変わらずソフィアの手を舐め続けるライを見下ろすルイスの問いに、彼女は狼狽えるばかりだ。ソフィアは、獣人を人間として認識している。狼と人間とでは、舐める意味合いが異なることくらい、ソフィアも理解しているつもりだ。

「何が言いたいの?」
「随分と仲が良いようだな」

 陰険な声に囁かれたソフィアは、男が断りなく身体を寄せてくる動作に咄嗟の反応をし損ねた。ソフィアの身体を挟むようにして寝台の上に両手をついた男が、ソフィアに顔を寄せてくる。

「貴方、使い魔に嫉妬を……っん、ぅ!? っんん、ふ」

 主である自分よりもライと仲が良いソフィアを見て、腹を立てているのだろうか。ルイスの不可解な行動を見て声をあげようとしたソフィアは、咎めるように覆いかぶさってきた男に顎を引き寄せられ、瞬く間に唇の自由を失った。

 初めから欲望に任せてソフィアの唇に噛みついた男は、その柔らかい感触に脳幹が陶酔するのを感じながら、攻める手を緩める気もなく分厚い舌をソフィアの口内に潜り込ませる。

 男の舌を噛めばいいものの、ソフィアはルイスに蹂躙されている間、ただ混乱し、弱い力で彼の胸を叩くだけだ。そのか弱い拒絶で、いきり立った雄が我慢を思い出すはずもない。

 ねろりと舌先を舐め吸った男は、感触を楽しむようにソフィアの舌を嬲って歯列をなぞってくる。彼の手はソフィアの頭の裏を弄り、金糸の柔らかな感触を弄んでいた。

「っ、あなた」
「ルイスだ」

 唇が解放され、陶酔しきった頭でようやく非難の言葉を口に出したソフィアは、間髪入れずに訂正を入れられ、言葉を失ってしまった。この男がルイス・ブラッドであることはよく知っている。

「ソフィア。ルイスと呼べ」

 背筋に甘い痺れが走るような声だ。ソフィアはその声に自身の名前が呼ばれた記憶を思い返して頬が熱くなるのを必死でごまかした。

 ソフィアの名を何度も呼んでいた男の姿は、どうやら夢ではなかったらしい。

「名前で呼ぶのはやめて」
「注文が多いな」

 呆れ声をあげたルイスが、もう一度ソフィアに顔を寄せてくる。いつの間にまた寝台の上に身体を倒されたソフィアは、慌てて男の唇を手で塞いだ。

「……これもいや」

 ルイスの滑らかな肌に触れたソフィアは、眉を寄せた男にやんわりと手を拘束された。無言のまま見下ろしてくる男と視線を合わせるソフィアは、とうとう根負けして静かに声をあげる。

「……ルイス」

 奇特な男だ。まさか、因縁の相手と親しくなろうとするような男には見えない。ソフィアはやはり内心で、ルイスの胸の内を測りかねていながらも、静かに彼の瞳を見上げた。
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